引き揚げ当時の預金通帳があります。16人(韓国人名うち、女性2名)と7人(日本人名)が連なっています。父の当座預金や手形もあります。
終戦後、大変な苦労をして生き延びて日本に到着したそうです。安全な夜にかけて、部下に先導されても歩いたと、聞いています。
母は、二十歳そこそこの年齢でした。姉は赤ちゃんで、船中で泣かせないように、乳房を含ませていたので、気がつくと、ほっぺは赤い血でまみれていたそうです。
海の潮風で乳房がいたんだのでしょう。 九州に上陸した時も、機関銃を浴びたようで、本当によく死ななかったと、伝え聞いています。
今、手元にある通帳も、当時、苦心して持ち帰った形跡が見えます。 母から預かっています。資料として寄贈したいと思います。
今日、さきほど、何十年もの前の故人のもろもろの無念が遂げられたのだと、黄泉人と心を通わしたような気がした。
協会に関心を寄せたのも、渋沢栄一という実業家の話題がときどき書かれていたからだった。まだ書きはしないで、ときどき読んでいる会員だった。
自慢するつもりもないけれど、当時の実業家の話題を母からときどき聞いていた。父は白髪で、脳梗塞をおこして言語障害に陥ったけれど、母がよく語った。茶化されては、父は脚を揺すって喜んでいた。
旅立つのに、どこか不思議な思いに駆られている、今晩は。
それにしても、勤務して、預金をされていた当時の韓国の女性の存在が気にかかります。
苗字は同じです。