久しぶりに涙が零れ、家に戻ると眼鏡の下の淵が汚れていた。悲しい映画というわけでもなく、何かが揺さぶられたのだろう。
―「貴女はもっと泣くべきだ」と言われるほどにその人からの言葉はつらく、遠ざかりたかった。―そんな時期もあった。
このところ、何か自分を吐き出すでもなくブログも気ままにしていた。が、こんな時こそ書いておきたいと動かされる。
音楽は自分の中に積もっていて抑えていた塊が噴き出すエネルギーだっただろう、あの映画のヒロインにとって。音楽を効果音として大げさに演出したわけでもない、けれどヒロインの変化を促すような音楽に私はぴたりと呼応し、時に椅子の上で体がスイングし、涙はこみあがってきた。
そして「青春の光と影」の訳されたテロップの歌詞を見るたびに関心が沸き起こっていた。「いったいどんな人がいくつで吐いた詩なのだろう・・・」
英語の歌詞は both sides , now とあり、ジェニ ミッチェルは、当時歌が生まれた時の背景が今では記されている。時に夢にも表れそうな深層に入り込んだだろう、文学作品の言葉だったようだ。27歳の時である。現在7歳違いで、ちょうど姉の年齢に近い。だから、当時の27歳は影と光を切り取った経験時間の中に十分感じ取っていたかもしれない。
ただ、文字言葉が作品から人に感銘感覚を残すこともあるし、詩を書いていた時期もあったから呼応したのかもしれない。
と、私自身の関心箇所はパソコンによってなんとなくわかり始めた。
(が、映画で歌われた歌詞はオリジナルとはところどころ変わっているのに気づいた。当時の恋愛へのとらえ方や取り組みが社会とともに変化しているからかもしれない。)
歌や歌詞は、映画を見て味わえる楽しみに変わった。涙は文字言葉で時に奪われもし、言葉は音を友として揺さぶりもする。