「『発言』から、其の人間の『思考』が透けて見える。」というのは、良く在る事。単刀直入な物言いは勿論の事、そうじゃ無い場合でもだ。例えば「○○さんが、君の事をXXと言ってた。僕は、そうは思わないんだけどね。」なんぞと、他人が悪口を言っていた様に話す場合は、概してそう言っている当人がそう思っている事が殆どだし、「△△というのは冗談だけど・・・。」と口にした場合には、「△△」は冗談でも何でも無く、其の人物の本音だったりするもの。
安倍晋三首相は、看過し難い問題発言を結構している。中でも特に気になったのは、先月4日の衆議院予算委員会で、日本維新の会の小沢鋭仁議員が「憲法改正の発議要件を定めた憲法96条」に付いて質問した際の答弁だ。
「たった3分の1の国会議員が反対する事で、国民投票で議論する機会を奪っている。世論調査で充分な賛成を得ていないが、国民的支持を得る努力をして、(改正の)必要性を訴えて行きたい。」。
多数決の論理で言えば、「過半数どころか、3分の2以上の国会議員が賛成しているのだから、3分の1を超える国会議員の反対で国民投票が行えないのはおかしい。」となるのだろうけれど、「最高法規で在る日本国憲法が、政権が変わる度に『内容がおかしいから。』と国民投票を行う様な事態に成り兼ねないのは、決して好ましい事では無い。」と思うし、「3分の2以上の賛成」という規定は返るべきで無いと思っている。
唯、其れは飽く迄も私見で在り、「規定を変えた方が良いと思う。」と主張するのは、首相だろうと誰だろうと、全くの自由。問題なのは、「たった3分の1」という主張。糞の役にも立たない様な連中許りが目に付くとはいえ、国会議員は“国民の代表”で在り、衆参の総定数の3分の1となると240人(衆議院議員の総定数:480人、参議院議員の定数:242人。)にもなるのに、其れを「たった」と言い切ってしまうのは、余りにも横暴。
こんな暴論を平然と吐けてしまう思考ならば、仮に「自国の国民の3分の1が極貧に喘いでいてたり、差別的な扱いを受けていた。」としても、「たった3分の1の国民の事なんか、どうでも良い。」という事になってもおかしくない。
集団的自衛権の行使容認に付いて、「此れ迄の政府見解との整合性が図れない。」と指摘された際、「政府の最高責任者は私だ。選挙で審判を受けるのは私だ。」と逆切れした安倍首相。「時の権力者によって、法律の解釈がころころ変わるなんて事は、決して在ってはならない。」なんていうのは、真面な人間ならば誰しも判る事。
「数の論理により、何をしても構わない。選挙で審判を受けさえすれば、全て済む事。」という思考が在るからこそ、「たった」という発言が口から出てしまったのではないだろうか。