気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の5 「街なか食べ歩き」

2016年12月16日 | 倉吉巡礼記

 続いて大岳院に行きました。その山門も被災で軸部に相当の負荷がかかったらしく、柱が内転び状態になってやや西側に歪んでいました。倒壊を防ぐための応急処置として補強材が添えられていますが、屋根の木組みにもかなりの負担がかかっているようなので、いずれは瓦を一端下ろすぐらいの修理が必要になるものと思われます。


 なので、参道は立ち入り禁止となっていました。山門を横に見つつ、駐車場から斜めに楼門前へ入るしかありませんでした。


 本堂前にあった山形まり花のパネルも無くなっていました。地震で損傷したのではなく、もっと以前から撤去されていたそうです。どうもイタズラを受けたらしく、パネルがひん曲がり、折れたような形になってしまっている状況を、既にTさん撮影の写真で知らされていました。とりあえず修理しているらしい、ということでした。


 引き返して、上図の「くだものや」で一服しました。このお店のスムージーを一度味わってみたかったからです。


 メニューはこんな感じです。三種のスムージーがあり、ナッツ類を中心としたメープルグラノーラのトッピングも用意されています。


 で、リンゴにメープルグラノーラのトッピングでオーダーしました。普段のおやつが素焼きナッツ類なので、こういうスタイルの飲み物は個人的に好きです。


 「くだものや」から見た風景です。屋根にブルーシートが掛けられていますが、建物本体にはさほどの影響が無かったようです。


 イベント中なので、他にも色々なお店でおやつ的なメニューを提供していました。ちくわを取り入れた品が多かったのですが、これは何だ、というような初めて見るものも少なくありませんでした。
 食べたい、という気持よりも、これは何だろう、という疑問の方が先に立ってしまいがちなので、もう少し説明というか、どんな食べ物であるかの案内がワンステップ必要ではないか、と思いました。


 あちこち回りましたが、行列が出来ていたのが「ここなつ」の姉妹のいる「新来軒」でした。


 ここでもちくわ関連のメニューでしたが、中華料理店らしく、春巻きのコラボで勝負していました。これは分かり易いし、どんな味か大体想像がつきますので、食べてみようか、食べたいな、といった気分になりやすいです。「倉野川市民」および「ちくわ軍」の若者たちが並んで買っていたのも当然でした。


 Tさんも私も列に並んで、女将さんの手慣れた品捌きぶりをしばらく見守りました。


 今回いただいた「ちくわ春巻」です。ちくわ入りの春巻ですから、味もそのまんまです。

 聖地巡礼における楽しみ方として、よく「食べ歩き」が挙げられます。ガルパンの大洗でも既に一定の食べ歩きコースが定着して人気を呼んでいますが、食べられるメニューの豊富さという点では、大洗よりも倉吉の方が勝っているように思います。現時点では「ひなビタ」イベント期間のみの限定品が多いのですが、それ以外でも幾つかの定番グルメがあり、かつその種類も多いです。

 ですが、こういう食べ歩きの元になる参考情報の発信というものが、倉吉は大洗に比べて大変に少ないです。食事処のガイドや案内は数多く出されているのですが、それは大洗も同様です。大洗ではさらに、実際に食べたものの写真や味の感想がリアルタイムでブログやSNS等で毎日のように流されているので、それを見て食べたくなった人が現地へ向かう、という好循環を生んでいます。
 ガルパンファンは、このグルメ情報のアピール行為を「飯テロ」と呼ぶようです。夕食後しばらく経って次第に空腹になってくる深夜の時間帯にネットをやって、前述の実食情報の波にさらされるわけですから、こんな食べ物があるんだ、食べたいなあ、よし大洗へ行こう、という気持になり易いです。

 これに対して、倉吉の場合はそういったリアルタイムでの食べ歩き情報がものすごく少ないです。そういう情報を発信している方があまり居ないようです。
 ファンの方々のツイッター等を見ていても、食べ物の写真よりも「ひなビタ」やパネルの写真が多いです。なので、倉吉へ行って白壁土蔵群エリアで具体的に何が食べられるのか、というキャッチーな情報群がほとんど構築されていません。倉吉の代表的フードである牛骨ラーメンすら、ガルパン大洗のアンコウ鍋ほどに多数の実食写真が投稿されていません。
 些細な事のようですが、これは地味に重要かつ決定的な差異だと私自身は思っています。人気が高くてリピート率の高い観光地の最も人気ある要素が「グルメ」であることを考えると、いまの倉吉の総合的な観光情報において何が不足しているのかが、よく理解出来ます。

 例えば、ガルパンの大洗では、ファンの方々だけでなく、地元住民やお店の方が自ら発信して「これを食べにおいでよ」とアピールするのが日常茶飯事になっています。食事処や店舗の案内をするのではなく、いま何が食べられるのか、何が美味しいのか、という重要かつ基本的なアピールをネット上で盛んにやっています。だから、大洗には、連日のように多くの巡礼者が訪れていて、しかもリピート率が上がっています。
 しかし、倉吉の現状はまったく逆です。「ひなビタ」イベントの期間でさえ、地元住民やお店の方が自ら発信してアピールしているケースを、少なくとも私自身はネット上で見たことがありません。当日に現地へ行って初めて知った、というケースばかりです。

 逆に考えると、倉吉の場合はそのカテゴリーにおいてもまだまだ「伸びしろ」があると思います。問題はその「伸びしろ」を具体的に理解して対応するだけの気構え、体制などが出来ているかどうか、ということに尽きると思います。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の4 「地震の爪痕」

2016年12月14日 | 倉吉巡礼記

 正午近くになったので、Tさんが「モダンへ行きますか」と提案し、そこへ向かっている途中で上図の新しいお店の前に着きました。「扇雀食堂」というお店ですが、Tさんも私も知らない所なので、試しにこっちに入ってみますか、ということになりました。


 定休日は日曜および祝日、というのが珍しいです。週末に遊びに行っても土曜日しか入れないわけです。地元住民を主な対象客層に絞っているのかもしれない、と思いましたが、店内には地元の方や高校生らが居て、まったく予想通りの状態でした。


 営業時間は11時から21時ですので、ランチもディナーも楽しめるわけです。


 定食メニューを見ますと、メインは中華料理っぽい感じがしますが、何でもあるようです。


 こんな感じで、何でも食べられます。町並み散策の食事処としてはなかなか良いんじゃないか、と思います。


 で、今回はカツカレーを頂きました。鳥取市に住んでいた頃はよくカレーを食べていまして、カレーそのものが鳥取市のオリジナルフードというか、近年は「鳥取カレー」とも呼ばれています。

 なにしろ鳥取県は、一世帯あたりのカレー消費額が全国トップクラスと言われ、その中心的エリアとなる鳥取市には、食堂や喫茶店やパン屋にそれぞれのオリジナルカレーが存在し、それを食べ歩いて楽しむ層が昔から大勢居ました。
 かつての私もその一人で、職場の帰りに鳥取駅近くの「喫茶ベニ屋」でカツカレーを、湖山町の下宿の近くでは「レストラン仏区里屋」で鳥取牛ステーキカレーをよく食べていました。あと「喫茶五島」や「スノーラスカル」のカレーも好きでした。

 ところが倉吉市には、あまりカレーの人気店が分布しておらず、私自身も倉吉で美味しいカレーを食べた記憶が殆どありません。倉吉では牛骨ラーメンの方をよく食べていましたから、カレーを食べようという発想が乏しかったのかもしれません。
 なので、今回のカツカレーは、久し振りの「鳥取カレー」でした。一口食べて、ああやっぱり鳥取の味付けやなあ、と懐かしい気持ちになりました。地震があっても鳥取はめげないだろう、カレーも昔からずっと変わらないんだ、と思いました。


 お店の斜め向かいにある喫茶店「モダン」です。今回は機会を得ませんでしたが、次のチャンスには行ってみたいです。


 午後は、Tさんと白壁土蔵群エリアの被災状況を見て回りました。もともと地震に弱い木造建築の集合体なので、地震の爪痕は各民家の至る箇所に散見されました。最も多いのが建物が揺れた際の一時的な歪みによる壁体の損傷ですが、上図のような、一部の漆喰壁の剥落、という形で表面化していました。壁体の大半が剥離して落ちる、というような被害は稀だったようです。


 建物が地震によってそれぞれに揺れると、その間にある門や土塀などの簡易建築や付属施設に相当の負荷がかかることはどの地方でも共通しています。古建築、新築を問わず被害を受けやすい部分で、瓦屋根の場合は木組みが曲がったりしますので、瓦がズレるか、ヒビが入るかして損傷します。
 上図の「くら用心」の裏門も、同様の損傷を受けていて、通行禁止になっていました。


 「元帥酒造」さんの北側の土蔵ギャラリーの壁面の大半が崩落し、上図のように白いシートで応急処置がなされていました。この処置はなかなかうまくいっており、白壁の雰囲気をうまく維持するのに役立っています。玉川沿いの土蔵群のなかで最も被害が大きかった建物ですが、それでも、この程度で済んだのだ、と私なりには感じました。むしろ、大部分の古建築に関しては、よく耐えてもってくれたほうだな、と思います。


 建築一棟単位での被害が最もひどかったのが、上図の「白壁倶楽部」の建物でした。石積みを用いているため、石がずれたりして建築の骨格にも相当の歪みが生じているようです。その歪みからくる一時的な衝撃によって、各所で漆喰壁の表面部が剥落しています。


 ですが、玄関部分の左右では壁体そのものが大きく歪んで外側にズレています。その下の石組みにも隙間やズレが多く認められ、それによるヒビ等が基壇化粧石にも認められました。石造建築の場合は、こうなってしまうと部分修理では対応出来ず、ある程度は解体して石を積み直す必要があります。数年やそこらでは、たぶん終わらないかもしれません。

 地震直後の文化庁の緊急調査においても、最も被害度が高いとされたようですが、国の登録文化財でありますので、その修理復原については、おそらく国が事業主体になるものと予想されます。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の3 「福庭古墳と「倉野川」イベント」

2016年12月12日 | 倉吉巡礼記

 波波伎神社の境内地にある福庭古墳の案内板です。古墳は本殿に向かって右側にあり、案内板の横から道をたどります。


 墳丘は円形ですが、現状では形がよく分からなくなっています。石室は南に向いて開口しています。羨道部分は長さが4.7メートル、幅が2.2メートルありますが、現状では大部分の天井石などが無くなっています。


 羨道部分と玄室とを区切る玄門は、板状に加工した巨石を左右にはめ込んで造られています。山陰地域の古墳ではよく見かける構造です。


 玄室の壁も大きな板石を組み合わせ、隙間なくピッタリと配置されています。古墳時代の終末期に属する遺構ですが、当時はすでに各地で仏教寺院が建設され始めていました。堂塔伽藍の基壇などを構築する際の切石加工の技術が古墳の石室にも応用されたのでしょう。


 上部では切石を壇状に重ねて巨大な天井石を支えています。先日の地震にも耐えて全く異状を見せていないあたりに、その優れた石組み技法がうかがえます。見事なものだな、と感心しました。以前に見た三明寺古墳の石室も同時期同工の出来です。


 玄門から外を見ました。黄泉の空間から現世へ戻ります。


 そして白壁土蔵群の町並みに戻ると、雰囲気は一気に「倉野川市」ムードに転じました。ひなビタイベントが既に始まっていました。


 全国から集まった「倉野川市民」および「ちくわ軍兵士」たちが行列を作って物販コーナーを目指していました。先日の地震にも希望を捨てず、宿のキャンセルもせず、震災復興応援にと駆けつけた若者たちでした。
 これが全国に数個師団を数えるとされる「ちくわ軍」のパワーなのか、と感心させられました。


 物販コーナーは、桜まつりや打吹まつりの時と同じく、東仲町公民館に置かれていました。この形がどうやら定着したようですが、行列が出来るのは毎度の事なので、一ヵ所とせずに三ヵ所ぐらいに分けて販売を行ない、行列待機時間を減らす方向にもっていった方が良いように思います。
 その方が、ファンの皆さんも時間をもっと自由に使えて町中散策やパネル巡りなどを楽しめるだろうと思います。


 元帥酒造さんの山形まり花パネルをとりあえず撮影して、それから近くの「集」の店先を見ていたら、偶然にもTさんと出会いました。以前に大洗へ一緒に行ったこともある、倉吉在住の知人です。
 その後はそのまま一緒に街中巡りをやりました。


 新しいパネルがありますよ、とTさんに導かれて「くら用心」の中庭へ進むと、まず「ここなつ」の姉妹がチャイナドレス姿で並んでいました。ついに公式設定の「中華料理店ロンロン」のバイト姿が実現しましたか・・・。


 その横には、倉吉絣をまとった日向美ビタースィーツの五人が揃っていました。ラッピングバスで見かけたのと同じデザインです。これはイベント後より赤瓦一号館の入り口内に置かれています。


 土蔵ギャラリーにて「ひなビタ」関連の展示品を見物しました。上図は日向美ビタースィーツの五人の声優さんたちの寄せ書きです。


 個人的には、やっぱり纒お姉さんが良いと思います。この時は市役所のデスクから「くら用心」の入口内に「出張」してきていました。
 ファンの方々が入れ替わり立ち代わり撮影しているので、その隙間をぬってパネルを撮りましたが、とにかく天気が良かったこともあり、大勢のファンで賑わっていました。後日に聞いたところでは、約1000人ぐらいが今回のイベントに集結していたそうです。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の2 「波波伎神社の杜」

2016年12月10日 | 倉吉巡礼記

 ラッピングバスを見た後、国道179号線を北上して清谷町2丁目の倉吉青果・魚市へ移動し、そこの「すずや食堂」に行きました。


 この日は自宅を早朝に出てずっと走りっぱなしだったため、ここで朝食にしました。メニューを見ると、大体の品が揃っているようでした。先客が三人居ましたが、みんな牛骨ラーメンを食べていました。倉吉の朝ラー、というやつらしいです。


 そこで、今回は私も朝ラーを楽しんでみることにしました。物流センター等の施設内にある食堂のメニューは、どこの地域でも美味しいと言われていますが、ここ倉吉の「すずや食堂」も例外ではないようで、牛骨ラーメンの味も独特の旨さに満ちていました。


 白壁土蔵群エリアに戻る前に、久し振りに近くの波波伎神社に立ち寄ってみました。境内地付近の曲がりくねった道を進んで、鳥居前を少し過ぎた辺りの道端に車を停めました。向かいの家の方に挨拶して駐車の許可をいただきましたが、その際に「神社には東の山から回っていったら車でも入れますよ」と教えられました。

 実は、その道は20年前に一度だけ通ったことがあります。神社の北側の宅地内の路地道からいったん東の山中に進み、ぐるりと回り込む形で神社境内地の東側に着いたのですが、大部分が未舗装の泥道で、当時の愛車エテルナZR-4がやっと通れる幅しかなく、時にドアミラーをたたまないといけない箇所もあり、ものすごく緊張したことを今でも鮮明に覚えています。
 しかも、神社境内地の段差で車の底部をこすってしまい、鈍い音にドキッとしたのもつかの間、今度は向きを変えるのに充分なスペースが無く、本殿の横で苦労してUターンしたのでした。


 なので、この神社には車で入らない方が賢明です。南の鳥居から参道を歩いていった方が楽です。


 一帯は、倉吉市の保存林に指定されています。広い社叢の中心部にはスダジイの老木が数本聳えて神域を護るかのように並び立ちます。この神社には何度か来ていますが、建物よりもスダジイの印象が強いので、今回は木の写真は撮りませんでした。


 長い参道の右手には広い空き地があって、かつてはなんらかの施設があったように思われますが、詳しい事はよく分かっていません。
 社名の「波波伎」はハハキと読み、伯耆国の「伯耆」の古字体とされますが、史実であればこの神社が古代における伯耆国造の祭祀拠点であった可能性が考えられます。伯耆国造の祖は天穂日命ですが、波波伎神社の祭神は、かつて伯耆国造が祀っていた事代主命であるからです。境内に福庭古墳があり、七世紀に属する終末期の遺構である点から、伯耆国造氏の奥津城であった可能性が高いです。

 したがって、本来はこの波波伎神社が伯耆国の中心的な古社であったものと思われます。延喜式神名帳にも記載がある式内社であり、その由緒は古代に遡ると推定されますが、神階の授与がなされたのは平安期に入ってからです。承和四年(837)に従五位下に叙されたのが初めで、極位の正五位上に達したのは貞観九年(867)のことでした。つまりは平安期の初め頃にこの神社の位置付けが確定したものと理解されます。


 境内地は一段高い台地に設けられ、幣門が石段の上に見えますが、先日の地震によって多少の被害を受けたとみえ、屋根にブルーシートが懸けられていました。


 拝殿です。神社の拝殿建築にしては、どこか寺院建築のような趣をただよわせています。江戸期までの神仏混交の状況を色濃く残しているようです。


 本殿です。地震の被害がどこかにあったもののようで、周囲の玉垣には黄色の立ち入り禁止テープが巻かれていました。


 一般的に、伯耆国の神社、といえば、まずは一宮の倭文神社、二宮の大神山神社などが思い出されますが、それらの序列は多分に中世から近世にかけての信仰の蓄積にもとづいており、古代に遡ればむしろ波波伎神社の方が上位もしくは古社として崇められた形跡がうかがえます。前述のように、祭神が事代主命であるので、古代の伯耆の国づくり、まつりごとを担った伯耆国造氏との関わりが知られるからです。

 その場合、境内地にある福庭古墳の石室の造りが、倉吉市域でも大規模な古墳群である向山古墳群の盟主的存在の三明寺古墳のそれと共通するのが興味深く思われます。向山古墳群は約380基を数える群集墳で、その最終段階は八世紀に含まれるようなので、古代伯耆国の墓地的なエリアであったとみても間違いではないでしょう。
 そして、波波伎神社の周辺にも幾つかの古墳があるようです。未調査未解明の部分が大きいので確かなことは分かりませんが、古墳が多いのであれば、周辺一帯がかつては伯耆国造氏の本願地であった可能性が指摘出来るでしょう。

 伯耆国造氏は、先代旧事本紀収載の「国造本紀」によれば、成務天皇の治世期に出雲系の兄多毛比命(えたもひのみこと)の子の大八木足尼(おおやきのすくね)を国造に定めたことに始まるとされています。当時の伯耆は、古事記では「伯岐」と表記されていて、古くは表記が統一されていなかったことが察せられます。
 現在の「伯耆」に表記が統一されたのは、律令政府が七世紀に国を規定して国府を整備してからのことでした。その国司に山上憶良や淡海三船らが任じられたのは、周知の通りです。


 戻る前に、幣門両脇の狛犬を再び見ました。いずれも地震の被害が最も顕著で、向かって左側の吽形は、御覧のように基台の石が横ズレを起こして崩壊寸前の状態になっています。


 右側の阿形は、さらにまずいことに獅子像の台座が割れてしまっています。基台石の横ズレは少ないものの、このままだと獅子像が倒壊する危険があります。早急な修復措置が望まれるところです。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン8の1 「ひなビタラッピングバス」

2016年12月08日 | 倉吉巡礼記

 2016年11月12日、ひなビタイベントの秋バージョンとして予定されていた「もみじ祭」が、地震のために内容を縮小して開催されることを知り、その一日目分の見物を兼ねて倉吉に出かけました。朝7時に家を出て、9時17分に倉吉の鉄道記念館前に着きました。


 当日は晴れ、記念館横の蒸気機関車C11型の車体にも陽光が当たり始めていました。


 とりあえず、鉄道記念館内に進んで、ベンチに腰かけて少し休憩をとりました。持参したお茶を飲んで、喉を潤しつつ、展示機関車のデッキに立つ芽兎めうのパネルを見ました。


 芽兎めうは、今日も元気でした。がんばれ倉吉、地震に負けるな「ちくわ軍」、めうー。


 さてこの日の最初の目的は、鉄道記念館の向かいの明治町観光駐車場での、ひなビタラッピングバスの披露展示でした。


 今回のイベントの目玉の一つとして、計2台のひなビタラッピングバスが、日ノ丸自動車さんの協力によって初公開展示となったのでした。右手前が市内路線用の乗合バス、左奥が長距離路線用の大型高速バスでした。


 長距離路線用の大型高速バスは、車体も大きいので、ラッピングデザインも大きくゆったりとレイアウトされています。


 車体左側には、日向美ビタースィーツの5人が並びますが、山形まり花、春日咲子、霜月凛の3人は二体ずつ描かれてありました。


 車体右側には、5人がそれぞれ二体ずつ配置されています。いずれも倉吉の街中に配置されているパネルと同じデザイン画です。先頭には、先ほど鉄道記念館で見たパネルと同じデザインの芽兎めうが元気な笑顔を輝かせています。


 背面には、倉吉絣をまとった5人の姿が大きく描かれます。今回のイベントで新たに加わった5人のパネルと同じデザインです。


 市内路線用の乗合バスです。これのラッピング車はもう1台あるそうで、同じ仕様になっていると聞きました。共に倉吉市内の路線で運行される予定なので、今後は運が良ければ乗ったり見かけたり出来ることでしょう。


 こちらも日向美ビタースィーツの5人が並んであでやかさを競っています。多くはCDジャケットのパッケージデザインと同じ図柄なので、ファンにはどれも馴染みである筈です。


 背面のデザインは御覧の通りです。確か「乙女繚乱、舞い咲き誇れ」のジャケット画でしたかね・・・。


 設定では、戦国期の舞御前を和泉一舞、舞御前の側近の橘姫を春日咲子が演じて、倉野川市の「倉野川時代祭り」のパレードで活躍したことになっています。
 舞御前は、いちおう武家の武装姿になっているようですが、甲冑は最低限以下なので、どちらかというと足軽クラスの軽装に近いです・・・。と言うか、こんな武装姿は、実際の戦国期には有り得ません・・・。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の9 「打吹山城跡の記憶」

2016年11月09日 | 倉吉巡礼記

 打吹山城跡の主郭つまり本丸に着きました。Tさんは初めての登頂でしたが、周囲の眺望がほとんど樹木に遮られてきかないのに少しガッカリしていたようでした。


 北東櫓台上の城名碑にて、記念に撮っていただきました。20年前の二年半の鳥取市在住期にこの城跡には五度ぐらい登りましたが、記念写真を撮ったのは今回が初めてでした。


 ここでの再探索の範囲は、主郭の大手虎口から小鴨丸に至る範囲でした。主郭の北辺には、上図のように石積みがよく残っていましたが、辺りは藪化が思った以上に進んでいて、持参の鉈で切り開いて進んでも状況がよく掴めず、かすかな遺構面を足で踏み確かめてソロソロと移動するのがやっとでした。
 この時の様子を、後ろに続いたTさんが動画にて記録しています。こちら


 小鴨丸辺りの遺構の現状は、どうも「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面とは異なっているらしく、描写されるスロープも平坦面も見当たらず、主郭周囲の武者走りも狭い感じでした。一部は風化崩壊しているらしく、足場が無くなっている箇所もありました。
 仕方がないので、主郭の北辺をそのままなぞって東側に回ることにし、東下の郭に降りました。そこには上図の堀切と土橋がありました。これが戦国期以来の遺構であれば、こちらが大手の構えらしく感じられます。これらは重要な遺構ですが、「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面には全く描かれていません。後世の攪乱とみたのでしょうか。


 ですが、主郭東辺に残る石積みの一部は、どうみても戦国期のものです。これも「鳥取県中世城館分布調査報告書」記載の図面には全く描かれていません。それ以前に、主郭を含めた山頂の郭群の描写そのものが、実態と大きくかけ離れています。「倉吉市史」掲載の主郭エリアの遺構図面の方が正確になっていると思います。
 現在はここを倉吉博物館付近からの登山路が通っていて、主郭の高い切岸面を斜めに登ってゆく形になっていますが、堀切土橋の位置とも矛盾せず、北東隅の櫓台の直下にあたって監視、牽制も受ける状態なので、おそらくは本来の大手登城道の一部を踏襲していると推定されます。
 ちなみに、本来の大手登城道は、土橋を渡って右の帯郭に進み、そのまま主郭の北辺を回って大手虎口に至るルートであったと考えられます。

 今回はそのコースを、鉈で枝葉を切り払いながら逆に辿ってみたわけですが、結果としては遺構面の劣化が激しいのでいま一つ把握が進まず、別案として東郭の下の郭より並行移動の形で小鴨丸に進み、そこから大手虎口に登るというルートが想定されます。城の防御の面からみるとそちらの方が合理的なのですが、遺構の確認がまだですので、これらは今後の再探査に委ねたいと思います。
 いずれにせよ、打吹山城跡に関しても、田内城跡と同じように未解明の部分が大きいです。


 主郭に戻って一休みしました。


 もと来た道を引き返しました。上図は主郭の南側に位置する虎口の遺構で、おそらく搦手にあたるものと考えられます。石段の一部とおぼしき石材が地面に露出しています。


 続いて、前回未探査であった、長谷寺背後の尾根の郭群に登りました。荒尾氏墓所への入口付近から山に入る作業道のような踏み跡があり、試みにそれを辿っていくと、すぐに目標の尾根地形を捉えることが出来ました。あとは郭群に上がるだけで済みました。


 この郭群は、ほとんど戦国期の廃城以来のままの状態らしく、後世の攪乱も風化劣化もあまり見られませんでした。登山道や墓地に転用された郭群とは、遺構の保存度が全然違いました。
 本来の西麓からの登城道は、こうした郭群を経由していた筈なので、いまの登山道が後世につけられていることが明白です。長谷寺境内地からのルートは越中丸までで閉じていたのが元々の状態で、上図の郭群を経て備前丸に進み、主郭の搦手方面に連絡する、といった経路が中世戦国期までのルートと推定されます。


 その推定を裏付けるかのように、堀切が二ヶ所に残っています。現状では大方埋まっていて、小さな窪地にしか見えませんが、本来は人間の身長の倍ぐらいの規模と深さを有していた筈です。
 堀切は、登城道になり得る尾根筋に設けて敵の動きを制約するために設ける防御施設の一種です。これがある範囲には、堀切に護られる内側空間において連絡路が存在した可能性があります。


 再探査を全て終え、長谷寺境内地に戻って参道を降りました。途中の熱帯植物の大きな群生が印象に残りました。


 Tさんの案内で、昼食を上図の「レストラン味喜」でいただきました。昭和の香りを濃厚に残す懐かしい雰囲気の食堂で、地元住民の利用も多いです。


 昼食後に解散してTさんと別れ、帰途に三朝町図書館に立ち寄って資料の検索をやりました。倉吉市図書館には無い資料も幾つかあるので助かりました。田内城跡と打吹山城跡の今回の再探査結果に関連づけられる資料も得られましたので、収穫は大きかったです。

 以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7」のレポートを終わります。


(追記) この見学行動の一週間後の10月21日に、鳥取県中部の北栄から湯梨浜、倉吉近辺を震源とする震度6の地震が発生、その後数日にわたって震度3以下の群発地震を記録しました。この一連の地震にて白壁土蔵群の一部にて壁が崩落したほか、荒尾氏墓所の墓碑が倒壊するなどの被害が出ました。
 鳥取県はもともと地震の多い地域であり、私が鳥取市に居た二年半の時期にも数十回の地震を体感しています。ですが、ここ数年は静か過ぎたようです。
 今後、倉吉入りされる場合は、相応の配慮と支援の志を欠かさず、個人的に出来ることから少しずつ取り組んで励ましてゆきたいと存じます。

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の8 「再び田内城跡へ」

2016年11月07日 | 倉吉巡礼記

 田内城跡の再探査は、10月14日に行ないました。以前に大洗行きを共にした、倉吉在住の知人Tさんが同行しました。Tさんは中世戦国期の城跡に行くのは初めてだということでした。


 再探査の目的は、遺構の範囲と現状の再確認でした。城跡の概要は既に鳥取県教育委員会によって把握され、2004年に刊行された「鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集 伯耆編」に収録されていますが、その記載図面が実際の遺構状況と一致していません。概念図だと受け止めれば良いかもしれませんが、記載されていない遺構があるうえに、全体の規模や高低差などが地形と合わないです。

 例えば、上図の郭は「鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集 伯耆編」の記載図面にあり、山頂の主郭から数えて三番目の郭に相当します。二番目の郭から伸びた土塁状の高まりに囲まれていますが、高さは三番目に位置するので、縄張図のうえでは三郭とするのが良いと思います。しかし、現地には「二の郭(二の丸跡)」の標柱が建てられています。


 そして、「二の郭(二の丸跡)」の標柱が建てられる平坦面の東側には、一段低い位置に三角形の平坦面があり、その南辺には石列が残ります。自然の露岩ではなく、人為的に据えられて並べられた状態であり、その内側に窪地が認められますので、城内の水の手の郭であった可能性が考えられます。
 この平坦面は、どういうわけか、「鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集 伯耆編」の記載図面には描かれていません。


 他にも、竪堀群の位置、北尾根上の郭群の高低差、土塁の有無など、幾つかの相違点があります。城跡の丘が墓地になっているために全体像が把握し辛いですが、北尾根までいっぱいに続く郭と堀は、実際には存在しておらず、鞍部に広がる墓地の南に、二段の平坦面と竪堀群が認められます。
 どうも、「鳥取県中世城館分布調査報告書 第2集 伯耆編」の記載図面は、実際の地形にきっちり合わせていないようで、遺構の規模がオーバースケールになっています。丘陵全体に遺構が伸びるような描写ですが、実際に遺構面が認められるのは丘陵の南半分においてです。

 こうした状態ですので、機会があったら、いっぺん縄張図をオリジナルで描き起こして検証し直さないといけないな、と思います。山名時氏時代の守護所の遺構があるかどうか、という疑問どころではなく、田内城跡という遺跡の現時点での報告図面が果たして正しいのか、という問題です。
 とりあえず、冬を迎える前にもう一度現地に行って、半日ぐらい時間をかけて、自分なりに縄張図を描いてみようかな、と考えました。


 同行のTさんは、古い建物やアンティーク的なものに関心を持っておられるようですが、歴史的関心というより懐古趣味に近い傾向がある、という感じに見受けられます。前回の同行者Kさんとは異なり、歴史に関する認識や質問を一切しませんでしたので、歴史的な事柄には余り興味が無いのでしょう。
 なので、この日は、田内城跡や城下の見日千軒に関しての解説を私が一方的に述べたにとどまりました。


 そのTさんが、打吹山の西中腹に見える建物は何ですか、と訊いてきました。はじめは、長谷寺の建物ですかね、と答えたのですが、よく考えると長谷寺の伽藍域は森林に覆われていて、一番視界が開けている西麓からでも見えないのです。
 それで私も、自身のデジカメの望遠モードを駆使して対象を凝視してみたところ、打吹山城跡への登山路の途中にある櫓風の展望所だと分かりました。


 田内城跡の主郭に建つ模擬櫓です。


 Tさん撮影の写真をいただきました。模擬櫓の基礎に埋め込まれた説明板を読む私の後ろ姿が見えます。この時の様子は、Tさんがツイッターでも紹介されています。こちら


 主郭からの急な九十九折の坂道を下って山を降りました。眺望が良いので眺めていたいですが、細く急な道なので、景色に気を取られずに注意しないと滑り落ちる危険があります。


 城跡のある仏石山の南側は、御覧のような露岩の斜面になっています。城郭化に際して石材は豊富に調達出来たはずなので、遺跡の各所に残る石列なども、かつてはもっと立派なものであった可能性があります。
 こうしてみると、この田内城跡という遺跡は、まだまだ実際の姿が明らかになっていない、という感を強くします。発掘調査を行なえば、色々と判ってくる事柄が多いでしょうが、いまの倉吉市の文化財行政にそこまでの認識と余裕があるとは思えません。


 続いて、打吹山城跡へ登りました。前回と同じく長谷寺境内地を経由して越中丸の郭群まで行き、そこから大山連峰を眺めました。


 この雄大な景色が気に入ったらしく、Tさんは時間をかけて何枚も撮影していました。ツイッターでも紹介されています。こちら


 左手には蒜山の連山が続いています。中国山地の中核を成す高山帯の偉観が一望に見渡せます。このような景色が楽しめる場所は、鳥取県広しと雖も、ここだけでしょう。


 大山を望遠モードで引き寄せて撮影しました。独特の荒々しさをみせる南壁の様子がよく分かります。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の7 「城跡の荒尾氏墓所」

2016年11月03日 | 倉吉巡礼記

 打吹山城の主郭の周囲は、現状では上図のように切岸状になっていますが、城下町を見下ろす北側および東側には石垣または石積みが半壊状態で残ります。戦国末期の廃城にともなう破城が実施されたことは間違いないようです。もとは石垣の要の部分を占めていたであろう大きな石があちこちに散乱し、多くは主郭の周囲に落とされています。


 主郭の北東隅には石積みの残る櫓台が残ります。いまは城名碑が設置されています。これと対称の位置になる南西隅にも櫓台があったようで、いまは高まりのみとなっていますが、その周りの切岸下に多数の石が転がされているので、もとは石積みで固めた櫓台であったことをうかがわせます。
 縄張図でみると、この二ヶ所の櫓台はそれぞれ主郭へ出入りする虎口へのルートを監視し牽制する位置にあります。現在の登山道は、搦手の虎口に向かって西の帯郭から南辺を通って折り返しますが、その範囲を全て見下ろせる位置に南西隅の櫓台があります。


 主郭の二つの虎口のうち、大手は上図のように郭内にL字形に入り込む空間となって石積みもよく残りますが、上からはあまり良く見えない上に、登山道も通りません。そのため、ここが主郭への表入口であることが余り知られていません。
 そのことを説明すると、Kさんは「大手口にあたるんなら、門とかも建っていたんかね」と聞いてきました。たぶん門はあった筈、と答えておきました。


 主郭の北東隅の櫓台上に建てられている城名碑です。打吹城址、とありますが、中世戦国期の史料類には「宇津吹ノ城」「うつふき城」とも表記されています。


 北東隅の櫓台より主郭中央部を見ました。広い郭面には守護所の建築群も余裕でおさまりますが、実際にここに守護所があったかどうかは確認されていません。
 他国の例でみますと、守護所のあった場所は、守護の通称である「御館」や「殿」などが地名に残る場合が多いです。伯耆国の場合、守護所が何と呼ばれたかは分かっていませんが、現在の打吹山城跡には、その所在を伝える地名すら伝わっていません。

 ですが、いま山名氏豊館または山名氏館と呼ばれる遺跡の地割には、興味深い事に、守護所や政所等の施設によく見られた「鬼門落とし」の痕跡らしきものが見られます。現在の大岳院の境内地にあたりますが、見日千軒との位置関係からみても、守護所であった可能性は大きいです。


 各所に残る石は、大きなものがほとんどで、破城前の石積みの規模の大きさを窺わせます。主郭のみを石積みで固めて見栄えも良くする手法は、但馬山名氏の本拠であった有子山城跡と共通しており、共に同じ歴史的背景および事情によるものと推定されます。時期も、ほぼ同じ安土桃山期の後半期になります。


 Kさんに聞かれるままに、中世戦国期の城と武士に関する内容を色々と話しつつ山を下り、一気に長谷寺の境内まで戻りました。


 長谷寺の本坊の横から、奥の墓地へと進みました。もとは打吹山城の西尾根の郭群を転用した墓地ですが、その一番奥の広い郭に、鳥取藩国家老荒尾志摩家の墓所があります。倉吉に陣屋を構えて自分手政治を任され、明治期までずっと倉吉を治めた歴代の家老の墓所です。


 上図のように、墓碑はいずれも長方形の切石をそのまま使っているのみで、装飾も無い素朴な作りです。質素を心がけた荒尾志摩家の家風がしのばれます。
 一番奥の中央の墓碑が、初代の嵩就(たかなり)のそれです。その墓碑に向かって私が最敬礼して長く手を合わせていたので、後ろで同じように礼拝合掌したKさんが、後で訊いてきました。

「荒尾嵩就って、すごい人物だったのかね?」
「すごいどころか、生前は池田家の名物家老やで。藩祖池田輝政とは従兄弟同士、はじめは織田家、次いで豊臣家、徳川家について戦国乱世をかいくぐってきた歴戦の勇士や」
「ほう」
「荒尾家というのは、池田輝政の母親の実家でな、尾張の知多郡が本願地や。たしか、いまの東海市にある木田城というのが本来の居城で、別名を荒尾古城といってた筈。戦国期の当主は荒尾善次といって、織田家の武将だったが三方が原合戦で討ち死にして、息子の成房が後を継ぐ。これが但馬守に任官されたんで、荒尾但馬家と呼ばれた。成房の息子が二人いて、長男の成利が荒尾但馬家を継いだ」
「うむ」
「次男が、この墓碑の嵩就なんやけど、これは叔父の荒尾隆重の養子になったんや。隆重は志摩守の官位を持ってたから荒尾志摩家と呼ばれてたんや。その養子となった嵩就は、官位は貰わなかったけど、荒尾志摩家を継いだため、志摩というのが通称になっていって、当時の池田家でも徳川幕府でも「荒尾志摩」と呼ばれていたらしい」
「ふーん」
「で、この荒尾志摩嵩就が、鳥取藩池田家の二度の危機を見事に解決する」
「お、それは知ってるぞ。姫路五十二万石をつぶされそうになった件と、岡山三十二万石をつぶされそうになった時やね」
「因幡侍従、その二つの事件の詳細を知ってんのかね」
「実はあんまり知らんのね。鳥取県民としては恥かしい限り」
「もう一つ聞くけど、池田家の本家はもとはどこだった?」
「結果的には岡山藩が本家やけど、もとは姫路じゃなかったかね」
「その通り。池田輝政は戦功の数々を経て姫路五十二万石の太守となり、ここに池田家は織田家譜代としては最大クラスの出世躍進を遂げる」
「うむ」
「輝政の子は三人居た。長男の利隆は、母が輝政の最初の妻、次男の忠継と三男の忠雄は、母が徳川家康の次女の督姫。利隆は姫路五十二万石を継ぎ、忠継は岡山三十二万石、忠雄は洲本六万石を得たのだが、督姫はこれを不満として利隆の暗殺を図るわけや」
「えっ、それは違うんじゃない?利隆は天然痘で死んだと・・・」
「表向きはそういうことになってる。鳥取藩の公式発表では、利隆、忠継、督姫の三人は天然痘で相次いで亡くなった、ということになってる」
「うーむ、すると実際には違うのか」
「そう。督姫が大坂冬ノ陣の戦勝祝いの席で利隆に毒入りの饅頭を出したの。何も知らない利隆がそれを食べ始めた時、母の企みに気付いた忠継が兄を救うべく、その毒入りの饅頭を兄から奪って食べたんだ」
「えっ」
「すると利隆も、弟め何をしやがる、と饅頭を奪い返して残りを食べた。結果として兄弟は相次いで亡くなった。督姫にしてみれば、我が子まで殺してしまったことになる」
「・・・・」
「はたからみると、池田家の当主とその弟がまだ若いのに相次いで亡くなるというのは不審。娘を嫁がせている徳川家康からすると、孫にあたる忠継はまだ十七歳やった。おかしい、何があったのか、と疑うわけや」
「うん」
「ここに荒尾志摩が登場する。事の次第を知っているから、すぐに家康に会って正直に報告したんや。当然ながら家康は驚愕して、督姫を呼び寄せて事情を問いただそうとする。すると督姫は、饅頭に入れたのと同じ毒をあおって自害してしまう」
「うーん、そんなことがあったのか・・・」
「これは池田家の毒饅頭事件と言われててな、本や雑誌などでも書かれてて割と知られてるよ。それを信じるか信じないかで分かれとるけどな」
「伯耆守は、それを信じる立場なわけか」
「信じる立場、って言うか、そういう見方で捉えないと、池田家の最初の国替え騒動が理解出来ないんや」


 その、池田家の最初の国替え騒動、とは、利隆と忠継の相次ぐ死による姫路五十二万石および岡山三十二万石の処置です。私はまずKさんにクイズを出しました。

「武家諸法度において、武家の相続に関する規定が色々定められてるが、当主が死んで後継者が居ない場合はどうなるか知ってる?」
「そりゃあ、お家は断絶やね・・・」
「そう。では、後継者が居るけど、元服していない未成人の場合はどうなる?」
「石高は半分に減らされる、かね」
「そう。正解」

 その武家諸法度の規定に則れば、姫路五十二万石は、利隆の嫡男の新太郎がまだ八歳なので、半分の二十六万石になってしまいます。そして岡山三十二万石は、忠継に子が無いため、断絶となります。

 ところが、荒尾志摩が猛運動して老中土井利勝に働きかけた結果、姫路五十二万石は召し上げとなりましたが、利隆の嫡男の新太郎には新たに鳥取三十二万石が与えられました。半分に減らされるどころか、六割安堵の優遇でした。さらに岡山三十二万石は断絶となるべきところを、忠雄に相続が許され、淡路六万石は召し上げとなりましたが、忠雄が兄の跡を継いで岡山三十二万石に栄転、となりました。

 いずれの処置も、武家諸法度を完全に無視しています。徳川幕府黎明期に権勢をふるった本多正信・正純父子は当然ながら激怒し猛反対しましたが、土井利勝は徳川家康の遺志として押し通しました。
 この家康の遺志というのは、おそらく督姫の件に関わるものであったでしょうし、督姫が暗殺を試みて池田本家の危機を招いた経緯がある以上、家康の責任ということでもあったでしょう。娘の不始末によって徳川一門に等しい池田家がつぶれるのは耐え難い、なんとかならんか、ということで、あれこれ模索していた折、荒尾志摩からの報告もあり、家康はとりあえずこの超法規的な国替え策を土井利勝に任せた、という流れでしょう。

 逆にみると、こんな例外的な国替え策で決着をみた点に、池田家の毒饅頭事件が史実ではないかと思われる節がある、ということです。そして、国替え策の裁定にあたって荒尾志摩が大きな役割を果たしたことが伺えます。徳川家康とも土井利勝とも昵懇の仲であったという荒尾志摩であるので、ひょっとするとこの国替え策そのものが荒尾志摩の発案であったのかもしれません。


 かくして石高半減のピンチを切り抜けた池田家は、本家を鳥取藩に移しましたが、岡山藩を相続した分家の忠雄が未熟なため、荒尾志摩以下の家老たちは岡山藩に移ってこれを補佐しました。
 しかし、岡山藩を継いだ池田忠雄は、数年後に亡くなりました。嫡子勝五郎はまだ三歳でした。武家諸法度に則れば、岡山藩は半減となって十六万石になるわけです。
 この二度目のピンチにおいても荒尾志摩が奔走し、土井利勝に働きかけて裁定を有利にならしめることに成功しました。結果としては、池田忠雄の跡を嫡子勝五郎に相続させて三十二万石はそのままとするも、岡山ではなく、鳥取藩の本家三十二万石と交替する、ということになりました。この劇的な国替え策に、周囲は猛反対しましたが、土井利勝は権勢に物を言わせて押し切りました。
 この国替えに際しては、荒尾志摩以下も池田勝太郎を奉じて鳥取に移り、ここに鳥取藩は池田勝太郎光仲以下十五代にわたる安泰の時期を明治維新まで保つことになります。荒尾志摩家は国家老として倉吉の統治を任され、これも明治維新まで続きました。

 以上の事柄をKさんに説明しながら山門跡まで戻り、地蔵堂の脇にそびえる立派な樹木を見上げました。以前に倉吉博物館で見た古絵図に描かれた高い樹木は、この木のことじゃないのかな、と考えました。


 最後に、荒尾志摩家の菩提寺である満正寺に参拝しました。荒尾志摩家の墓所について教えていただきたいことがあったので、庫裏の玄関に行って呼鈴を押して挨拶の声をかけましたが、留守のようで応答がありませんでした。
 次の機会に改めて訪ねよう、ということになり、とりあえず最初の合流地の定光寺まで行きました。Kさんの車をそこの駐車場に置いたままだったからです。

 その後、早い夕食を近くのレストランで共にして、日没前に解散してそれぞれの家路につきましたが、私個人の予定はこれで終わりではありませんでした。田内城跡および打吹山城跡への探査は、もう一度行なう積りだったからです。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の6 「打吹山城奇譚」

2016年11月01日 | 倉吉巡礼記

 長谷寺境内地から山の北側に回る道を進むと、上図の下山神社があります。周知のように下山神社は霊峰大山の中腹に鎮座する大神山神社の末社の一つです。その系列社は各地に分布して大山信仰の伝播を示していますが、ここ打吹山の下山神社も同様な一例でしょう。
 長谷寺も大山系列の天台宗拠点なので、同じ信仰系譜を有する下山神社が境内地に隣接しているのは、かつては神仏混交の状態が長く続いていたことを示すものと思われます。

 打吹山は、その秀麗な山容がいわゆる神奈備としての条件にかなっているため、城が築かれる前は信仰の山として存在し、古代には既に大山信仰の拡がりの中にあったもののようです。その仏教化によって長谷寺が創建されたという流れであり、つまりは神仏のやすらう聖域としての性格を持っていたことになります。そこに城を築くというのは、神仏の加護を期待する、という側面もあったことでしょう。


 下山神社から少し進むと、西側の眺望がパッと開けます。霊峰大山の稜線も雲に霞んではいましたが、よく見えました。山岳信仰の山には、こうした視界の良い場所が必ずあって、大山信仰ならば大山を遥拝する場所として、とくに尊重されて儀式や祈りの場所とされた場合が多いです。


 その、大山遥拝の場所が、中世戦国期の城砦化によって、大きな郭の一つとして再整備されたのが、越中丸と呼ばれる一群の郭です。山名氏より城を任されて西側を守った家臣山田越中守がここで政務をとったという伝承があることにちなんでの呼称です。


 越中丸は、打吹山の西南の支尾根に連なる四段の郭の最高所にあたり、面積の上では本丸に次ぐ広さを持ちます。東寄りに櫓台とおぼしき高まりが認められますが、現在では長谷寺境内地の一部として八十八所の霊場石仏を並べて安置しています。

「ここに山田越中守が住んで政務を執ったというけど、贅沢な眺めやねえ」
「山田氏がここに居たというのは伝承の域を出ないんよ・・・。確かな史料も記録も無いし・・・」
「でも山田越中守は、山名氏の家臣だったんやろ?」
「分からんね。一時期はそうやったかもれんが、確かな記録からみる限り、山田氏は毛利氏に組みしていた時期が非常に長い。守護代南条氏の下についたこともあったが、意見対立から南条氏とは敵味方同士になった時期のほうが長い。本家は山田出雲守重直といってな、伯耆国の国人の一人ではあるけどな、常に隣国の尼子氏や毛利氏の動きに怯えているって感じで、すぐに強い者の下に靡く。そんな感じ」
「つまりは、日和見か」
「もとは北栄あたりが本拠やからね、街道を通じて西に繋がってるから、どうしても隣国出雲の動向が気になるやろうね。南条氏みたいにガチで伯耆国を護ろう、取られたら奪い返そう、ってなガッツが無い。山田出雲守重直は結果的には毛利の吉川元春について、それでずっと南条氏と敵対してる」
「ふーん・・・」
「でも、山田氏も一枚岩じゃなかったと思うんで、一族には南条氏への忠誠を保った者も居た筈なんや。そういうのが山田越中守を名乗っていた可能性はあるな・・・」


 越中丸の郭群は、城跡の西側の三つの防御線のうちの南側のラインを受け持ちます。その南麓に満正寺がありますので、もとは荒尾氏墓所に通じる山道が満正寺から越中丸を経て通じていたはずです。


 そのことを物語るように、越中丸の南下の尾根筋が堀切で断ち切られています。上図のように、現状では1メートル程度の窪みでしかありませんが、発掘すれば、3メートル程度の立派な堀切が現れることでしょう。
 こうした堀切が、満正寺の横に続く南西下の尾根筋の郭群には二つも並ぶので、この方面の防御意識が高かったことを示唆しています。同時に、満正寺方面から城に登る間道が存在した可能性も浮かび上がってきます。
「その間道は、いまじゃ埋もれて分からんようになってるのかね」
「どうやろうね。郭群が残ってるみたいなんで、尾根道として在ったはず。いまの満正寺の秋葉社ってのが、位置的には間道のルートに相応しいんやけどね・・・」
「それは確認したのかね?」
「いや、まだや。満正寺さんに許可を取ってから探査してみる積り」
「満正寺の方は、そういう城の間道とかについて知っておられるのかね?」
「さあ、どうやろね。荒尾志摩家の墓所への参詣道、なら知っておられるかもね」
「間道って、他にもあったのかね?」
「一本だけ、ってことは無いと思う。城跡自体がけっこう広いから、あちこちに在った筈」
「ふーん」


 道を山頂の本丸へ向かって進むと、越中丸のすぐ上に上図の櫓ふうのコンクリート建物があります。休憩所と展望所を兼ねた施設です。


 展望は、北側に広がります。倉吉の旧市街地と小鴨川の流れが見渡せます。右手には田内城跡のある仏石山も望まれます。


 周辺の樹木が伸びてきているため、眺望は北側のみにとどまり、西側の見晴らしはあまりよくありません。
「展望所とは言うけど、あんまり見晴らしがきかないね。山頂に建てたら良かったのにね」
「山頂はもっと見晴らしがきかないよ。昔からずっと木々に覆われてて、さっぱり見えなかった記憶がある。今はもっと枝葉が伸びてるやろうから、昔よりも見えなくなってるかも」
「ここの方がまだマシってことかね」
「まあ、そういうことになる」


 山道をさらに登っていくと、あちこちに泥をほじくり返したような場所がありました。イノシシのヌタ場と思われましたが、あちこちにありました。それを言うと、Kさんは驚いていました。
「イノシシがおるんかいね、この山は・・・」
「イノシシぐらい普通に居るはずや」
「うーん、なんだか怖いね」
「怖いのは、イノシシよりもクマの方やな」
「えっ、クマも居るんかね?」
「わからんが、蒜山や関金あたりで目撃情報もあったそうやし、山続きになってるから可能性が全く無いとは言えない。第一、自然散策用の山道でイノシシがこうやって痕跡を残すんやから、あんまり人が登らないんやろうな、この城跡には。人影が乏しいとなれば、自然の獣たちが徘徊しててもおかしくない」
「うーん、出会ったらどうするね?」
「滅多にそんなことは有り得んよ。人間の足音や気配を感じれば向こうは逃げていくんや。だから、こうやってしゃべってたり、音を立てて歩いてたりすりゃ、大体は大丈夫」

 話しているうちに、道の右側に備前丸の遺構が見えてきました。かつては切岸を固めていたであろう、石積みの残欠でした。下の石がほとんど崩落し、一番上の石がかろうじて残っている状態でした。
「城跡の石垣かね」
「石垣というより石積みやね。戦国期のものやろう」
「保存状態はあんまりよく無さそうやね」
「もともと城跡としてきちんと認識して保全管理をやってないからね、地元行政が」
「そうやろうね。単なる自然散策路、城跡への登山路、って感じで遺構や郭の説明板とかもあんまり無いね」


 城跡における案内板は、いちおう数ヵ所に設けられています。越中丸と備前丸と本丸には案内板がありますが、いずれも城跡の概略を示すのみです。各所に残る郭や石積み、堀切などの説明板は一枚も見かけません。城跡への山道も、単なるトレッキングコースとして認識されているようです。

 上図は備前丸と伝わる広い郭にたてられた案内板です。備前とは南条備前守のことを指しますが、史実では正式に幕府より備前守に任じられた南条氏の人物は居ません。南条宗勝の弟にあたる元信や信正が備前守を僭称したにとどまります。
 とくに南条信正は南条家家臣団を束ねる重臣の筆頭格にあり、南条元続の後見人を務めましたから、伝承が正しいのであれば、備前丸の名称は南条信正がここで政務を執ったことによるものかもしれません。史料のうえでは天正三年(1575)10月14日付の「吉川家文書」が初見なので、戦国末期、安土桃山期に活躍したことが伺えます。

 当時の南条氏の当主は元続でしたが、その頃の南条氏は毛利家吉川氏の下にあって伯耆国は毛利氏勢力圏になっていました。これを不満とする元続はやがて織田氏に通じ、羽柴秀吉軍の因幡進出に呼応するかのように天正七年(1579)に山田出雲守重直の拠点を攻撃して毛利方を離反しました。
 これに対して毛利方は吉川元春がただちに動いて各地を制圧し、この頃に打吹山城も押さえた可能性があります。山田出雲守重直が後に「宇津吹ノ城(打吹山城)」の「出丸」に入っているからです。この山田出雲守重直が入った「出丸」というのが、山田越中守にちなんで伝承される現在の越中丸なのかもしれませんが、詳しいことは不明です。
 山田越中守、という人物に関しては、南条元続の家臣、としてのみ伝わりますが、前述の山田出雲守重直の一族だったのかもしれません。山田出雲守重直は毛利方に付きましたが、伯耆国山田氏には南条氏方に付いた人物も居た筈なので、その一人が山田越中守だった、と考えることも可能です。


 そのようにイメージした場合、備前丸は南条備前守信正、越中丸は山田越中守、そして本丸下の小鴨丸は小鴨元清(南条元続の弟)にちなんだ伝称であることが分かります。時系列的にはいずれも同時期、南条元続の活躍期にあたります。その頃の打吹山城が、南条氏の拠点として毛利氏の圧迫を受けつつあり、南条氏が伯耆国回復のために城を死守しようと必死で構えた状況が、郭の名称に語り伝えられたのかもしれません。

 上図は備前丸の広い郭面ですが、樹木や下草が広がって全てが自然に還りつつあります。打吹山城に関しては、知られている史実がほとんど無いために、全てが伝承や奇譚の類として言い伝えられている程度にとどまっていますが、そういった奇譚のストーリーほど、実際には史実を反映しているケースが少なくありません。
 南条元続が正式に伯耆守に任じられて後、事ある毎に伯耆国を奪回回復せんと動いた経緯はよく知られていますが、現在の倉吉ではあまり顧みられていません。倉吉市観光PRショートムービーの「ホウキノクニカラ」においても、女子高生と一緒に倉吉の観光名所を巡るという、訳のわからない扱われ方をしています。伯耆国守護代職にあって激闘の日々を送った戦国の勇将、といったイメージすら無く、昔からタイムスリップしてきた変な侍のオジサン、といった演出表現ですが、こういうのが観光PRとして相応しいかどうかとなると、個人的には首を傾げざるを得ません。

 要するに、今の倉吉においては、南条元続に関する正しい歴史的評価すら、定まっていないのでしょう。だから、鳥取県屈指の規模と歴史的背景を有して広大な遺跡群を残す打吹山城も、単なる自然の散策コースとして放置されているわけです。最も面白いはずの中世戦国期の歴史が、完全に埋もれて忘れ去られているわけですが、それこそが倉吉の「奇譚」だと思うのです。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の5 「打吹山の長谷寺へ」

2016年10月30日 | 倉吉巡礼記

 昼食どきになったので、町並みのほぼ中央にある「レストラン三日月」へ行きましたが、臨時休業日でした。では他にどこへ行こうか、ということでKさんが「僕の知ってる店に行こうか」と提案してきました。それに決めてJR倉吉駅前へ移動、駅前駐車場へ車を入れて徒歩に移りました。牛骨ラーメンの有名店の一つ「べんけい」の前を通りました。


 さらに西へ歩いて次の交差点を左折し、すぐの所に蔓草に覆われた外観の喫茶店がありました。「チロリン村」といい、倉吉ではけっこう有名なお店だそうですが、私は初めて知りました。


 内部は天井がものすごく高くて、広々とした空間でした。二階部分を撤去してこうなったのでしょうか。


 この日いただいた「きのこスパゲッティ」です。Kさんも同じのを食べていました。


 JR倉吉駅の駅舎です。


 午後からは、打吹山城跡の見学に移りました。城跡の西の中腹に境内地を構える山岳寺院の長谷寺から登ることにし、入口近くの公衆トイレ横の参拝駐車場に車を停めました。
 長谷寺へは、山門跡から石段をいくつか経て登ります。


 石段の途中で振り返ると、西側に眺望が開けていました。打吹山の西尾根群のほぼ真ん中に参道があるため、両側は高い尾根筋に阻まれています。それらの上にも郭群が連なりますが、遺構としては小さい部分です。


 石段を登り、左に広場を見て、大きな熱帯植物の林立に目を奪われつつ左に曲がり、石段を登って右に曲がると、石段の前方に懸造りの本堂が見えてきました。


 仁王門です。江戸時期の延宝八年(1680)の建立になる八脚門です。鳥取県の保護文化財に指定されています。かなり後世の手が入っているので、幾度か部分修理を受けているようです。
 しかし老朽の色は否めず、屋根も軸部も痛みが激しく、基壇は右側が沈下していて、そのために建物全体がやや斜めに歪んでいました。早急な応急修理が望まれますが、その予算も備えも無いようでした。


 仁王門から本堂を見ました。


 本堂です。母屋は十六世紀、安土桃山期の建立ですが、外周の庇部分などは江戸期に追加されたようで、全体としては五間堂の様相になっています。母屋は三間四面の方形堂であり、これを保護するかのように覆いの屋根と庇を追加し、参籠および参拝の便に供しています。寄棟造ですが、西側が傾斜地なので懸造りとしています。鳥取県の保護文化財に指定されています。


 本堂内の内陣前格子から内部を覗くと、入母屋造杮葺立の派な厨子が見えました。長谷寺の信仰の中心であり、本堂の建物はこの厨子を保護する蓋屋の役目を果たします。
 様式は禅宗様ですが、年代は室町時代後期となり、やや形式化しています。二手先の組物を用い、軒を扇垂木とするなど本格的な建築手法によっており、厨子でありながら正規の仏堂に準じた構えを示します。
 軸部や軒廻りの各部材および屋根葺材にも当初の材がよく残ります。この時期の建築遺構は、山陰地方においては稀で、貴重なものです。国の重要文化財に指定されています。

 厨子内には、秘仏本尊の木造十一面観音菩薩坐像が安置されます。 十四世紀代の佳品で、おそらく守護職山名氏の寄進または庇護によって造立されたものとみられます。檜の寄木造で像高は101センチ。倉吉市指定文化財になっています。


 本堂には天井が無く、屋根裏の小屋組みがよく見えます。厨子を守る覆屋としての性格がよく表れており、修理や改造が容易に施せます。空間的にも広いため、部材に絵馬を懸けて奉納するにはもってこいでした。
 それで室町期から江戸期にかけての絵馬が多数伝わり、そちらの歴史的価値も極めて高いです。一括して鳥取県保護文化財に指定されており、現在は本堂裏の袖廊に収容して陳列し、時折一般公開しています。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の4 「城跡から街中へ」

2016年10月27日 | 倉吉巡礼記

 田内城跡は、倉吉の旧市街地のほぼ北に位置して小鴨川流域を一望出来る要所に位置しています。南には打吹山もよく見え、その秀麗な山容が抜きんでていることが分かります。
 地域支配を危機管理の観点から突き詰めた場合、もっとも要害性に優れた打吹山に拠点を移そうという発想は、山名時氏や山名師義でなくとも抱いたことでしょうが、当時は最大の集落が見日千軒であり、最重要な交通路が小鴨川の水運と川沿いの因幡街道であったため、山名氏はこれらを眼下に掌握するための拠点として仏石山に着目、最初の守護所をこれに置いたのでしょう。


 ですが、いまの田内城跡の本丸は、守護所の居館施設を置くには狭すぎます。平均的な四間四面の殿舎すら建てられません。守護所の格式をもたせるならば、塀や門も構える必要がありますが、それらも地形に合わせると建設そのものが無理です。

 なので、Kさんがもらした感想は、当を得ていたと思います。
「ほんとに守護所がここにあったの?もっと広い敷地を見日千軒の近くに幾らでも確保出来たんと違うかね?いまのこんな広さやったら、建物一つだけで窮屈になるね」

 他の国の守護所は、多くが平野部に広壮な方形居館を構えていますから、伯耆国守護職山名氏も、出来ればそうしたかったのかもしれませんが、しかし当時の小鴨川は暴れ川と呼ばれ、毎年氾濫を起こすことで有名でした。流域の人々はつねに水害に悩まされ、田畑は幾度も被災して結果的には凶作も少なくありませんでした。見日千軒が川に接して水運の要所になっていたため、守護所もそれに近接していれば政務が取りやすくなりますが、しかし氾濫で守護所がやられると、伯耆国の政治はそこでストップしていまいます。

 ですが、室町幕府の政治体制における守護の任務の第一は、任地における政治的空白を生じさせないことでした。これは南朝残存勢力への対策でもあり、足利将軍家の直臣として幕府の威令をあまねく全土にゆきわたらせ、守護の権限をもって国土の支配と安泰を確立することが重要でした。
 しかも初代守護の石橋和義は任地に赴いた形跡がなく、その代官の政務すら機能していたかも不明ですから、実質的には山名時氏が、戦乱で荒廃し生産力も低下していた伯耆国の立て直しをはからざるを得なかったものと思われます。

 なので、守護所もとりあえずは急造仮設の施設とし、小鴨川の氾濫水害に巻き込まれないように高所におき、もって見日千軒と交通路を掌握、次の段階で守護所を本格的に整備する、という流れでの政務活動をとったものと推測されます。そのイメージで考えるならば、仏石山の上に仮の簡素な建物をしつらえてとりあえず守護所とする、という状態だったとしても良いかもしれません。

 ですが、嫡男の山名師義は打吹山への移転を期したと伝わります。史実かどうかはともかく、田内城の規模と位置では、政務を執るにも色々と不便だったであろうことは想像に難くありません。後の時期には山名氏の居館が現在の大岳院境内地にあったとされていますが、それは居館というよりは守護所であったと考えた方が自然です。
 大岳院の館跡は、一般的には山名小三郎氏豊の館、ということになっていますが、遺物の年代観は十五世紀なので時代が合いません。一世紀ぐらいはずれています。そのあたりもふまえて、山名氏とその守護所の位置について再検討してみることが、これからの歴史観においては必要になってくるでしょう。その考察の起点が、この田内城跡であり、その現存遺構が完全に戦国期十六世紀の様相を示している点にもっと留意すべきでしょう。


 城跡からは、模擬櫓の横の急な九十九折の散策路をたどって下山しました。散策路、というには細くて急坂なので、登るにはきつく、降りるにも注意が必要でした。
 しかし、眺望はよく、打吹山方面は視界が開けていました。周囲の樹木が高く伸びていなければ、見晴らしはもっと利いたことでしょう。


 麓の裾を巡る道に戻りました。丘の北側に広がる墓地への参詣道としても使われていますが、その道を尾根筋まで上がると城跡への散策路に繋がります。ゆるやかな登りなので、城跡見学の際の往路には適していると思います。


 降りてきたばかりの急な九十九折の坂道の入口が上図の場所です。標識は外れて下に置いてありました。


 車道に戻って岩壁の岩阿弥陀を拝みました。例の大水害で見日千軒が壊滅した時、当時の守護所はまだこの仏石山上に在ったのでしょうか。それとも、大岳院の位置などに移されていたのでしょうか。現時点では、それすらも分かっていません。
 倉吉エリアでは、古代や近世以降の歴史は割合にいろいろと明らかになっているようですが、中世戦国期のそれはさっぱり分かっていないことが多いです。


 昼近くになったので、倉吉の町並みに向かいました。途中で思いついて、和菓子店の「まんばや」に立ち寄りました。


 なにか土産を買うのかね、とKさんに聞かれ、ひなビタのパネルの一つを見たいので、と答えました。


 東雲心菜です。今まで唯一、定位置を確認していなかったパネルです。Kさんはアニメやゲームに全く縁が無いため、ひなビタというコンテンツにも余り関心が無いようでした。妙なものを店に置くんやねえ、と話していましたが、これが世間一般の普通の反応であるのでしょう。


 「そう言えば、お前が一番好きだというキャラクターのパネルもあるんか?」と聞かれ、近くの鉄道記念館へ連れて行って芽兎めうのパネルを指差しました。これがそうか、と感心したような、呆れたような表情のKさんでした。


 Kさんの思惑をよそに、芽兎めうは今日も元気でした。めうー。


 鉄道記念館の北側の、国鉄倉吉線跡です。一部が公園化されて御覧のようになっています。Kさんは子供の頃に何度か乗って、ここにあった打吹駅で降りたことがあるそうですが、その時の事はあんまり記憶に無いなあ、と言いました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の3 「古墳と彼岸花と古城」

2016年10月25日 | 倉吉巡礼記

 山名時氏場所の隣には、倉吉市を代表する古墳として知られる三明寺古墳があります。後世に地蔵石仏をおさめて長く地蔵堂として信仰を集めてきたようですが、それはこの古墳が早くに開かれて内部へ出入り出来るようになっていたことを示すのでしょう。


 その築造時期は六世紀末ないし七世紀初頭とされています。いわゆる大化の薄葬令の施行前の遺構で、規模は径18メートル、高さは6メートルを測ります。現在の地形状況では分かりにくくなっていますが、円墳です。
 その埋葬施設は、山陰地方最大級の横穴式石室です。切石造りの両袖式で、石室全長8.3メートル、玄室長3.7メートル、玄室高3.1メートルを測ります。奥壁には巨大な一枚石を立て、玄室の奥壁に接して板石を組み合わせた囲いを設け、柩に供したものとみられます。羨道部の一部も残り、この種の古墳としては稀な保存状態を示しています。


 Kさんはこうした古代の遺跡が専門なので、色々と専門用語を呟いては各部を子細に観察し、楽しげにこう言いました。
「伯耆守、福庭古墳を覚えてるかね」
「ああ、波々伎神社の境内にあるやつやね。ここと、ほぼ同時期の古墳やろ?」
「そうだけど、構造や技術的にはあちらの方が上やなと思う」
「と言うと?」
「石の組み方、加工の程度とか、やね」
「ああ、それなら福庭古墳の方がしっかり造ってあるな。切石のはめ込みもきっちり隙間無く仕上げてるし、段差をつけて石を組んでるあたりも、なにか木造建築からの応用みたいなのをイメージさせる」
「だろ?終末期の古墳ともなりゃ、石室にも当時の技術レベルがストレートに反映されるわけや」
「確か、木組みみたいな石の組み合わせがあったね・・・」
「それ、それよ。ああいうの、畿内にはあるんかね?」
「奈良のか?・・・いや、見てきた限りでは覚えとらんね。宇陀郡の渡来系の遺構も幾つか見たけど、木組みみたいな組み方は見たこと無いな」
「だろ?山陰じゃ古墳にも仏教建築からの影響がみられる。古代寺院の多さも伯耆は際立っとる。古代には相当の技術レベルが確立されてて、畿内よりも先進しとった部分があったと思う」
「それはそうやろうな。伯耆国は律令の制では中国にあたってるが、実質的には上国とみなしていい。因幡国は上国だが、その国力に見合った歴史がどうも感じられん」
「やっぱりそう思うか。いや僕も地元民のくせに因幡国にはあんまり歴史的な精彩を感じねえのよな」
「そこまで言うかね・・・。まあ地域の資源とか経済とか生産力を考えたら、伯耆国の方がちょっと勝ってるかな、という感触はある。古代の遺跡群の層の厚さはもちろんだが、中世戦国期の遺跡や歴史もなかなかの厚みがある。歴史に厚みがある、ってのは、だいたい古代の段階で相当の国力と生産力を持っていたことによって人や物資が集まったり交流が盛んだった流れがあったからやな」
「うん、そうやね」


 色々話しつつ参道を戻り、本堂の前を過ぎました。一般公開寺院ではないので、見学は境内地のみとなります。


 Kさんは、境内地よりも山門付近の彼岸花の景色に興味があったようで、そっちへ行って写真を撮ろう、と言ってきました。


 確かに、美しい景色でした。山門付近を埋め尽くすように紅く咲き乱れる彼岸花の群生は、山名氏の哀しい歴史に手向けられるかのように、静かにそよ風に揺れていました。墓場の花として忌み避ける向きもあるようですが、個人的には秋の景色を彩る季節の花として、それ自体は綺麗な自然の姿の一要素として捉えています。
 奈良に住んでいた時期にも、秋の景色を撮った写真が沢山ありますが、多くは彼岸花を被写体に加えています。曼珠沙華、という正式名称も、仏教文化の香りただよう奈良の風土にはむしろ相応しい、と思います。


 山名寺を辞して、近くの田内城跡に移動しました。天神川に架かる巌橋の北側に突き出た岩山が所在地です。山名時氏が守護所を置いた場所とされますが、現存の遺構は戦国期の改修状況を伝えています。


 隣のオムロンさんの正門前の車道脇に車を停め、登山口に向かいました。倉吉市内の城館遺跡は、ほとんどが標識や散策路を備えて見学も容易に出来ますが、市街地に近接する範囲においてはこの田内城跡が最も入り易く見学し易いです。


 城跡のある岩山は仏石山といい、もとは仏教信仰の道場であったのかもしれませんが、いま南側の岩壁には「南無阿弥陀佛」の語句を刻んだ岩阿弥陀が祀られます。戦国期の天文十三年(1544)の天神川の大氾濫によって壊滅した城下町「見日千軒(みるかせんげん)」の死者の供養碑にあたります。
 それを見上げつつ、Kさんの質問が始まりました。

「その「見日千軒」ってのが、山名時氏時代の倉吉の中心やったのかね?」
「そう。やから山名時氏は、見日千軒を見下ろす仏石山に守護所を置いて支配を行なったわけやな」
「千軒、って広島の福山の草戸千軒っていうあれと同じ意味なのか?」
「そう。中世期には地域の中心的な街区のことを千軒と呼んだ。千軒あるという意味じゃなくて、沢山の家屋が集まって街が形成されている、という意味やな」
「ふーん、古代には国府にあった街区が、中世にはこっちに移ったわけか。水運を交通の要にする中世期ならばでの現象なんやねえ」
「そう。水運や海路が重視されたから、鎌倉期にはもう主要街区が川か海に接して発展しているケースが見られる。京都でも平安京よりも巨椋池に面する地域が発展したし、奈良では大和川流域に中心街が移動してる。因幡でも国府より北に街区が移って千代川と湖山池のエリアに政治の中心が移動している。因幡山名氏の守護所の布施天神城はその象徴的な結果やね」
「なるほど。するとここでは見日千軒が中心街になって、それが氾濫で全滅してしまったから、新たな中心街を倉吉に移して再建したということか」
「時系列的にはそれで大体合ってる筈。倉吉という地名自体がな、一次史料のうえでは十六世紀にならないと出てこないんで、たぶん山名時氏やその嫡男の師義の時期には、いまの倉吉というのは地名も街もまだ無かったんやろう、と思うね」
「ふーん、するとこの「見日町」ってのが、かつての見日千軒の位置なのか?」
 Kさんは地図を広げながら、いま石谷精華堂やスーパーヒーローなどがある場所を指して聞きました。
「厳密にはもう少し東寄り、いまの巌橋の両側の河川敷あたりになると思う。氾濫で天神川の流路も変わってしまってるんで。以前は小鴨川ともども違うコースを流れてたけど。中世期には暴れ川と恐れられて度々水害を出しているが、その最大のやつが天文十三年の大氾濫やったらしい」
 その供養碑が、あの立派な岩阿弥陀なのでした。


 田内城へは、北および西麓の墓地から参道を経て登りました。墓地から外れて散策路を登ると、尾根筋に堀切や平坦地が見え始め、やがて土塁状の高まりを伴う虎口状の部分を通りました。Kさんは田内城跡へは初めての訪問になるので、周囲を見回しつつ、私が持参した縄張図を参考にして色々と観察していました。

 古代の遺跡は埋もれてしまっていて、発掘でもしないと姿も分からないのが普通ですが、中世戦国期の城跡などはまだ埋まっていないケースが殆どで、堀や郭などの遺構は今でも大体認められて容易に見学することが出来ます。だから、遺跡散策を楽しむならば中世戦国期のそれが一番面白い、というのが私なりの持論です。


 丘上の頂上の平坦地に着きました。ここが城跡の主郭にあたります。近世城郭では本丸と呼ばれる場所に相当し、いまは上図のごとく近世風の模擬櫓が建てられています。
 ですが、中世戦国期の田内城にこのような建物が存在した筈は無く、当初は守護所の館と付属建築、後には戦国期の城砦としての最小限の設備しか無かった筈です。
 近世には廃されていた田内城ですので、このような近世風の模擬櫓を建ててしまうと、あらぬ誤解も出てくるでしょう。状況が許せば、こういった模擬施設は撤去し、遺構の実年代に見合った考証をもとにした復原模擬施設を暫定的に具体化したほうが、遺跡の周知や社会教育効果なども効果的なものになると思います。


 模擬櫓の壁面に埋め込まれた解説板です。内容的には推測も混じるので再検討の余地が多いです。特に山名時氏の嫡男の師義が打吹城を築いて移った、というくだりは二次史料の「陰徳太平記」に拠ったもののようで、信憑性には疑問がもたれます。
 打吹山城は、現存遺構からみる限りでは戦国期の様相が濃く、山名師義の時期まで遡るかどうかは確証がありません。一次史料に城名が「宇津吹城」または「倉吉城」と出てくるのも、十六世紀後半になってからなので、山名氏が守護職として大いなる権勢を発揮していた十四世紀代に、果たして打吹山城が存在したのかどうかは、現時点では確証がありません。

 それらの事をかいつまんで説明すると、Kさんは感心しながら「中世戦国期の歴史もまた謎だらけなんやね。謎解きの面白さは古代に劣らないんやね」と言いました。
 全くその通りです。日本の歴史で一番面白いのは、中世戦国期のそれである、と個人的には常に感じております。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の2 「山名寺の山名氏墓所」

2016年10月23日 | 倉吉巡礼記

 定光寺を出て、天神川の北堤防上の県道312号線を進み、三明寺の街区にて左の脇道にそれ、標識にしたがって左折して山名寺に行きました。徒歩で訪ねれば上図の石段を山門へと登りますが、車で行くと右側の車道を経て境内の鐘楼の横の駐車場まで入れます。


 山名寺の本堂です。この寺の前身寺院の創建は延文四年(1359)、当時の伯耆国守護職山名時氏が自らの菩提寺として開きました。開基の南海宝州は新田氏出身の禅僧でした。時氏は応安四年(1371)に没し、法名を「光孝寺殿鎮国道静居士」とされましたが、それに因んで菩提寺の寺号を光孝寺と定めました。
 現在の山名寺は光孝寺の後身にあたるとされていますが、同じ位置にあったかどうかは確証が無く、むしろ室町期に入ってからの山名氏が新たに整備した菩提寺であったと考えるのが良いかもしれません。

 個人的には、山名時氏が伯耆国守護職に任ぜられた時の、平時の屋敷があった場所だったのではないかと思います。守護所を置いた田内城とは指呼の間にあり、その屋敷地を後に寺としたのがいまの山名寺にあたるのではないか、と思いましたが、山名寺そのものに関する詳しい資料がまだ見つからないので、とりあえずの仮説としておきます。


 山名寺にとっては特別の意味をもったらしいハナショウブを、「花かつみ」として紹介しています。Kさんは「花のことよりも、山名寺の由来や光孝寺との具体的な関係が知りたいね」と呟いていましたが、私も同感でした。


 本堂には、山名氏の家紋がかけられています。現在は山名氏ゆかりの寺としては唯一の存在のようになっていますが、もともとこの寺だけだった、ということはないと思います。もとは六分の一殿と呼ばれて諸国に系譜を広げた山名氏なので、他地域にも似たような寺院があるはずなのでが、勉強不足のために詳細をいまだに知りません。

 山名氏の嫡流は、戦国期には但馬国守護職および因幡国守護職にあり、伯耆国守護職は最終的に尼子氏に代わっているので、山名氏は伯耆からほぼ撤退しています。その際の混乱が、史料の散逸なども招いて、余計に史実がはっきりしなくなっている部分も大きいようです。


 なので、境内地にまつられる山名氏関連の墓塔群も、誰の墓なのかは詳らかでなく、かつては境内のあちこちにあったのを集めたものといいますから、原所在すら分からなくなっているわけです。現存墓塔の多くは室町期の一石五輪塔や宝篋印塔で、一部に逆修塔も見られますが、山名時氏の時期にさかのぼる古い遺品は見当たりません。
 しかも、大きな墓石は無く、本当にここが伯耆国守護職山名氏の墓域だったのかと疑問にすら思います。山名氏関係者たちの墓地、という表現のほうがしっくりきます。それでも現状がこのようなので、戦国期の動乱期には山名氏の衰退とともに寺も墓地も荒れ果てた時期があったのだろう、と想像されます。


 境内地の背後の高所に続く参道です。奥に山名時氏墓所と三明寺古墳があります。


 現在の山名時氏墓所です。全盛期には六十六州の六分の一にあたる十一の守護職を受けた山名氏の、実質上の始祖にあたります。ですが、以後の伯耆山名氏は内紛が続いて惣領が但馬山名氏に転じたため、分流もしくは庶流に転落して、在地勢力南条氏以下の台頭を招くことになります。


 礼拝後に、Kさんが墓石の各所を観察しつつ「この墓塔はなんか寄せ集めみたいやな、基礎はどうみても新しく見えるな」と呟きました。
「因幡侍従、その見解は正しい」
「やっぱりそうか、墓石そのものも山名時氏のものではないか・・・」
「いや、墓石の本体は間違いなく南北朝期の特徴があるので、時氏のものと見てもええよ。でも基礎の石組は最近のものやな。昭和17年に山陰本線の改修にあたって山田から移して改葬しているから、その時のものやろうな」
「ちょっと待て。山田ってな・・・、北栄の山田別宮のことか?たしか八幡宮があったと思うが」
「同じ久米郷になるんで、大体はその辺りやろうな」
「この墓は、もとはそこにあったわけか?山陰本線の改修にあたって改葬、ってことは、昔は線路の近くにあったってことか?」
「資料をまだ得てないんで詳しくは知らんのやが、たぶんそうやろう、とは思う」
「すると、光孝寺っつうのもその辺にあったわけかね?こことは全然場所が違うぞ。直線距離でも4キロぐらいは離れとるね」
「せやからな、光孝寺についてのちゃんとした資料を見たくて探してるの。倉吉の図書館には無かったんで、湯梨浜か北栄のほうでいずれ探してみる積り。どう考えても、ここ山名寺がそのまま光孝寺の場所であるようには思えないんでな・・・」
「それは僕も同感やね・・・。伯耆守の仮説通り、山名時氏の屋敷跡、とみたほうがええんじゃないかと思う。守護所田内城に近いしね・・・」


 山名時氏の墓塔は、宝篋印塔の形式ですが、上図のように塔身および基礎の風蝕が激しく、反花座部分は完全に別石に換えられているようです。どうみてもまともな状態で祀られてきたとは考えにくく、かつては荒廃していた期間が長かったのではないかと想像されます。

 室町幕府伯耆国守護職の初代は足利氏一門の石橋和義が初代でしたが、伯耆国に赴任した形跡が無いようなので、二代目の山名時氏が実質的には初代の伯耆国守護でありました。その墓石がこんな無残な姿である事自体、いかに室町期以降の伯耆国の政治が安定していなかったか、いかに山名氏が内紛と衰退を重ねて国内を不安定にしてきたか、を如実に示しています。
 このように、文化財は、歴史の実情を鮮明に物語るのです。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン7の1 「定光寺の南条氏墓所」

2016年10月21日 | 倉吉巡礼記

 2016年9月24日は、秋の暦を数えてもなお暑さが残る一日でした。鳥取市に住んでいた頃からの知己であるKさんと倉吉の主な中世戦国期の歴史スポットを訪ねました。事前に電話連絡して、倉吉の中世戦国期の大体の輪郭をなぞってみる、と話したところ、それならば自分も大いに関心があるので連れていってくれ、と言われ、十数年ぶりの再会も果たすことになりました。

 朝早く家を出て二時間余りのドライブの後、いつものように関金から進んで小鴨川沿いに打吹山を見ました。遠くから見た方が、山容の輪郭がよく分かるので、林間に残る広大な城郭遺跡の規模も容易にイメージ出来ます。しかし、実際に探査するとなると相当の登山を必要とし、道無き道を進む場合も少なくありません。
 それで今回は、トレッキングシューズや長袖シャツや軍手やコンパス、地図などの装備も持参しました。


 合流地点は、倉吉市和田の定光寺と決めてありました。その参拝駐車場に着くと、Kさんが既に来ていて、懐かしい笑顔を近づけてきました。自然と双方の右手が伸びて、固い握手になりました。

「伯耆守、紅葉の室生寺以来やな。あれは平成12年の11月やったか」
「もうそんな昔のことになるか・・・。お互いちょっと老けたかな、因幡侍従」
「そうやね。気持ちはまだ若いんだがね。残念ながら、体の方は年齢相応やね」
 そう苦笑した相手は、足元もしっかり固めたハイカー姿でした。
「こんなんでええのか。僕は城跡巡りというのは初めてなんでな・・・」
「充分や。あとは体力と気構えの問題やな」
「今日は、城跡が二ヶ所と寺が二ヶ所、と聞いたがここから始まるのか」
「うん」


 定光寺は、中世戦国期の伯耆に関わりがあった山名氏および出雲尼子氏に関する歴史資料を幾つか伝えることで知られます。20年前に倉吉へ毎週遊びに行った時期に、この寺の古文書類も見せていただいたことがありますので、今回は上図の案内板を読むにとどめておきました。

 Kさんは鳥取県の古代史に詳しく、20年前にともに郷土研究団体「因伯古代寺院研究会」に参加して県内の古代遺跡や古墳や寺院遺跡の大部分を巡った仲ですが、中世戦国期の歴史に関しては殆ど知らないということなので、質問も少なくありませんでした。
「尼子氏ってのは、伯耆に侵入してきて、こういう寺をおさえて支配の拠点にしたということかね」
「侵入というより、地域支配の単位が少しずつ出雲から伯耆に拡大していった結果やな。出雲から周囲の勢力に接して和するか、戦うかのいずれになるわけやが、尼子氏が発展拡大してた時期の伯耆は支配構造もガタガタで在地勢力はバラバラ、国としてもまとまってなかったから、和するとか戦うとか以前の問題やったらしい」
「ふーん」
「守護職の山名氏は名ばかりで権威はガタ落ち、おまけに内紛ばかり繰り返して話にならない。守護代は南条や小鴨が担ったが結束も団結も何もあったものでない。下らない内輪もめを続ける山名に反抗してそれぞれの本拠に戻ってしまうような事態や」
「そんなら、伯耆は政治的にはほとんど空白地帯、ということになるんやね」
「そう。実態としてはほとんど空白。尼子も力攻めで伯耆に入ったんじゃなくて、近隣の中小の勢力を少しずつ支配下に入れていって、寺社には保護を与える形で、地域支配の単位を確保していった、という感じで空白を埋めていった、と理解してもそんなに間違いじゃない」
「当時の寺ってのは、地域の支配に大きな影響があったのかね?」
「大きいどころか、地域の住民の信仰の要だし、精神的な拠りどころやったから、どこでも新興勢力は寺社を保護するんや。そうすることで新しい支配者が地域に対して寛容であることをアピール出来る。寺社は同時に地域の自治システムの拠点も兼ねてたから、村々での集まりとか祭事とか儀式もみんな寺社でやってる。地域コミュニティの中核やね。そういうのが大きくなると武力も持つし、政治的にも経済的にも相当の影響力を持つ。だから尼子氏が伯耆に進んだときに定光寺のような地域の要の寺を保護したというのは、政治的には正しいんや。合戦とか軍事作戦やって力ずくで押さえつけるよりも、寺社を味方に引き入れてその地域住民をみんな懐柔してしまったほうが手っ取り早い」
「なるほど・・・、すると、寺や神社が攻撃されて焼かれたりするケースというのは、あくまで抵抗したからか」
「そういうこと」


 定光寺の伽藍堂宇は江戸期の再整備状況をほぼ伝えているようで、それ以前の中世戦国期からの法灯が連綿と続いていたことを伺わせます。当地においては守護職山名氏の保護を受け、隣国尼子氏の進出に際しても庇護を受けているのですから、よっぽどの事情が無い限り、寺の構えや歴史は保たれることになります。ただ、木造建築の耐用年数が短いため、財力に応じて定期的に修理や建て替えが行われます。結果的に、古い時期の建物はあまり残らなくなります。
 逆に言うと、古い時期の建物が残っている寺社というのは、かつては資金不足で修理や建て替えがままならなかったところが多いです。いまは有名になって、多くの古建築を有している奈良の古寺のほとんどがそうでした。


 山号は金地福山、創建は鎌倉初期の建久年間(1190~1198)で、開山は当時の伯耆・出雲両国の守護職を担った佐々木高綱と伝わります。初めは律宗に属しましたが、明徳三年(1392)に守護代の南条貞宗がその次男で僧籍にあった機堂長応禅師を招き曹洞宗寺院として中興させています。以後、南条氏、尼子氏、山名氏の庇護を受けました。
 江戸期には鳥取藩から久米、河村、八橋の三郡の筆頭寺院に任じられて同地域の寺院を統括しています。この三郡統括は、おそらく中世戦国期以来の寺格を鳥取藩が追認したものとみられ、鎌倉期の創建以来ずっと定光寺が伯耆国の中で重要な位置を占めていたことを伺わせます。

 K氏は、私の説明を聞きつつ「要するに、この寺は伯耆国随一の名刹というわけやな。これに匹敵するような重要な寺は他にあったのかね」と尋ねてきました。私はこう応えました。
「伯耆国はもともと大山信仰の範囲内にあるから、天台宗大山寺の影響が平安時代から濃い筈。中世期に伯耆の中心が古代以来の国府から東に移った頃に新規勢力の武家政権が新たに拠点寺院を作る必要が出てきて、それで佐々木高綱が定光寺を置いたんやと思う。古代以来の天台宗大山寺に対する武家勢力サイドの寺院だから、同じ武家である山名や尼子や南条がバックアップするのは当たり前なんや」
「なるほど」
「あと、伯耆は神社勢力のほうがかなり強かったらしい。倉吉の神社はみんな一宮の倭文(しどり)神社の系列やったみたいやし、そっちには真言系の信仰も混ざってたらしいから、どっちかというと都の京都との繋がりもあったんやないかと思う」
「ああ、そういえば因幡一宮の宇倍(うべ)神社もそうやな・・・」


 山門の両袖には天然の大木が据えられ、それぞれに阿吽の憤怒形の顔が彫りこまれて仁王像の存在を示しています。倉吉には仏師や彫刻家の方が多くいらっしゃるので、そのいずれかが手がけられたものでしょう。


 顔だけでも充分な気迫に満ちています。参拝者の視点に近い高さであるため、仁王像の降魔の呪力が異様な緊迫感をともなって迫ってきます。


 本堂は近年の建て替えになるもののようです。一礼したのみですぐに脇に退き、伽藍域左手の墓地に向かいました。


 墓地は左側の丘裾に長く広がって、現在の霊苑エリアも拡張されていますが、古来の墓地は本堂の左裏手に位置し、丘上の小堂への長い参道石段が墓地への参拝道も兼ねています。


 その一角に、南条氏歴代の墓所があります。寺が戦国期に南条氏の菩提寺とされていた関係で、戦国期に活躍した三代の墓は、本拠羽衣石ではなくてこちらにあります。元続、元秋、元忠の三人がここに葬られています。


 三基の宝篋印塔は、左から元続、元忠、元秋の墓碑とされます。真ん中の元忠の宝篋印塔が最も新しく、基礎が両脇の基台にまたがっているので、もとは元続、元秋の墓碑が並んでいたところへ後から追加されたものと分かります。


 南条氏は南北朝期からの系譜が知られて歴代に多くの名前が知られますが、この墓所に眠る三人は、戦国期後半に活躍しており、系図の上ではごく一部にあたります。元続と元秋は兄弟で、元忠は元続の嫡男にあたります。戦国期の南条氏は元忠が大阪陣にて自刃したことによって終焉を迎えるので、戦国期南条氏の最後の光芒を放った人々、と表現することも出来るでしょう。


 ここに眠る人々は、南条氏を伯耆国の南条氏たらしめた歴々とも言えます。長く山名氏や尼子氏の下にあり、戦国期には毛利氏の圧迫を受けた伯耆国を、守護代職の伝統と面目とにかけて回復自立せしめんと初めて立ち上がったのが、南条元続でした。
 南条元続は、父宗勝の親毛利の信条にも訣別し、毛利方の勧誘と圧力とを振り切って織田信長方に好を通じました。そうして反毛利の旗色を鮮明にし、伯耆国の在地勢力に檄をとばして伯耆国人衆の同盟を模索したのでした。
 これを支えた弟の南条元秋も各地を転戦し、毛利吉川の大軍を長瀬川に迎え撃って重傷を負い、亡くなりました。家臣津村長門がその亡骸を抱えて白石城より敵中を突破し、本拠羽衣石に仮埋葬しましたが、後に定光寺へ改装されたということです。
 南条元秋亡き後は、もう一人の弟で小鴨氏を継いだ南条元清が岩倉城に在って毛利方の猛攻に耐え、これも伯耆国回復に執念を燃やして激闘を重ねました。兄の元続が病を得て斃れた後は、元忠の後見人となって必死で南条氏を支えました。
 南条元忠は豊臣政権下の武将として成長、関ヶ原戦では西軍に属して伏見城・大津城を攻めましたが、結果的に西軍が敗れたため浪人となりました。それで反徳川の立場にあり、大坂冬の陣では、旧臣とともに大坂に入城しました。しかし、東軍の藤堂高虎の誘いを受け、伯耆一国を条件に東軍に転じようとするも見破られ、城内千畳敷で切腹させられました。これにより、父元続や叔父元秋らが願った伯耆国回復、南条氏存続の夢はともに経たれてしまいました。
 元忠の遺骸は、小姓の佐々木吉高によって持ち帰られ、後に定光寺に葬られました。

 このように見ていくと、本当に伯耆国のために戦ってくれた在地の武家は、南条氏のこの三人だけだったのだな、と思わざるを得ません。彼等こそ、伯耆国もののふの鑑であり華であったのではないか、と改めて思いつつ、Kさんと並んで合掌礼拝し、用意した清酒と花束を捧げました。


 かつて伯耆国の戦雲を見上げて涙と血潮にまみれた歴戦の勇者たちも、いまは遠くに大山の峰を見守りながら静かに眠っています。
 その志と事蹟は、江戸期鳥取藩の時期には割合に正しく理解されたようで、歴史を学ぶ藩士たちの墓参が少なからずあったと伝えられます。そのなかに、倉吉を任された家老荒尾志摩こと主計(かずえ)嵩就(たかなり)の姿があったという伝承は、倉吉の歴史においてはもっと顧みられていいのではないか、と思います。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の6 「倉吉博物館にて」

2016年09月17日 | 倉吉巡礼記

 5枚の新規パネルの設置場所が全て判明したので、道を引き返しました。白壁土蔵群の横の道も閑散としていて、観光客の来訪が昼過ぎにいったん途絶える状態がこの日も見られました。お昼時になると、食事処に乏しい町並みエリアには人影がまばらになります。


 芽兎めうは、この日も元気でした。めうー。


 倉吉博物館に入りました。時間がないので、常設展示のうちの歴史関連のみを概観するにとどめておきました。


 倉吉の古絵図の模写を見ました。上図は打吹山城の部分で、「御城山」とあって東西南北の規模や城域の範囲などが記されています。城跡探査の第一歩は、こうした古絵図にて城跡の記載を確かめることです。
 このような江戸期の絵画資料における城跡への認識や描写が、現在において遺跡を見学する際に重要な参考情報となります。


 同じ絵図の、鳥取藩倉吉陣屋の描写です。「御屋敷」とあるように、実態は武家屋敷の形式にとどまっていたようです。石垣の上に長屋門と多聞櫓を構え、主殿と付属建築二棟が描かれますが、いずれも屋根は瓦を用いなかったようで、主屋はおそらく杮葺き、あとは藁葺きであったような描写です。

 一般的に、江戸期の絵図は記録として扱われることが多かったため、建物や道路などの表現は誇張を避け、実際の様子を忠実に描いているケースが殆どです。陣屋と呼ぶには程遠い簡素な構えに、倉吉を治めた荒尾志摩家の質素な家風が偲ばれて興味深いです。


 打吹山城の西麓の大手に伽藍を構えた長谷寺の描写です。「頼トモノ建立」とあるのは、寺が鎌倉初期に幕府の援助によって再興された事情を示しています。この場合、寄進者には当時の施政者の名を記すのが普通なので、「頼トモ」は源頼朝を指します。
 本堂の屋根が宝形造で茶色に表される点や、懸造りの構えなどは、いまに現存する建物の姿とほぼ一致しています。室町期に建てられた本堂が、江戸期に今の姿に整備された様子がうかがえます。当時は本堂正面に藁葺きの前殿または向拝がつけられていたようです。


 別の古絵図では、街区から見た打吹山の景観が描かれます。右手(西側)の中腹に長谷寺の境内地が見えますが、その境内地にひときわ高くそびえる大樹は、その後失われたようで、現在は見ることが出来ません。


 手前に広がる民家群は、現在の東岩倉町辺りに相当します。その中を流れる川は、玉川のようです。それにしては橋の描写が立派なので、玉川ではなくて別の大きな川かもしれません。


 これは、古代の伯耆国庁の全体図です。現在の国庁裏神社の境内地の西に中心区域が確認されており、一帯は史跡に指定されています。


 古代の伯耆国の郡名です。現在の倉吉市域は、かつての久米郡に大部分が属していたことが分かります。久米郡の名は、明治29年まで続きました。


 そして久米郡には、主に10の郷が配置されていたことが「和名類聚抄」の記載からうかがえます。古代の主要遺跡は国府川流域に沿って点在しており、古代の交通路と街区と寺院が国府川沿いの街道に沿って分布した様子が分かります。
 この状況が中世期になると小鴨川の流域に移行し、やがて山名氏の支配化における田内城下そして打吹山城下の開発発展へとつながりました。


 午後一時前に博物館を辞し、市役所横の観光駐車場にてTさんと合流し、観光交流課での意見交換会に臨みました。小一時間ほどにわたって「ひなビタ」イベントに関する企画部および観光交流課の担当者の説明などを受け、幾つかの質疑応答を重ねました。その時点での市当局のスタンスがよく理解出来、とても参考になりました。

 その詳細については、言い出しっぺのTさんが公表を避けるという方針であるため、私もそれに従うことにしました。その代りに、意見交換会の内容を契機としてのガルパン大洗行きをTさんに提案し、9月上旬に実現することになりました。その経緯に関しては、後日、大洗巡礼記にて綴ることにします。

 以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6」のレポートを終わります。

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