好評なボストン展の入れ替えがあったそうなので、出かけてみた。 本当によく人が並んでいる。 一日中、連日 同じだそうで、
さっさと別の館内を楽しむことにした。 絵巻物につぃて係りの女性に質問をすると、それも良く調べて答えてくれるほどだった。
が、こんなところまでテレビの編集が一個人に投げかけられ、何を言おうとしているか・・・・、日常にまで及ぼしているのを意識して放送業務に
尽くしてほしいと、記録しておく。 この内容は、「本当にひどいわ」と、何年にも及ぶメディアが及ぼす一個人の捉え方に配慮すべきだと、
ブログに書くように至った。スタッフや形が変わっても、姿勢に変化をしているとは、言えないので、 あまりに露骨な内容は直接声にも出してきた。
館内に、見返り美人のようなポーズをした個人蔵の仏像が入り口近くにあった。 二階から鑑賞してきたので、私には最後の鑑賞になった。
弟子を引き連れているのを見ているような場面だそうだ。
博物館や展示をとても愛好しているような年配のご婦人としばらくおしゃべりをしていると、最後にぶっきらぼうに放った。
「秋篠宮の由来になった仏像がありますよ、とても素敵ですよ!」その女性の立ち去り方と、放った声の様は、おかしな感情が残っているように感じられた。
そのご婦人とのおしゃべりで、ひとことも皇室の話題などなかったのに、であった。
(人は、悪いと感じられる面に、反応を示します。メディアが行ったような類を日常生活で高飛車にさえサービス機関で及ぼします。それが、放送関係者の知らない、体験しない事実。
何かひとつに熱中し過ぎると、それの半動で客観性が失われ、あははで済ますような非常に勝手な都合のよい御商売が見えてしまいます。)
少しばかり時間があったので、東京駅を眺められるかと、お昼に丸ビルに入った。
隣には二人の女性が席についていて、おしゃべりがすぐに耳に届くような距離だった。
「T市のTデパートの丸々コーナーにはおいしい店が入っているわよ。 あそこまではあまり出かけられないけれどね。そういえば、赤ちゃんがもう英語をしゃべっているそうだわ」
ふ~ん、そうなの。 ちょっとボリュームがね・・・・
都市伝説丸々という本もあったけ。携帯では写された写真も簡単に伝えられるわ。
5・30 朝の出だしから夕方にかけ、夜までの放送編集で、気付いた。相変わらず、同じ方法を使って、一個人を浮かびあげ、何かを告げようと、視聴率利用している。チッコイ
差別化しているのに気付いていない。
この姿勢が、視聴者、生活の場においても、繰り広げられているのを意識するべき問題と、カキ置く。
故人に対する批判めいた助言を再度ここで伝えるにしても、おかしな問題だけれど、「主催者が一人だと、好き勝手にできるんですよ。
<私の言う通りにしないと、本は出さない>と、告げ、押印をしてもらい、さっさと会を辞めなさい」とは、最後に出かけた弁護士の声だった。
自分を守るために、相手をよいしょしてきた姿勢は、nhkの全国版放送あるいは民放の猛るようなCMでは、揶揄だったり、中傷めいた扱いだったりして、それが現実の生活にまで波及し続けてている。
日食の放送で、一〇〇〇〇〇〇〇〇の数値の代価を払ったって、知ったわねえ。 一個人の生活はごみくず扱いにしている姿勢が見えなくもないようだけれど、公共放送という名の下に
何をしているのかしら? (人は、悪いと思われることに反応をします。)日ごとの糧を得ているのではないnの?
そうできずにいる人もたくさんいるのよね、これを知って取り上げ続けているじゃないですか。 こんなに便利になった世の中でも、自然災害国なのでしょう、日本は。
心を整理するため、ダブルスタンダードに陥った、もっと早く逃げれば良かった、とは、けして告げない。 相変わらず生活の場から竜巻は浮上しています。
本当にしなくても良いことを、喪に陥って鬱から抜け出すために相談を頼れずに過ごしてきたと、述懐する。過去の放送が思い出されてしまった。
本当に怖いこと・・・・・ 結婚紹介所まがいの電話や、声の電話、脅しめいた束ね要求あるいは、もてもて境遇!? 何故?
こうして、今でさえ、現実への対処の仕方にさえ、憂慮している。nhkを見る機会(まあ、CMカットで、安心した娯楽でもありうるだろうと)が多いから知りえる放送姿勢でもある。
現実の生活影響真理を知らずに仕事に励んでいるからかもしれない。だから、教えてあげよう、善意から。BPOって、放送倫理機構という名前なんだ。けして、寄稿や紀行ではなかった。
改めて、放送関係者に従事している高飛車な姿勢の女性及び男性に。「あなたならどうする!どうした!」
鬱状況では、きわめて安全な状況も働きます。お金が大切になるけれど、ザル状態になります。
だから、顕れている症状はきわめて安全弁でもありえます。 どこまで、当時の一個人になりえるだろうか、秀でた才能の職員として。
ああ、足りなかったといって、まだお出しするべきですよ、と、誰かさんみたいに、nhk全国版番組が総力で相変わらずメッセージを繰り広げているのでしょうかねえ。
どれほどの暮らしを誰と比較してこのようなことを放送で公に述べるのでしょう。 しつくせないくらいのことを、受容されずにしてきたと思いますが。 本当はごく大切にされて好いとね。
放送編集者側が事実を曲解して、自己都合で他者攻撃をしているように思えなくもないのは、博物館や街、ツアー利用の旅行や購入先カード会社・暮らしのそば他から経験した事実が示しています。
これが、放送関係者の知らない、見えない事実であって、意識の変化を望むべく改めて繰り返し、記録しおく。何かが変わったとしても、変わっていない姿勢も依然と継続されて、出版後10年経つ。
指摘された作品をファックスで送るように言われ、受賞作として扱われ、誰もが行うように励んだ喪中のとりなしごと的作業。 ペンネームで行っていたのに、編集効果か、本名を望まれた。
全ての作品が代価を支払い、締めくくる言葉さえ、聞いていた。
クリスチャンも言いました。 恋は変わるわ、愛は? けれど、キリストの愛は・・・
このさまざまな場面で発せられてきた「愛」という極め文句に、なんと私たちは彷徨わされてきたのではないだろうか。
ひとこと、人ごとで「結婚」にもさまざまな形があって、そうし続けることが、完成した人間であるとは、限らないのが、「一度、だれも結婚したらいいのよ」とは、クリスチャンの声。
ときどき出合う人、丸々しました文言加え聞き、こう、感じる。
生き続けているのが、まるで修羅でもあるかのように、吐く。 男と女はどれほど本当に安穏として居続けられるだろうか。 些細な現実をそらしながら日常をそれなりに営んでいる。
なんと、偉い人が多く輩出しているのかと、つくづく感じる佳き知らせ。
そして、「亡くなりました」文言に、何かを猛々しく誇示しているかのように、感じられるおまけの昨今。 これが恥ずかしさの自己清算?
企業も組織も家庭も時間が経てば、当然のように変わるでしょう。かわらないように見えてもねえ。
恋愛感情は、時経て、どれほどの色で私たちを照らし続けるでしょう。結婚はいかがでしょう。表現物は、あくまでも固定化された個人的形骸物。真実を編み出す必要があっただろうか。
自分の内に吐く声と、他に吐く声に違いがないとしたら、なんと危険でしょうか。吐かずに生きている人も多くいるでしょう。 強制なんかありようはずもない。
これほど便利になっても、このようなさもしい状況が続いているのは、いったい、何故なのでしょう。
さあ、喪の内にあり、よその関係を傷つけたでしょうか。 未知の人の恋愛関係に一個人が責任を求められるはずはないでしょうが・・・こうアクションをとったとしたら、曲解ですよ。
経済や人口分布によっては、その恋愛刺激モードさえ変わりうる。 自分の心に手をあて、はたして人の恋愛沙汰を責められるでしょうか、と問いたくなる。
重たい関係など、一個人が望む作品を描けば是とするような作業など、心が縛られる関わりなど、自分の一生で望みますか? 代価を担保にして、秘密保持弁護なんかあ?
ひとりひとり望まれて生まれてきたと認めるのが現実の社会の希望ではないんの! 修羅場世界と受け止めるならば。
どんなに器量よしでも、どんなにか魅力的でも、他人のプライバシーに公でづかづかと放つなよ、と。 だれも、好みはしないでしょう。
と、いたってまっとう。