気分はガルパン、ゆるキャン△

「パンツァー・リート」の次は「SHINY DAYS」や「ふゆびより」を聴いて元気を貰います

「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の5 「ひなビタ♪のキャラクターパネル」

2016年09月15日 | 倉吉巡礼記

 「ダイアナ」での昼食を終え、町並み散歩に移りました。この日の午後1時からTさんと市役所に行き、観光交流課担当者との意見交換会にのぞむ予定でしたから、あまりのんびりしてもいられませんでした。
 とりあえず、約一時間の余裕があるのを確かめ、打吹まつりにて新たに加わった5枚のパネルの行方を追ってみることにしました。


 手始めに本町通りを東へ進んでみたところ、前方右にパネルが見えてきました。以前には無かった位置でした。


 近づいて、ここなつの東雲夏陽であることを確認しました。お店は土産雑貨屋の「鳥っと屋」さんです。


 お店の方が愛想よく挨拶して下さいましたので、こちらも頭を下げて一礼し、パネルのことを尋ねました。すると嬉しそうに話してくれました。
「やっと、うちにもねえ、パネルが置けることになったんですよ」
「お客さんの反応とかは、いかがですか?」
「それがねえ、もう、全然違いますのよ。おおかたは写真撮ってるだけなんだけどねえ、でもウチの前で立ち止まって品物見ていってくれるし、時には買って下さるんで、これもう、ねえ、今までとは違いますんで。パネルを置いたらこんなに違うのか、ってねえ、びっくりしてますの」

 それはそうだろうな、と思いました。ガルパンの大洗でも同じ反応を示してパネル設置の効果を実感された店主さんが殆どでした。それでお店ごとにノベルティのガルパン缶バッジやガルパンオリジナルグッズも展開され、さらに人気を呼んでいったところが多かったのです。

 倉吉でも、同じようにグッズ展開をやれば、似たような効果が見込まれると思うのですが、どうもそのあたりは積極的な動きが感じられませんでした。ロイヤルティの問題で観光交流課が慎重になっているのだろうと思いましたが、慎重に構えていてはチャンスを逃しがちになるのが、カルチャーポップコンテンツ特有の現象でもあります。
 大洗のように、地元がノリノリで楽しみつつ、それ行けっ、と積極的に仕掛けていくのでないと、ファンや巡礼者がくいついて来ませんし、リピーターも定着しません。


 続いて、大岳院に行きました。


 山形まり花が居ました。もうこの場所が定位置のようです。寺の住職の娘さんがこういう試みに大賛成で積極的でノリノリだと聞きましたが、そうでなければ、厳粛な禅林の境内地にこのようなパネルが置かれないと思います。


 北の玉川沿いに、見慣れた景色をみながら進みました。打吹山城の探査を秋以降に予定しているため、とりあえずは関連資料を探していますが、そういったものは倉吉市立図書館には余り無くて、三朝町立図書館の方に全部揃っているのでした。倉吉市立図書館は、どうも郷土資料への認識が薄いようです。


 例えば、重伝建に関する資料ならば、基本的には文化庁所管の基本概要や調査報告書、文化財指定建築のそれぞれの修理報告書などが地元自治体には網羅されていてしかるべきです。
 たとえば、奈良県橿原市や岐阜県高山市の図書館のように、古い町並み関連の資料だけで数十冊から百冊ぐらいがあってコーナーが設けられる、というのがあるべき姿です。そういうのが、倉吉市立図書館には全然見当たらず、所蔵数も郷土資料書庫のほんの一部にとどまっています。

 以前に観光交流課にて同様の問い合わせをしたことがあります。重伝建に関する資料はありませんか、と。返事は「ありません」でした。観光用のマップ程度しか置いていないのです。
 それで次は教育委員会へ行って文化財担当者に同じ問い合わせをしましたが、「国の調査報告書というのは確かにありますが、ウチには置いてないんです」という返事でした。ここ数年の整備事業の基本となる計画書すら無い、という有様でした。計画書も揃えずに町並み保存整備の実務を進めているのか、と思ってしまいました。
 ところが、そういう計画書や調査報告書の類が三朝町立図書館にはきちんと揃っているのでした。今回借り出した本もその一部でありました。


 なので、たとえば上図の古民家の概要を調べるべく、関連の状況調査書や修理所見資料、整備計画概要などを倉吉市立図書館に探しに行っても、一冊も見つからない、という結果になるのが珍しくありません。

 どうにもならないので、後日に奈良県立図書情報館へ行って調べたら、ちゃんと数冊が閲覧出来ました。奈良はさすがに町並み保存の先進地です。関連資料の豊富さは他の追随を許さず、倉吉関連の資料も幾つか揃っていて見事なものでした。
 さらにガルパンの西住邸の元ネタになっている、奈良国立博物館の仏教美術資料センターでも、建築関連の書庫に倉吉打吹玉川重伝建地区の総合報告書がありました。さすがですね。倉吉市は、そこのところをもう少し見習った方がいいと思います。


 唐揚げのお店「集」は、この日は休業日でした。


 その店内には、和泉一舞の新パネルがありました。これも定位置におさまっているようです。


 山形まり花の新パネルは、久楽さんの店内にありました。これも定位置におさまっているようです。霜月凛の新パネルは前回見たブライダル店のウインドー内におさまっていますから、残るは東雲心菜でした。
 そのことを話したところ、お店の方は「じゃあ、まんばやさんが置いた、ってのがそれでしょうかねえ」と首を傾げていました。
「まんばや、ってここから北へ行ったところにある土蔵造の和菓子屋さんでしたか」
「ええ、そうですそうです」

 これで位置が判明しましたが、そこまで行って撮影するには、時間が足りませんでした。また今度にしよう、と決めました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の4 「里の観音堂とダイアナランチ」

2016年09月13日 | 倉吉巡礼記

 大原神社は、大原集落のやや北側に位置しています。集落は南に長く伸びているので、神社の旧位置や神宮寺の跡地もおそらくは南にあったのではないかと考えました。
 そこで道なりに南へ行くと、大原廃寺遺跡へも通じる道の途中に公民館があり、その近くに「大原観音堂」なる一堂宇があることを知りました。20年前に大原廃寺遺跡へは行きましたが、「大原観音堂」のことは記憶に無かったので、見落としたのでしょう。
 観音堂への参道石段の脇に、立派な石碑がありました。観音堂が平成四年に再興された際の記念に建てられたもののようですが、再興とあるのは、江戸期のお堂が痛んできたので建て直した、という意味だろうな、と考えました。


 この「大原観音堂」は、集落の中央に横たわる低丘陵の南端に位置していますが、下から見るとかなりの高さがあります。仏教の寺院や堂宇を山地に配置するケースは全国的にみられますが、このような急な地形の上に建てる事例はそんなに多くありません。


 思った通り、お堂の前庭からは、大原の里の南側全域を見渡せました。ただ、里の観音堂の立地にしては高すぎるので、堂の背後に回って地形を確かめてみました。
 すると、驚いたことに、お堂の背後にはさらに高い尾根があり、その斜面は人為的に均して造成されたような雰囲気がありました。これは、切岸だな、と直感しました。

 切岸とは、中世戦国期の城郭にみられる人工的な急斜面のことです。つまり、「大原観音堂」の建つ丘には、城砦が構えられていたようなのです。
 そこで、斜面を登って上の様子を見ると、木立や藪のかぶさる暗い中に、土塁とおぼしき構築物が見えました。草が繁っていて入れないので、細かく把握出来ませんでしたが、間違いなく城砦であると分かりました。かつては城砦であった場所に、江戸期に「大原観音堂」が建てられた、というイメージがまず浮かびましたが、城砦の最高所がかつての大原神社の旧位置であった可能性もあります。

 つまり、大原の里の中央にある丘を最初は神奈備と崇めて神社を祀り、その神宮寺も配置していたのが、中世戦国期に城砦化され、尼子氏の攻撃を受けて被災し神宮寺は焼失した、という歴史的変遷が想定出来ます。そして神社は、戦闘で穢れた丘を避けて麓の現在地に移された、という成り行きかもしれません。

 後日資料をあさってみたところ、大原城という中世期の城郭遺跡の記載を見つけました。南北約140メートルと、思ったよりも規模が大きいので、葉が落ち草が枯れた時期に再度中に入って見学してみたくなりました。夏場はどうも城跡見学に向いていません。


 時間が無くなってきたので大原での見学を打ち切り、三朝町立図書館に行って本を返却し、倉吉市街に引き返して「ダイアナ」に行きました。


 この日の昼食は、このお店の日替わりランチである「ダイアナランチ」と決めていました。オムカレーも「とってもとってもいいと思います」が、次の楽しみにとっておくことにしました。


 なんか色々置いてありますねー。倉野川珈琲ですか・・・。


 お店オリジナルの「ひなビタ」スタンプ、というのはこれですか・・・。芽兎めうの実家が判子屋なので、それに因んだネタとして実現させたもののようです。


 春日咲子の原画イラストです。アコースティックギターを優雅に構えて温かな旋律を紡ぎだすかのような雰囲気が、「とってもとってもいいと思います」。


 ひなビタの七人、日向美ビタースイーツとここなつが全員揃った公式画像です。ファンはこういうのを欲しがるでしょうね。


 ファンからの寄贈品とみられる、芽兎めうのアクリル製スタンドです。足元のひなち君がケロロ軍曹みたいなタッチであるのが笑えます。


 今回の「ダイアナランチ」はこういう組み合わせです。


 けっこうボリュームがあるので、楽しく食べられます。毎回メニューが違いますから、同じ組み合わせを二度食べることはまず無いと思います。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の3 「グッスマと牛骨ラーメンと」

2016年09月11日 | 倉吉巡礼記

 赤碕から倉吉市街に戻りました。行きのルートとは別に国道9号線、山陰道の県道320号線を東上、天神橋を渡って国道179号線に進みました。途中でTさんが「しまむら」倉吉店に立ち寄ろうとしましたが、休業日でした。なんでもTさんはその店でガルパンシャツを買ったのだそうです。何のデザインですか、と訊ねたら「レオポン」と答えてきました。どうやら、各チームのマークがそれぞれデザインされているようです。

 それから、Tさんお気に入りのドライブルートである、天神川の西堤上の県道161号線を南下して田内の城山の裾をぐるりと進みました。Tさんは「ここらの景色がいいんですよ」と楽しげに話していましたが、私も20年前に鳥取への行き来でよく走った道なので、懐かしい気分でした。
 若い頃は、その道を「リバーサイドドライブ」の気分でBGMに浜田省吾などをかけ、ロンサムボーイのムードに浸りつつ走ったものです。当時の車は三菱エテルナZR-4でしたね・・・。

 途中でTさんが倉吉西工業団地内のグッドスマイルカンパニー楽月工場へ寄って下さいました。


 ここがグッスマのラッキーファクトリーか、と感動し、思わず「素晴らしい」と呟いて手を叩きました。Tさんは呆れ気味に笑っていましたが、私にとっては聖地の一つです。拍手せずにはいられませんでした。いつも買っているガルパンのフィギュアの大部分はこのメーカーの製品だからです。


 ところが、Tさんは「この工場で作ってるのは「桜ミク」と馬だけらしいですよ」と言いました。
「えっ、そうなんですか?・・・確かガルパンのねんどろいどの五十鈴華と冷泉麻子はここで作ってるってテレビの何かの番組でやってたんですが・・」
「あ、そうなんですか・・・」

 オンキョーさんの施設内に間借りの形とはいえ、規模の上では中小のメーカーの工場群を遥かに上回ります。これだけの施設で生産するのがミクと馬だけ、というのは不思議な気がしました。オープンしてまだ間もないですから、これから徐々に増やしていくのでしょう。
 そうでないと、生産拠点のメインを国内に回帰させる、と発表しているグッドスマイルカンパニーの基本方針とも矛盾します。私の知る限りでは、国内の工場はまだここだけらしいので、サイト情報やパッケージに倉吉のくらすけ君マークがあるか、メイドインジャパンの表記があれば、それらは全てこのラッキーファクトリーで生産されたことになります。


 Tさんとは、翌日の昼から倉吉市役所観光交流課との意見交換会に共にのぞむ予定でした。それで予定を確認し合った後、別れて私はこの日の宿である、パープルタウンの隣の「倉吉タウンホテル」に移動しました。周囲に牛骨ラーメンの店や食事処がたくさんあるので素泊まりで充分です。料金も4980円とリーズナブルです。

 シャワーを浴びてさっぱりし、朝に三朝町立図書館で借りてきた本を読んで小一時間ほど過ごしました。


 この日の夕食も、牛骨ラーメンでいくことにして、北街区の国道179号線沿いにある「大香房」へ行きました。今回初めて行ったお店です。


 このお店は、一般的には牛骨ラーメンの店として知られますが、お店ではメインをむしろ「倉吉みそラーメン」に置いて売り込んでおられるようです。味噌系のラーメンは好きなので、ものすごく迷いましたが、まずは倉吉の牛骨ラーメンの味の一つを知っておこう、と思いました。


 そして注文したのが、上図の「牛骨らーめん」630円でした。


 その味は、お店オリジナルの海鮮風味にいろどられ、なかなかに個性的でした。普通のラーメンでいただいてもイケるんじゃないか、と感じました。


 翌朝は7時に起きて、近くの「すき家」で朝食をとり、天神川東岸の大原地区へ行きました。その中心的な祭祀拠点の大原神社へまだ行ったことが無かったので、この機会に訪ねました。


 鳥居前に立つ案内板です。古代の大化三年という創祀年はともかく、中世期には既に存在した里の惣鎮守であったようです。南に神宮寺があったというのは、要するに神仏混交の形態であったことを示しています。その神宮寺のルーツは、おそらく古代寺院のひとつ「大原廃寺」に関連すると推定されます。「大原廃寺」は神社と丘をはさんだ反対側の谷間にいまも立派な塔心礎を残しており、昔に三度ほど行ったことがあります。

 ですが、個人的に興味をひいたのは、大永四年に尼子経久の侵攻を受けて神宮寺が焼失した、とある記述でした。中世戦国期の寺社は武装しているのが普通でしたから、政治的には「武装勢力」の一種にあたります。尼子氏に敵対したから攻撃を受けたのであり、したがってその所属元は伯耆山名氏または南条氏を軸とする国人連合軍であったと思われます。
 すると、かつてはこの辺りに城砦があったはずだ、寺社が城砦を構えるのは全国的にみられた現象でしたから、神社の横にある丘陵上に城があってもおかしくない、と考えました。


 現在の境内地は、丘裾の窮屈なスペースに造成段を設けて確保されています。建物も江戸後期以降の新しいもののようで、とても古代から続くような古社の風情ではありませんでした。
 たぶん、中世期に存在したという神社も、現在地ではなくて、もっと高い場所、大原の里全体を見渡せるような、一種の神奈備のような場所にあったのでしょう。その位置は、焼失して廃れたという神宮寺の場所がヒントになるのではないか、と考えました。その付近に、城砦もあったかもしれません。


 本殿を見学した後、三朝町立図書館から借りてきた本についている古絵図と対比地図とを開いて見比べました。あまり知られていないことですが、大原地区は、伯耆国守護代南条氏の本拠羽衣石城の南東麓続きの低丘陵地域にあたります。

 尼子氏が羽衣石城に圧迫をかけるとすれば、北の大手方面は避けるはずですから、東の佐美から山裾をたどるか、南東の大原の谷間から城の南東尾根に連絡して搦め手を突く、のいずれかになります。大原が攻撃されたのであれば、尼子氏はここから羽衣石城を牽制、既に制圧した打吹山城を後詰として、伯耆国を一気に支配下に置こうとしたのかもしれません。

 色々考えながら、とりあえず約一時間の余裕があるのを確かめ、焼失して廃れたという神宮寺の場所を探してみることにしました。20年ぶりの「倉吉歴史探検」の再開でした。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の2 「塩谷定好写真記念館のひととき」

2016年09月09日 | 倉吉巡礼記

 赤碕の「菊港」で潮風に吹かれた後、Tさんお気に入りの観光スポットである「塩谷定好写真記念館」へ行きました。写真記念館というから近代的な建物を想像していたのですが、実際には塩谷家の旧宅をそのままギャラリー施設に使用している感じでした。
 建物自体は明治初期ぐらいの遺構のように感じられましたが、目立った改変は見当たらず、歴史遺産としても価値が高いです。国の登録文化財に指定されています。

 現在の状態に改修されたのが今年2016年の4月で、現在は特定非営利活動法人「塩谷定好フォトプロジェクト」が所有し保全管理にあたっています。


 施設内に新たに設けられたカフェです。Tさんお気に入りの「隠れ家」だそうです。とりあえず腰かけてコーヒーをいただきました。


 窓の外には、4棟の土蔵の1つが見えます。もちろん、国の登録文化財に指定されています。


 別の土蔵は、主屋に隣接してギャラリー棟に改装されていて、外見も板張りに換えられています。塩谷家の出身で写真家として活躍した塩谷定好が、この土蔵の1階を写真店兼喫茶室、2階を写真スタジオに改造しました。
 現在はカフェの土蔵スペースとして使用されていますが、建物自体は傾いていて、屋根端が隣の土蔵の軒にくっついていました。


 その内部はこんな感じです。土蔵の内装をそのままレトロチックな風情に生かして、独特のムードを演出しています。


 2階の写真スタジオ部分は改修で大半の床を撤去され、釣り式の掛け材と、階段とが残されています。


 塩谷定好が使用していたであろう、電話機です。配線が照明のそれに繋がって残されているようなのですが、いまも現役で使える、というのではなさそうです。


 昔の蓄音機です。子供の頃はレコードで音楽を聴いたりしましたから、こういう遺品に出会うと懐かしい気分になります。


 昔の糸車も置いてあります。アンティークのインテリアとしては珍しい部類に属しますが、独特の存在感があって良いです。かつては養蚕も盛んであった赤碕なので、こうした糸車はどの家にもあったものと思われます。


 庭園からみた、主屋の外観です。街道に直面する商家建築としては古例に属し、棟を東西に伸ばして二階建とし、屋根は、切妻造の桟瓦葺とします。外壁は漆喰塗で、上下階に広く繊細な格子をたてています。


 庭園にて何かを見上げるTさん。


 庭園の横には石積みで構築された園池がありますが、水は流れていませんでした。築山の上に小さな祠があるので、かつては水が流されていたと思われますが、導水施設も流水の痕跡も見当たらないので、かなり改変されているようです。


 街道に面した続きの覆屋には、昔ながらの円筒形ポストがいまも現役で頑張っていました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン6の1 「ラーメンと赤碕港」

2016年09月07日 | 倉吉巡礼記

 8月17日、倉吉へ一泊二日の行程で出かけました。ネット上でのコメントのやり取りが契機となって知り合った、倉吉在住のTさんと初めて会うことになり、あわせて倉吉市役所での観光交流課との意見交換会に誘われたためでした。
 今回は三朝町の三仏寺関連の資料なども欲しかったので、朝9時半に三朝町立図書館に立ち寄って図書カードの手続きを行ない、三冊の資料を借り出しました。

 鳥取県内の各自治体の図書館は、蔵書数やサービスレベルに差があるものの、歴史や文化関連の専門書が他県よりも充実していることで知られます。私自身は県内の大半の図書館を利用しましたが、文化財関連の蔵書が充実しているな、と思うのは、鳥取県立図書館を別にすれば、鳥取市立図書館と三朝町立図書館の二ヶ所です。
 倉吉市立図書館は、古い町並みに関連する専門書すらあまり置いておらず、考古関連資料はかなりありますが、美術工芸や歴史民俗の分野では不足が目立ちます。むしろ三朝町立図書館のほうに、その関係の本が多く収蔵されているため、時々利用するならば三朝町立図書館にしよう、と以前から決めておりました。今回のような泊りがけの倉吉行きの際に本を借りて、宿で読んで楽しむのも有意義だな、と考えたのでした。

 それからTさんに連絡して合流場所へ移動、ほどなく初対面の挨拶を交わしてTさんの自宅にも案内していただきました。その後、Tさんのお気に入りの場所であるという赤碕へ連れていってもらいました。

 赤碕とは、中世から近世にかけて伯耆国の主要港であった八橋湊(やばせみなと)のある地域を指します。中世戦国期には守護職山名氏の、江戸期には鳥取藩の、外港として大いに栄えた歴史を持ちます。
 その赤碕へ倉吉から続く街道がいわゆる「八橋往還」と呼ばれたルートで、古代以来の因幡街道の一部を取り込んでいた経緯はよく知られるところです。

 上図は、その「八橋往還」ルートです。現在の県道151号線にあたります。


 30分ほどで、赤碕の国道9号線沿いの道の駅「ポート赤碕」に着きました。20年前に鳥取市から皆生温泉まで湯治に行った際に延々と9号線を走り、途中で唯一休憩で立ち寄った場所でした。そのときの記憶のイメージが全く合わないので、おそらく建物もかなり変わったのだろうな、と思いました。


 まずは、施設内にある牛骨ラーメンの「べんけい」2号店に立ち寄りました。Tさんも、私と同じく牛骨ラーメンが好物だそうです。
 「べんけい」は倉吉駅の近くに本店があり、二度ほど行きましたが、こちらの2号店は初めて知りました。時々、本店が臨時休業になっているときがあり、戸口に決まって「赤碕へ出張しております云々」の貼り紙がしてあって、何のことだろうと疑問に思っていましたが、2号店のことだったんですね・・・。


 店内は満席でしたのでしばらく待ちましたが、その際に店内の「べんけいラーメン」の案内ポスターが目に入り、あれを食べようかということになって、入店時に「牛骨ラーメン」で買ったチケットを変更してもらいました。


 これが、今回いただいた「べんけいラーメン」です。牛骨ラーメンの新メニューかと思ったのですが、そうではなく、普通のラーメンでした。倉吉の本店で食べた牛骨ラーメンとは味が全然違いました。


 食後に施設内でTさんに教えられた、アニメ「琴浦さん」の案内ポスターです。地元琴浦町のご当地アニメ、というように伺ったのですが、後日調べてみると、琴浦町とのコラボは後から追加されたもののようです。
 つまり、2013年1月に原作コミックのTVアニメ化シリーズが全12話で放映された後、主人公の名前が「琴浦春香」であるのに目を付けた琴浦町が連携をもちかけて6月に特別展示を実現、あわせて新連載コミック「とっても琴浦さん」を琴浦町公式ホームページ上に掲載開始し、現在に至っている、ということです。
 私自身は、今回初めてこのアニメを知りましたが、キャラクターやストーリーをとりあえず追いかけてみたところ、広島県尾道市が舞台の「かみちゅ」に似ている感じでした。
 しかも、「琴浦春香」の声が、どこかで聞いたような声でしたので、担当声優さんをチェックしてみたところ、カルバンのカチューシャやホシノを演じている金元寿子さんだと分かりました。

 「琴浦さん」の公式サイトはこちら。琴浦町公式ホームページの「とっても琴浦さん」の記事はこちら


 赤碕港に行きました。久しぶりに日本海のコバルトブルーの水平線を眺めました。付近の海面に洗われていた古そうな石積みは、江戸期の築堤の遺跡の一部だそうです。

 赤碕港は、現在は西側に漁港施設が増設されてそちらが港湾機能を担っています。こちらの古い築堤を伴う港は、かつては「菊港(きくみなと)」と呼ばれ、江戸期には鳥取藩の廻米の積出港として賑わったそうです。すでに中世期に日本海航路の廻船の出入りがあったといい、尼子氏や毛利氏の水軍の拠点になったこともしばしばだそうです。


 「菊港」の石積み築堤は東西に築かれましたが、いずれも現存しており、日本海側に現存する数少ない江戸期の石造波止の遺構として、現在は土木学会選奨による「土木遺産」に指定されています。波止とは、防波堤と船の接岸場とを兼ねたものを指します。

 東の築堤は最近に公園整備が行われ、先端近くには昔の旅姿をあらわした石像「波しぐれ三度笠」が立っていました。


 東の築堤上より、西の築堤を見ました。江戸期の修造ですが、いまも現役で港湾の外郭を成しています。


 東の築堤の先端です。石積みの常態のままですが、公園化の際に修築し直したのか、新しい感じの石がかなり混じっていました。


 石造の上にウミネコが停まっていました。最初はユリカモメかと思ったのですが、それにしては嘴が精悍で羽根の色も濃いので、ウミネコだな、と考え直しました。
 カメラを向けると、どういうわけか動きを停めてしばらく微動だにしませんでした。まさか、カメラを意識してポーズをとったんじゃないでしょうね・・・。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の10 「倉吉線跡と安房里見氏史跡」

2016年09月05日 | 倉吉巡礼記

 町並み散策を終えて帰路につくべく関金に移動しましたが、まだ日は高かったので、一時間ほど延長して関金エリアを適当に回ってみようと思いつきました。
 それで、20年前に一度だけ行ったことがある「関金町資料館」に立ち寄ってみました。初めて見る、真新しい石標が路傍に立っていました。


 しかし、資料館の建物や屋外展示品があった場所は、更地になっていました。本館は古民家調に造られた雰囲気の良い建物で、内部には当地でかつて盛んであったタタラ製鉄や木地師に関する資料をはじめ、多くの民俗資料があったと記憶していますが、全てが跡形もありませんでした。しばらく、入口付近にて立ちつくし、遠い20年前の景色を想いました。

 後日調べたところ、資料館は二年前の平成26年3月31日に閉館し、展示資料の一部は倉吉市役所関金庁舎のロビーにて展示されている、ということでした。いずれ機会をみて関金庁舎を訪ねてみます。


 「関金町資料館」跡地のすぐ向かいには、かつての国鉄倉吉線の廃線跡が残されています。こちらは20年前に見た状態のままだろうな、と思いつつ近づきました。


 線路へ登る階段も、生い茂る夏草に覆われつつありました。


 思った通り、線路上には草が繁り広がっていました。


 レールは、今もなお残されていることが、足元を見て分かりました。秋から春にかけての、草の無い時期に行けば、残存レールの全容が見渡せることでしょう。

 国鉄倉吉線の廃線跡は、いまも一部に駅のホームやレールが残り、ハイキングコースになっているところもあります。廃線跡トレッキング等、倉吉市の歴史散策イベントも定期的に開催されているそうです。
 私は近代産業遺産に関心がありますので、その一種である鉄道廃線跡巡りにも興味があります。機会があれば廃線跡トレッキングイベントにも参加してみたいです。


 続いて、堀地区にある山郷神社を訪ねました。元は堀神社と称して当地の鎮守であったものです。山郷はヤマノサトと読みます。


 この山郷神社の境内地に接して、安房里見氏の終焉の地があり、一帯は廟所として扱われています。神社の鳥居前を過ぎて少し行くと、辻があって上図の標識があります。上へ登る道の入口に駐車スペースがありますので、そこに車を置いて、道を登りました。


 道を登ってゆくと、山郷神社の境内地の横に出ます。道はそこで終わって細くなりますので、車で上がってもそれ以上は進めません。


 道を折り返して細い参道に進み、道なりに進んで段々畑の上にゆくと、やがて向こうの木立の下に祠が見えてきました。


 安房里見氏の終焉の地です。戦国の乱離を切り抜けて安房国に里見の家名を保ったのもつかの間、徳川将軍家の権力闘争と陰謀の標的にされて領地は没収の憂き目となりました。転封とは名ばかりの倉吉行きとなって、謹慎蟄居同然の身となった、最後の当主里見忠義は、この地の屋敷にて、跡継ぎも無いままに29歳の若さで亡くなりました。従ってきた八人の家来も、三ヶ月後に殉死して後を追いました。


 涙無しには語れない、戦国終焉に伴う悲話の一つがここに静寂を引き寄せています。祠の背後にそびえる椎の大樹は樹齢400年を数えるそうですので、里見氏主従がここに蟄居した時期に屋敷の庭木として植えられたものかもしれません。
 主従の墓は、倉吉打吹地区の大岳院にありますが、魂はおそらくここに鎮まって居るものと思われます。そう感じずにはいられないほどの厳粛な雰囲気が、祠の建つ空間にのみ、漂っていたからです。


 主従が日々眺めていたであろう景色は、いまと余り変わっていないのではないか、と思いました。山並みの上の空の彼方に、彼らは常に、故郷安房国館山城の風景を思い浮かべていたことでしょう。

 以上にて「「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5」のレポートを終わります。

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の9 「コンチェルトとダイアナ」

2016年09月03日 | 倉吉巡礼記

 少し時間が余ったので、重伝建エリアの防火システムやインフラ整備状況などをあちこち観察しながらあちこち移動しました。途中で、和泉一舞のパネルが立つ土蔵ギャラリーの前を通りました。


 「くら用心」内の原画パネル群も、もう一度見ておきました。イベント時にしか展示されないと聞きましたので、春の桜まつりの際にも出されていたようです。

 これは、今回新たに加わった山形まり花のパネルの原画です。「ひなビタ」シーズン4の8月19日に「倉野川観光課だより」で発表された新曲「neko★neko」のイメージ画であり、山形まり花の恰好は、6月に吹奏楽部にマーチングバンドのキーボード演奏を頼まれた際のものです。


 これも、今回新たに加わった和泉一舞のパネルの原画です。「ひなビタ」シーズン4の6月23日に日向美高校のチアリーディング部に頼まれて高校野球地方大会の応援を手伝った際の格好です。


 この春日咲子の原画は、ドラマCD「SWEET SMILE COLLECTION」シリーズの「カップリングC」のカバーイラストです。横にいる妖精みたいなのは、誰でしょうか・・・。


 芽兎めうの原画です。自爆ボタンまで装備されているという、愛車の「もちゃちゃ」に乗っています。これが戦車だったら「せんちゃちゃ」になるんでしょうか・・・。ウサギのマークやデザインが各所にあしらってありますので、ガルパンで言うとウサギさんチームのM3中戦車リーに相当するんですかね・・・。


 この霜月凛の原画は、ドラマCD「SWEET SMILE COLLECTION」シリーズの「カップリングB」のカバーイラストです。左横にいるのは芽兎めう、右横には星見日向です。


 喉が渇いてきたので、市役所下の喫茶店「コンチェルト」に行きました。漢字をうまく当てて店名にしてありますが、昔からこの名前だったかな、と首を傾げました。


 この日は営業していました。営業しているのを見たのは20年ぶりでした。内部には手作りの小物や調度品が多く並び、こんなお店だったかなー、という気分でした。20年前とはどこかが何かが違っているような感じがしたのでした。改装したのか、経営者が変わったのかもしれないな、と思いましたが、実際にはどうなのでしょうか。いずれ機会をみて聞いてみたいと思います。


 メニューには、「ちくわチップクッキー」というのもありましたが、「何だそれは」感が強くて、コーヒーだけをいただきました。


 ちくわ関係ならば、やっぱり「ちくわパフェ」だと思うので、迷わず「ダイアナ」に向かいました。


 ところが、店内は巡礼者で満席でした。打吹まつりの二日目ですから無理もありません。帰る前に「ちくわパフェ」だけは絶対食べておきたい、という雰囲気の客ばかりでした。この日も大繁盛の「ダイアナ」でした。
 春日咲子的には「とってもとっても、いいと思います」ですね。 (続く)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の8 「パネルのある街角」

2016年09月01日 | 倉吉巡礼記

 再び観光駐車場に車を置いて、琴桜口からの散歩を楽しみました。上図は「りんりん屋」です。一見して何のお店が分からないぐらい、色々な商品を扱っておられますが、基本的には土産物屋であるそうです。


 「元帥酒造」さんの木戸口越しに、山形まり花を見ました。このキャラのアホ毛は、ガルパンの五十鈴華のよりも弾力があるようで、頭上に大きく円をえがいています。


 向かいの店のウインドー内には、相変わらず春日咲子が居ます。「ひなビタ」のパネルも、ガルパンの大洗のように位置が固定されているものが多くなってきました。


 ひなビタギャラリーの置かれた「くら用心」です。復興建築であるために文化財保護法等の制約がかからず、内部空間はフリー展示室としても機能します。イベントのたびにパネルなどが展示されているのもそのためでしょうが、もう少し工夫して色々と盛り込んでいただければ、見学の楽しみも増えることでしょう。


 玉川にかかる橋の横に、ここなつの双子姉妹がたたずんでいます。こういう風景も、倉吉では見慣れたものになってきつつあります。パネルがあっても違和感を感じなくなっています。

 問題は、そうして風景に溶け込んでいった時点で、それらのパネルをどう活用して観光振興に繋げるか、ということに尽きると思いますが、行政側にも地元住民においても確かなビジョンが構築されていないような、一種の空虚感すらただよっています。
 ガルパンの大洗が、思いつくままに次々と仕掛けていってイベントを盛り上げ、巡礼者を絶え間なく呼び込んでいたのとは対照的です。


 ここなつの双子姉妹は、打吹まつりの終了後は、たぶんどこかのお店に貸し出されるのでしょうが、二人揃って貸し出されるのか、バラバラに配置されるのかは、分かりませんでした。予想では、バラバラになる可能性が高い、と思いました。パネルを置きたがっているお店がかなりある、と聞いていたからです。
 しかし、倉吉ではまだどこでもパネルを置くだけに終始しているようなのでした。せっかくパネルを借りたのだから、これを資本として何か仕掛けよう、投資してみよう、という発想に至らないようです。


 山形まり花の居る「久楽」です。二階が喫茶店になっており、観光客の大半が利用しているそうです。考えてみれば、古い町並みエリアに所在する喫茶店は数えるほどしかありません。街並みの中でゆったりと時を過ごしたい、というようなニーズにはいまひとつ対応出来ていないのが、倉吉の課題の一つです。


 パネルの位置が、午前中よりも、少し外に出ていました。


 バンドではキーボード担当ですが、よく考えると、ガールズバンドのリーダーがキーボード担当であるケースは珍しいのではないでしょうか。


 向かい合って立つ霜月凛です。


 パネルの立つ街中には、昼過ぎにもかかわらず閑散としていました。どうやら、打吹まつりに参加した「ひなビタ」巡礼者はそんなに居なかったようでした。春の桜まつりの時の6000人は延べ人数であるので、実数はもっと少なかった筈です。その数よりも少なくなっているような気がしました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の7 「お銀ちゃんのパワースポット」

2016年08月30日 | 倉吉巡礼記

 明倫小学校の旧円形校舎から戻り、そのまま「Sマートめいりん」の駐車場に車を置いたまま、隣の満正寺へ立ち寄りました。


 満正寺は、鳥取藩池田家の城代家老として倉吉に陣屋を構えた荒尾志摩守家の菩提寺です。荒尾志摩家のルーツの荒尾氏はもとは尾張国知多郡の土豪で、鳥取藩主池田氏が美濃国池田郡の土豪で織田信長の家来だった頃に縁戚となっていた古い氏族です。

 鳥取藩池田氏の祖とされ、戦国期に織田信長に仕えた池田輝政は、のち徳川家康に仕えて娘婿となり、外様でありながらも徳川氏一門に準ずる待遇を受けました。その輝政の母、善応院は、織田信長の武将として三方ヶ原合戦で戦死した荒尾善次の娘にあたります。その関係で荒尾氏は池田氏の家臣となり、鳥取藩成立後は本家の荒尾但馬家が米子を治め、分家の荒尾志摩家が倉吉を治めました。

 その支配形態は、「自分手政治」と呼ばれ、他藩の城代家老のそれよりも格式が上でした。藩祖池田輝政の母方の縁戚である両荒尾家を、鳥取藩池田氏の代々の藩主は一門の重鎮として尊重、所領支配に関して全権を委任しました。それで、幕末に至るまでの200年以上の間にわたって、米子と倉吉は、荒尾家によって統治されたのです。ほとんど米子荒尾藩、倉吉荒尾藩といってもいいぐらいの歴史です。

 そして、これが重要なことなのですが、いまに伝わる倉吉の歴史的封土や町並み景観などの状況は、江戸期の荒尾志摩家の治世が長きにわたって温厚かつ安定的であったことに拠る部分が大きい、と思います。
 鳥取藩においては内政に長け、商業および農業の振興に努めた荒尾志摩家が治めたことにより、倉吉は江戸期の山陰地方では稀な繁栄を得て、長く商都として君臨しました。その歴史の最大の遺産が、今につたわる古い町並みであるわけです。


 満正寺の本堂に懸る偏額には「満正禅寺」とあります。宗派は曹洞宗、山号は透關山です。創建は元禄12年(1699)、開基は荒尾美作守秀就、開山は徳翁尊隆大和尚です。


 本堂の前庭には円形の白砂庭が構えられています。禅宗寺院によく見られる仏世界観の具象化例でしょう。有名な歴史的好例を挙げれば、京都の竜安寺の石庭でしょうか。


 案内板を見ると、やはり須弥山などを象っているそうです。ですが、下に萌えキャラが居るのが印象的で、そっちに視線がいってしまいます。禅寺らしからぬ柔らかさです。


 この寺を、倉吉でも有名なパワースポットに押し上げた、日本最大級の石造の巨大九曜星占盤です。直径は8メートルあり、生年月日から星を算出し、性格、恋愛、対人関係などを占います。これが若い女性の観光客の人気を集めているらしく、古い町並みはそっちのけで満正寺へ行って占いを楽しむ人が少なくないそうです。


 で、本堂前に立てられたパネルにも、さっきの萌えキャラクターが居ます。2011年に登場したそうなので、倉吉のアニメ要素のなかでも古い方に属します。住職さんがアニメに理解があるノリノリな方なのでしょうか・・・。


 ちゃんと「マスコットキャラクター お銀ちゃん」とあります。山伏みたいな恰好ですが、火の用心の提灯を持っていますので、火伏せの神様、秋葉権現がモデルであることが明らかです。耳と羽根としっぽがついているので、秋葉権現のキツネ形の神様であると分かります。

 これ、デザイン的にもなかなか良くできたキャラクターですね。なんで倉吉市のマスコットキャラクターに昇格させなかったんでしょうか・・・。


 倉吉市役所の駐車場に戻り、買ってきたお茶やアイスなどを食べつつ、琴桜口の町並みへ立ち寄りました。


 元帥酒造さんの山形まり花も、すっかり風景の一部になっています。


 向かいの東仲町公民館の「ひなビタ」ショップは、大半のグッズが完売してしまったようで、やってくる巡礼者も疎らになっていました。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の6 「牛骨ラーメンと円形校舎」

2016年08月27日 | 倉吉巡礼記

 「ごっつお」でハーフサイズの牛骨ラーメンを頂いた後、次のお店「八兵衛」に行きました。倉吉の牛骨ラーメンの人気店は、だいたいJR倉吉駅の近辺に点在していて、「ごっつお」は南側、「八兵衛」は北側に位置します。いずれも「ひなビタ」巡礼エリアからは離れているため、聖地巡礼のついでに一杯、というわけにはゆかず、車でないとなかなか回れません。

 倉吉の牛骨ラーメン店は、街中にあるのが多いので駐車スペースも限られていたり、駐車場そのものが無かったりしますが、こちらの「八兵衛」は広い駐車場があるので、遠方から車でやってくる常連さんが多く、いつ行っても満席状態に近いです。でもお客の多くは、満席と分かるとすぐに他の店へ移動するようですので、行列が出来るということはあまり無いと聞きました。


 メニューです。牛骨ラーメンだけで勝負されておられます。こういうお店は、味をしっかり追及されて洗練度も高いと思うので、常連客で満席状態になるのも当然です。
 個人的には塩味よりも味噌味の方が好きなのですが、今回はメニューの一番目の「牛骨ラーメン」をチョイスしました。ハーフサイズで頼もうと予定していたのですが、「ごっつお」のハーフサイズが予想よりも少なかったため、普通サイズで注文しました。


 このお店の牛骨ラーメンも大変に美味しいです。店主さんは、倉吉でも有名な方で、他のラーメン店で修業された後、倉吉にやってきて、老舗店舗の方々に相談したうえでお店を開業されたそうです。


 因幡街道を引き返して旧市街に戻る途中、いつものように「石谷精華堂」本店に立ち寄り、職場の同僚たちへの土産を購入しました。
 倉吉の打吹団子は、関西ではよくスーパーやデパートなどで出張販売がなされているため、割合に知名度があって、味も好評です。現に職場の同僚の半数以上が、「ああ倉吉のや。これ旨いよねえ」といって喜んで下さいます。


 当然ながら、この「ひなビタ」バージョンのを買いました。特典ステッカーは、夏季限定の倉吉絣デザインになっていました。これも6種類があり、5本入りに1枚、10本入りに2枚がついてきます。私はいつも10本入りを買いますが、必ずこちらの本店にて頼んでいます。

 なぜかというと、白壁土蔵群の赤瓦一号館など、主な土産店では見本しか置いておらず、予約販売の形をとっているからです。現物がすぐに買えるのは、JR倉吉駅の駅ヨコプラザか、未来中心内の支店ぐらいのものです。そこへ行って買ってもいいのですが、どのステッカーが入っているかは開封するまで分かりませんから、6種全部をコンプリートしようと思ったら、揃うまで買い続ける必要があります。
 しかし、本店で買うと、パッケージの包装とステッカーの封入から始めて販売するため、例えば10本入りを3箱買うと、6種のステッカーを2枚ずつ順に入れてくれるのです。それでコンプリートになりますから、手っ取り早く、費用も最低限で済みます。
 しかも、職場の同僚は14人居ますので、2本ずつあげれば合計28本が必要になります。したがって毎回、10本入りを3箱買うのが習慣になっています。特典ステッカーもあっという間にたまります。


 暑い中を回っているため、喉が渇いてきました。町並みの西側の南にあるスーパー「Sマートめいりん店」に移動して買い物をしました。その隣には、上図の円形の建物がありますので、車を駐車場に置いたままにして、少し見学しました。


 日本でも珍しい、この円形の建物は、1971年まで明倫小学校の校舎として使われていたものです。円形校舎は教室数を多く確保できるため、1950年代に全国各地に建てられましたが、現存するものはこちらの建物だけになっています。
 昭和30年(1955)の建設なので、既に60年を経ています。明倫小学校が隣の余戸谷町に移転した後は公民館などに利用されましたが、老朽化を理由に平成18年に閉鎖されています。現存唯一の円形校舎建築ですので、いまでは文化財的価値も非常に高いはずですが、いまだに指定登録の案すら出ていないようです。それどころか、解体取り壊しの要望もあるということです。老朽化が進んで危険だ、という声が少なくないのでしょう。


 ガラス越しに内部を覗いてみました。学校だった頃の雰囲気がそのまま保たれている感じで、扇形の平面をもつ教室の状態などがよく分かります。大学の講義室みたいな構造です。

 最近は、この円形校舎を保存しつつ、マンガやアニメなどのフィギュア博物館として再生し、観光資源に育てようとの案が地元有志によって提案されています。その件については以前にも商店街の方にチラッと聞きましたが、実際にはどうなるのかは、まだ決まっていないようです。
 保存するにしても、文化財指定や耐震改修の問題などがあるため、実現へのハードルは低くありません。費用もかなりの額になりますから、行政当局が消極的になるのも頷けます。マンガやアニメなどのフィギュア博物館に、というのであれば、もっと別な形で模索したほうが良いのではないかと思います。


 円形校舎の南側には、校門の古い門柱も残されています。背面の刻銘によって、明治45年(1912)の建設と分かります。開校はその三年前だそうです。


 平成元年の追刻銘によって、明倫小学校がここから現在地へ移転したのが昭和51年(1976)であることが分かります。当時の私は小学生でした。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の5 「まり花と牛骨ラーメン」

2016年08月25日 | 倉吉巡礼記

 「くら用心」の土蔵ギャラリーから裏に出て玉川沿いにブラブラ進んでゆくと、「あじくらや」の店先に霜月凛のパネルが出されているのが見えました。おお、外に出ているとは珍しい、と近寄って撮影しました。


 やっぱりキャラクターパネルは外に出ている状態が良い、と思ってしまうのは、ガルパンの大洗で同様の状況に慣れきってしまっているからでしょう。


 りんりん先生が外に出ているということは、他にも出ているパネルがあるのかな、と思ってあたりを見回しました。すぐに向かいの「久楽」の店先にもパネルがあるのを見つけました。


 これは山形まり花です。これで、新たに加わった5枚の全てを見ることが出来ました。元イラストでは猫が数匹ついてきていた筈ですが、パネルではカットされています。確か「くら用心」に元イラストのパネルが展示されていたな、と思い出して引き返しました。


 「くら用心」に展示されていた元イラストのパネル群です。山形まり花の新パネルの元イラストには、猫が三匹描かれてありました。やっぱりな、と思いました。


 元イラストのパネル群は、新パネルだけでなく、従来のパネルのものも並んでいました。


 「くら用心」の向かいの東仲町公民館は、打吹まつりの二日間は「ひなビタ」ショップとして運営され、倉吉でしか買えない限定の記念グッズなどを販売していました。この日も朝から多くのファンが来て買い物していたようで、昼過ぎには多くの品が完売となっていました。


 私自身は、「ひなビタ」グッズよりも、こちらの夏限定バージョンの倉野川市住民票が欲しかったので、観光案内所で手続きをして発行してもらいました。今回も鍛治町ですか・・・。鉄砲鍛冶にでもなろうかな・・・。(アホかお前は)


 正午に近づきましたので、今回も牛骨ラーメンを楽しむべく、車で移動して有名店の一つ「ごっつおラーメン」に行きました。駐車場が狭くて入れない場合が多いので、早めに行きましたが、それで正解でした。


 今回は、牛骨ラーメンの二ヶ所のお店を回る、という初の試みに挑戦してみました。お店によってはハーフサイズを提供してくれる場合がありますので、二軒ともハーフサイズで楽しめば、食べ過ぎには至りません。


 メインの牛骨ラーメンです。お店では「ごっつおラーメン」と銘打っています。650円ですが、ハーフサイズで注文しましたので、400円となりました。ハーフと言っても少ないのは麺だけで、スープや具などは普通サイズのと同じであるようです。
 「ごっつおラーメン」の案内情報はこちら。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の4 「ここなつの二人とイブとギャラリー」

2016年08月23日 | 倉吉巡礼記

 淀屋から回って西町の駄菓子店に立ち寄りました。店舗のウインドー内に芽兎めう、裏口前に霜月凛のパネルが置いてあるのは以前と同じでした。
 それで撮影していたら、向かいの人形店から出てきた店主の平さんに声を掛けられました。

「やあ、いらっしゃい」
「こちらのパネルは二枚ともあるんですね」
「そうよ。二枚置いてるってえのはウチだけ。ほんとは一枚だけだったんけど、こっち(霜月凛)はね、最初は淀屋さんに行ったんだよ。そしたらさ、あっちの人がね、このパネルはちょっとエロい感じがして淀屋の中に置くには相応しくない、って断ってさ。それでこっちに回ってきたんだよね」
「これがエロいんですか?」
「そう思わない?やっぱりなあ、そんなにエロくないよねえ」
「芽兎めうが「りんりん先生のおみ足」とか言ってる場面のイラスト化ですもんね」
「あっ、そうなの?そういう物語になってるの?」
「そのはずですよ。ですから最初はその再現ということで芽兎めうとセットになってるのかな、って思ったんですよ」
「セットで置いたんじゃないからね。後からこれ(霜月凛)が来たんだ。でも、そういうことなら、いいんじゃないか」
「置く期間は決まってるんですか?」
「一応は秋まで、ってなってるけど、こっちは延長してずっと置きたいなあ、と思ってるですよ」

 どうやら、ひなビタのキャラクターパネルにも、愛着を抱き始めている方々が少なくないようです。


 陣屋前通りの北の公園の脇に、ここなつの二人のパネルが並んでいました。新たに加わった5枚のうちの2、3枚目でした。


 公式設定では双子ですが、性格が逆なので、あんまり双子という雰囲気ではありません。それよりも気になって仕方がないのは、この二人の髪飾りがボルトとナットを象っていることです。何か曰くがあるのでしょうか・・・。


 続いて「くら用心」の土蔵ギャラリーに行きました。チアガール姿の和泉一舞が居ました。前日の神輿イベントで「イブ山車っ」にセットされていたパネルです。これで、新たに加わった5枚のうちの4枚までを確認しました。


 これはシーズン4のエピソード2の公式イラストを用いています。イブ自身が作った曲「激アツ☆マジヤバ☆チアガール」のイメージ画像として、シングルCDシリーズのファイブドロップ02のパッケージを飾っていたと記憶しています。


 打吹まつりの二日間のみ公開された、ひなビタギャラリーの看板です。


 ファン垂涎の、直筆イラスト&サインです。イラストはCUTEGさん、サインは原作者のTOMOSUKEさんのものです。イラストの、柔らかい線がまったりと引かれる独特のタッチが、個人的にはけっこう好みだったりします。


 4月の桜まつりのポスターですが、これには声優さんたちのサインが入っています。一枚しかない貴重なものだそうです。


 キャラクターの相関図です。ファンの基礎知識の一つですが、ガルパンキャラクターの相関図よりはちょっと複雑ですので、私も全体像を把握するまでに時間がかかりました。


 これが例の姉妹都市提携の協定書ですか・・・。冗談じゃなく本気でやったんですね・・・。倉吉市長の石田耕太郎さんは実在の方ですからサインも本物ですが、倉野川市長の貴船元佐さんは架空の存在なので、そのサインは誰が書いたんだろう、と思ってしまいます。
 

 そして、日向美ビタースイーツの5人を、倉吉市の観光大使に委嘱した際の正式な委嘱状です。石田市長さんもノリノリですね・・・。よくやるなあ、と感心してしまいます。
 観光大使になったことにより、今後は倉吉市の観光名所やスポットなどをひなビタの五人が紹介したりするコンテンツが構築されることになるのだろうな、と思いました。


 ギャラリーを出て、パネルと土蔵を撮影しました。 (続く)
コメント (4)
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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の3 「遊郭と医院と淀屋」

2016年08月21日 | 倉吉巡礼記

 倉吉新地にあたる越殿町の街路は、一ヵ所で長方形に回っていて、かつて遊郭街であったことを示しています。ですが、軒を並べた妓楼の大部分は廃絶して民家に転じ、いまでは普通の住宅街になっています。


 2016年8月現在、旧位置に建物をとどめているのは2棟となっています。20年前に訪ねた時は3棟でしたが、そのうちの一番大きな建物が取り壊されて駐車場および更地になっています。
 上図は、長方形の街路の東隅に位置する建物です。20年前に見たそのままの姿だと思うので、あれからずっと手入れや修理がなされないままに今に至っているようです。遊郭が栄えていた頃の状態や雰囲気を色濃くとどめているとみて良いでしょう。
 表札もかかっておらず、空き家か廃屋のような未使用感がただよっていました。このままいくと、いずれは取り壊されてしまうのかもしれません。


 裏口の並ぶさまにも、規模の大きさが見てとれます。当時の建築としては上級の、しっかりした部類に属しており、柱や板に良質の材がふんだんに使われているのが分かります。


 もう1棟は、長方形の街路の北側の真ん中あたりに位置しています。こちらは建物自体を建て替えているような感じがあり、とくに二階階部分はサッシが全面に施されて全体的にリフォームされています。表札があるので、現在は民家となっているようです。隅部を斜めに構えて玄関口にしている点は、辻に建つ古い町屋建築と共通する要素です。


 そして、長方形の街路の西側には医院らしき雰囲気の建物があります。なんでそれが分かるかというと、私の祖父が父方も母方も医者で、その構えた医院が似たような雰囲気の建物であったからです。


 特に、上図の建物が、いかにも昭和の古い街中の医院のそれらしい雰囲気をただよわせています。


 玄関口の横には、上図のように「健康保険醫」と記された青い表札がありました。「医」が旧字体の「醫」であるのが時代を感じさせます。「険」も旧字体のようです。昭和30年代に当用漢字が制定される以前のものだと分かります。
 そして、この表札は、健康保険制度が昭和初期から導入されていたことを示しています。ただ、現在のように強制加入ではなく任意加入であったため、一般にはほとんど普及しなかったそうです。しかし、遊郭では病気も頻繁に発生するため、遊郭の区域内に医院があるのはむしろ一般的であったようです。そして遊郭で働く女性たちは殆どが健康保険に加入していたそうです。
 いずれにせよ、街中の埋もれた歴史の一コマを示してくれる、興味深い表札でした。


 医院の斜め向かいに広がる駐車場および更地一帯が、かつて存在したもう一棟の遊郭建築の跡地です。


 この遊郭跡の脇の道を進んで信号交差点を渡った向こうが、越中町の街区です。八橋往還とも接する道なので、遊郭エリアへの道が繋がっているのはむしろ当然です。街道筋の歓楽街として賑わった様子がなんとなくしのばれます。


 町並みを東へ進み、倉吉淀屋に着きました。


 まだ公開時間帯まで5分ありましたので、外観を眺めて過ごしました。時間になると玄関口の撥戸が引き上げられて上に固定され、公開が始まりました。この日の一番乗りの見学客となりました。


 私のすぐ後に続いて入ってきた、スーツケースやカバンを持った学生らしき七人のグループが、建物の中を素通りして裏庭へまっすぐ出ていきました。全員が「ひなビタ」巡礼の倉野川市民であるようで、裏庭に立つ和泉一舞のパネルに歓声をあげ、スマホを向けて撮影したりしていました。


 その横から、施設のガイドを務めるおばさんが、「この娘には、これからもここで働いてもらうんですから、大事にしてゆきますよ」といった意味の事を話していました。
 このパネルはどうやら倉吉淀屋にほぼ固定して置かれるもののようです。そういえば、打吹まつりの期間中であるにもかかわらず、従来のパネルの大半が、それまでの設置位置から動いていないようなのでした。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の2 「ウェディングりんりん先生」

2016年08月19日 | 倉吉巡礼記

 銀座通りをしばらく進むと、左手に以前は無かった新しい店舗の建物が見えてきました。そのショーウインドー内にパネルらしきものが見えました。あっ、あれか、と足早に近づきました。


 間違いなく、公式のツイッターで予告されていた画像のそれでした。


 これは、霜月凛ですね。しかもウェディング姿です。店舗自体がウェディング専門店「とさき」の建物ですから、こういうパネルがあっても違和感がありません。


 しかし何ですな、霜月凛のこういう表情はあんまり見かけません。ウェディングりんりん先生、なかなかいいじゃありませんか。ウキーーッ。(アホかお前は)


 これで新パネルの一枚を確認したわけですが、次の交差点まで行くともう、その先にはパネルが無さそうな感じがしました。とりあえず引き返すか、と思って付近の景色を見回したとき、角の上図の店舗建物が目に入ってきました。かつてはレコード店だったようで、廃業して久しい雰囲気でしたが、どうみても「ひなビタ」の元ネタの建物の一つじゃないか、と思いました。
 つまり、山形まり花の実家のレコード屋「サウダージ」によく似ているのです。


 街区の南へ回り、路地などを通ってパネルのありそうな場所を探しましたが、なかなか見当たりませんでした。今回のパネル探しは、もしかして難易度が高いのではないか、と思ったりしました。


 途中で見かけた、「わたなべ」という看板のある店舗です。前回来た時は工事中でしたが、それはこの外装のリフォーム工事であったようです。
 この建物は、以前から和泉一舞の実家の「いずみ洋裁店」の元ネタではないか、とされています。


 パネルが見つからないまま、打吹公園通りの明治町交差点まで回ってきてしまいました。時刻を見るとまだ9時を回ったばかりで、町並みの店や施設の大半が開く10時までにはまだ間がありました。そこで、倉吉新地の遊郭エリアに久しぶりに行ってみることにしました。20年前に訪ねた時は数軒の古い遊郭建築を見ましたが、幾つかは取り壊されて消滅してしまった、と聞いたからです。

 そこで、銀座通りをもう一度西へ進んで福吉町の福祉会館の西へ行き、JA鳥取の大きな施設を見ました。かつては倉吉新地と呼ばれた遊郭街区の東側にあたっていた場所ですが、その面影は微塵も残されていませんでした。


 付近の民家も多くは近年に建て直されています。普通の地方都市の市街地の景色です。


 越殿町への路地を通って北に抜けると、道路脇に稲荷社がありました。20年前に訪れた時とあまり変わっていないように思いました。
 かつて各地に栄えた遊郭には、たいてい稲荷神社がお祀りされています。稲荷神社のある所に遊郭を作ったケース、遊郭に稲荷神社を勧請したケースの双方があるとされます。そして遊郭において稲荷神は梅毒予防に御利益があるとして崇められました。多くの芸妓や遊女が稲荷社にお詣りして、無病息災を願ったということです。 (続く)

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「倉野川」の倉吉をゆく シーズン5の1 「早朝のイブ山車っ」

2016年08月17日 | 倉吉巡礼記

 2016年8月7日、打吹まつりの二日目に倉吉入りしました。琴桜口の観光駐車場に車を入れて気付いたのは、遠方からやってきた方がことのほか多かった事でした。車のナンバーをみると、千葉、水戸、とちぎ、品川、練馬、湘南、富山、松本などがありました。西日本のナンバーは、地元鳥取以外はほとんど見当たりませんでした。
 着いたのが朝の8時前でしたので、街中はまだ静まり返っていました。


 玉川沿いの白壁土蔵群のエリアを歩いてみました。


 昨晩の「遥かなまち夢回廊」で使用されたかがり火の台が玉川に並べて据えられてありました。前日の6日はどうしても休みが取れませんでしたから、この台からゆらめいたかがり火の焔を見ることがかないませんでした。


 赤瓦一号館の駐車場にて、前日の神輿パレードにて曳かれた「イブ山車っ」を見つけました。チアガール姿の和泉一舞のパネルがセットされていたそうですが、既に外されていました。おそらく今日は街中のどこかに設置されるのだろう、と考えました。

 情報によれば、この打吹まつりにて「ひなビタ」のキャラクターパネルが新たに5枚加わった、ということでした。そのうちの一枚が、この「イブ山車っ」にセットされていたのでしょう。
 ちなみにこの「イブ山車っ」は、その後すぐに解体されて姿を消してしまいましたから、その姿を見て写真におさめられたのはラッキーでした。


 街中を歩いてみましたが、見事に人影が見当たりませんでした。前日から滞在中の「倉野川市民・ちくわ軍兵士」の面々はまだ宿にてまったりしていたのでしょうか。


 誰もいませんね・・・。


 朝の静寂に包まれる白壁土蔵群の風情もまた格別でした。


 打吹公園通りを南下して、旧福神館のウインドーに春日咲子のパネルが変わらずセットされているのを確かめました。これは秋までずっと固定されているのかもしれません。


 打吹まつりのポスターです。この日は夜に天神川河原にて花火大会がありますが、これを見物すると帰宅が深夜になってしまうので諦めました。


 とりあえず、銀座通りを西へ進みました。新たに加わった「ひなビタ」のキャラクターパネル5枚のうちの1枚が、この通りのどこかにあると推定していたからです。公式のツイッター等で予告された画像などを見ると、映っている道路が銀座通りのそれであったからです。 (続く)

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