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翌朝は、早起きして6時半に出発しました。友人のU氏がかねて「折角水戸に来てるんだから、見てもらいたい場所があるんだ」と言い、出勤時間までの約1時間ほどを使って案内してくれました。その場所とは、水戸東照宮でした。
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朝日が市街地に差し込み始めて間もない時間帯で、気温も低く冷え冷えとしていました。初詣の幟が並んでいましたが、まだ参拝客の姿は見当たりませんでした。
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水戸東照宮は、正式には常葉山東照宮といい、水戸駅北口から歩いて3分ほどのところにあります。銀杏坂の西側の台地上に境内地をかまえ、東側の水戸城地域の丘陵地と向かい合う位置にあります。
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鳥居をくぐってすぐの左側に鐘堂があり、江戸期の水戸城にかけられていた時鐘が釣ってありました。寛文七年(1667)に水戸藩二代藩主の徳川光圀が鋳造させたもので、水戸市の指定文化財になっています。鐘堂の吊り下げ具が傷んでいるのか、鐘本体は仮設の台に載せる形で支えられていました。
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東照宮の社殿です。幣門は黒と金を基調とした色彩に彩られ、東照宮建築の典型的な姿を示しています。かつては江戸期徳川氏の貴重な建築遺構として旧国宝に指定されていましたが、第二次大戦中の水戸空襲で全焼してしまいました。現在の社殿はその忠実な復元建築だということです。弘道館は残ったのになあ、と残念がるU氏でしたが、私も同感でした。
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門の両脇には、水戸徳川家の定紋が誇らしげに光っています。テレビドラマ「水戸黄門」でおなじみの印籠の紋は将軍家の徳川葵と聞いたことがありますが、水戸藩の紋も同じものを用いる他、葉の模様の数の違いなどで区別するそうです。一見しただけでは分からないですね。
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社殿への参道脇には、一対の銅造灯籠が建てられています。高さ三メートルに近い立派なものです。水戸藩祖の徳川頼房が、徳川家康の三十三回忌にあたる慶安四年(1651)に奉納したもので、これも水戸市の指定文化財になっています。
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灯籠の節の部分を菊の花紋列で上下に分け、奉納年月日を上に、奉納者名を下に刻んであります。上には「慶安四年四月十七日」とあります。
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節の下の奉納者名は、「正三位行権中納言源頼房」と刻まれてあります。水戸藩の官位が権官の中納言止まりであった歴史がここからもうかがえます。一般的には御三家の一に連なっていると思われている水戸藩ですが、厳密にはそうではなく、徳川政権の初期における規定では、御三家とは将軍家、尾張家、紀伊家を指しました。
徳川家光の治世期には弟忠長の駿河家がこれに連なったため、将軍家を別格とし、三大納言家ということで、尾張家、紀伊家、駿府家を御三家と呼びました。この時点までは、水戸家は格下であったため、官位も定員外の権官の中納言にとどまっていたわけです。そういった由来が、この銘文からも分かりますから、このような文化財が我々に教えてくれることは大変に多いです。
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今回、U氏が誇らしげに示してくれたのが、上図の「安神車」と呼ばれる水戸藩の兵器の遺品でした。徳川斉昭が命じて作らせたもので、中に人が入って銃眼から火縄銃を突き出して射撃するという、日本最古の戦車です。
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各所に銃眼の蓋付き窓が設けられ、屋根の高さにある窓にはかつてガラス仕掛けが組み込まれて、直接覗かなくても外が見えるようになっていました。ペリスコープの一種ですが、江戸期に既に考案されていたというのは驚きでした。
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解説板にも戦車とありましたが、厳密には銃装備の装甲車といった方が実態に近いです。これを牛に曳かせて歩兵隊に随伴させるという運用法が企図されていたそうですが、日本の戦車が歩兵支援兵器としての役割を主とした歴史の起点がこれだったのかもしれません。
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横にもう一基の似たような車体が展示してあり、こちらには車輪がついていません。両方とも実戦に使われた事が無いそうなので、いざという時に役に立ったのかどうかは疑問ですが、こうしたものを造らせるあたりに、当時の水戸藩の置かれていた状況、たとえば尊皇攘夷思想のありかたなどがうかがえます。これも水戸市指定文化財です。
いずれにせよ、現存する日本最古の戦車だということで、ガルパンファンならば絶対に見ておけ、というのがU氏の言い分であり、また今回の案内の動機でありました。
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境内には他にも古い石灯籠などが見られますが、解説板がないので、江戸期のかなり早い時期の遺品であるということ以外には詳細が分かりませんでした。
いずれにせよ、現状でもこれだけの文化財が伝わっていますので、見応えは充分にあります。戦災に遭っていなければ、社殿が国宝でありましたから、この常葉山東照宮全体が水戸徳川氏の文化財の宝庫であり続けていたことになります。 (続く)