耳納の神々

この山から見る平野も川も壮大です。やっぱりこの山には神々がいらっしゃいます。
山の神にご挨拶するために今年も登るぞ~

天之水分神 in 英彦山神宮(11)

2009年09月21日 | 福岡県の神社
やっと英彦山神宮 奉幣殿に着いた。

そこで上宮、玉屋神社の御朱印を頂けるかきいてみた。
でもやっぱりダメだった。
英彦山神宮だけですって(^^;)

御朱印を待っている間、ご神水を頂く。


説明は↑をみてね(^^;)

しかし苦行はまだまだ続く。
奉幣殿にお礼参りをして、駐車場まで下っていく。
この登山でどこが苦しかったって、この参道の下りがきつかった
足が痛くて痛くて・・・
右足が痛かったのだけど、それをかばっていた左足も痛くなっていた。
もう体はガタガタ(^^;)

この階段の下り。体に悪いよ(^^;)





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やっと着くぞ 英彦山神宮(10)

2009年09月21日 | 福岡県の神社
玉屋神社からもアップダウンは延々と続く。
もう下りたくない。だって又登らなくっちゃいけないから。

学問社とかあるけど、もう寄り道は無理(-"-;)
ひたすら英彦山神宮 奉幣殿を目指す。

もう体も頭もおかしくなってきた。
すぐ後ろから足音が聞こえたり、耳元で声が聞こえる(-"-;)
誰かを連れて帰っては大変と気力を立て直す。
気のせいなら、それがいい(@_@;)

南岳あたりから、抜いたり抜かれたりしている4組ほどの方々も疲れが出ているのが分る。

そんな状態でいるとき、神社の鐘の音が聞こえた(・_・)エッ....?
もうすぐ???\(^o^)/

あそこに奉幣殿と社務所がみえる\(^o^)/

そして玉屋神社から1時間でやっと英彦山神宮に着いた。

しかし最後に谷を下って行ったのだけど、どうも間違ったらしい。
出たところは社務所の裏側。
崖を伝ってやっと広場にでた(-"-;)

6時間15分。13.3k

お疲れ、私。お疲れ、夫よ。
まだまだ運転、お願いね。


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玉屋神社 in 英彦山(9)

2009年09月21日 | 福岡県の神社
鬼杉の裏には窟がある。

そこから沢をわたり、登って、下って、登って、下って登って下って登って下って・・・をくりかえすこと55分。
やっと玉屋神社に着いた。
途中鎖場があったり、ロッククライミングのような岩をよじ登ったり
本当に大変だった。


古い由緒書きには「高天原この堀にて瓊瓊杵尊御降生おそばされ日向之国に天降り給いし霊地」とあります。

般若窟とある。

英彦山の古い記録「彦山流記」では彦山の始まりは、玉屋窟であるといわれています。彦山の開祖はこの窟で修行した、恒雄という人だったのです。恒雄は、この窟でながいあいだ一心不乱に修行を積んで、如意の宝珠(世の中の人々を救うためにたいへん役立つ不思議な力を持つ珠)を授かりました。その珠は窟の奥から小さな倶梨伽羅(竜)が口にくわえて細い水の流れにのって現れたのです。珠が出現したことから、それまで般若窟と呼んでいましたがそれを改めて、玉屋窟と呼ばれるようになりました。
 英彦山には修行のための窟が49ヵ所あったということで、いままでの調査では48ヵ所まで推定できています。まだあと1ヶ所だけ分かっていません。(添田市サイトより)




ここからは30分くらいで着くはずです。
果たして着くんでしょうか・・・

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英彦山神宮(8) 鬼杉

2009年09月21日 | 福岡県の神社
怖ろしい道を100分も下って、やっと鬼杉へ。


説明は↑で(^^;)

 
見上げても一番上が見えないほどよ

ここで15分ほど休憩。

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英彦山神宮(7) 材木石

2009年09月21日 | 福岡県の神社
南岳からの道はすごかった。


鎖場もずっと続き、それが終わったかと思ったら、川の底のような石だらけのところを歩く。道なんてないのよ(-"-;)

この画像でそのすごさが分るだろうか・・・(-"-;)


時々見える景色。山深いところにいるのがわかるでしょ。
道を間違えたら遭難するよ。
いや、1歩踏み間違えたらしんちゃんパパの二の舞よ。


こんな道をずっと下って行きます。
こんなに下っていいのかな~~~


やっと着いた材木石。



説明は↑を見てね。
この石をみると、ここだけ石があるようでしょ。
でも下は道無き道。岩だらけ。どこに足をおくか迷うようなところ。
何人か追い越されたり、すれ違ったりするから、道は違っていない事がわかるけど、これが私たちだけなら、遭難したかと思うようなところなの。


 
画像じゃあの厳しさが伝わらないわね~残念!!
ぜひ行ってみて。すごいから。



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英彦山大権現社<(6)

2009年09月21日 | 福岡県の神社
中岳から南岳へと向います。

途中 上宮が見えます。あそこから来たのよ~

そして10分程度で南岳頂上へ。
そこには「英彦山大権現社」がある。


そしてここからこわ~い下山ルートへと続きます

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英彦山神宮(5) 上宮

2009年09月21日 | 九州百名山
産霊神社からは10分程度で上宮へ。

でも中も見られず・・・残念。

御祭神・・・天照大神の子 天忍穂耳命(あめのおしほみのみこと)

ここまでは2時間程度。4.7kです。
中宮あたりまでは階段が多くて大変でしたが、それ以降は歩きやすい道でした。
ここまではサインで登ることができましたよ。

中岳 標高 1200m 

又自信がつきました

お宮の裏側には売店があると書いてあります。
確かめはしなかったけど・・・あるのかな~
そこにはいくつものベンチがあり、みんながお昼ご飯を食べています。
私たちも又おにぎりを食べて、ちょっとゆっくりします。
そうこうしているうちに続々と登ってきます。

じゃ~下りようかと上宮の前を通ったところ、どこかのおばちゃんが戸を開けてお参りしています。
え~~~っ、戸を開けていいんだ!!


ここにも落書きが 情けないぞ、日本人。
まぁ外国に行っても同じような事をするんだから、軽率よね。
罰が当たるなんてしらないんだろうね~

そして同じ道を下るのは面白くないからと南岳へ向う私たち。
これからこんな苦難が襲ってくるとは・・・

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産霊神社(行者堂)<(4)

2009年09月21日 | 福岡県の神社
中宮までの道も、中宮からの道もずっとこんな感じ。
どこまで続く・・・(-"-;)

そして30分くらいで産霊(むすび)神社へ。
途中あまりにお腹がすいて、おにぎり食べた私たち
まだ10時半だったんだけどね


お宮は落書きがいっぱい。
情けないね~ 飯商とか書いてあったぞ。学校のボランティア活動で全員で消すべきだぞ。校長!!


説明は↑を見てください

ここには井戸がある。
昔の行者さんたちには、貴重な水だったんだろうね。





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英彦山神宮(3) 中宮

2009年09月21日 | 福岡県の神社
下宮を過ぎてすぐこんなところが(@_@;)
鎖がこのあたりにあるなんて知らんかった~


そして30分ほどで英彦山神宮 中津宮へ。(津が入ったり、入らなかったりなぜだろう(^^;)

ここはとても新しい鳥居とお宮。
平成5年とある。きっと平成3年にあった台風17号19号で壊れたのね~

御祭神 田心姫神(たごりひめかみ)湍津姫神(たぎつひめかみ)市杵島姫神(いちきしまひめかみ)

お~こんなところに宗像の神様達。

詳細は↑で見てください(^^;)

こんな山奥に、こんな大きな石を運ぶなんて(@_@;)
ヘリコプターで運ぶのかな???

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英彦山神宮(2) 下宮

2009年09月21日 | 福岡県の神社
奉幣殿の横のこの鳥居から山へと向います。

階段を上っていくと3分もしないうちに下宮に着きます。


御祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)伊弉諾尊・伊弉冉尊

すぐ下には奉幣殿が見えますよ。


「英彦山」という山名は、社伝では天照大神の御子(日の御子)である天忍穂耳尊を祀ることから「日子山」と呼ばれるようになったとしている。弘仁10年(819年)、僧・法蓮が、山中で飛来した鷹の落とした羽に「日子を彦と改めよ」と記されているのを見て当山を再興し、「日子山」を「彦山」に改めたとされる。
12世紀より天台宗に属し、西国修験道の一大拠点として栄えた。
当時僧坊3000余、49窟を有するといわれたが天正年間(1573年~92年)秋月氏・大友両氏の兵火が及んで焼失、近世初期に小倉藩主細川忠興が社殿を再興した。
焼き打ちや寺領廃止もあり打撃を受け、江戸時代以降は衰微した。元禄9年(1696年)に天台修験の別格本山となった。享保14年(1729年)、霊元法皇より、天下に抜きん出た霊山であるとして「英」の字が授けられ、「英彦山」と称するようになった。

さぁここから出発です。

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