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「ベビーカー・マーク、国交省が作成 駅や百貨店に掲示」(3月26日、日本経済新聞)
国土交通省は26日、駅や商業施設でベビーカーの優先スペースを示す案内マークを決めた。電車内等でベビーカーが周囲から邪魔者扱いされるケースが在る事から、利用し易い環境を作るのが目的。今後、鉄道会社や百貨店にマークの導入を求める。
子育て支援団体やベビーカー・メーカー、鉄道会社等が参加する国交省の協議会が決定した。此れ迄、一部の鉄道会社が独自に作成したマークは在ったが、統一された表示は無かった。電車内の車椅子スペースや百貨店のエレヴェーターに掲示して貰い、周囲の人にスペースを譲る様促すといった利用を想定している。
斜線を引いたベビーカー禁止マークも作成。転倒の危険が在るエスカレーターに掲げ、利用時はベビーカーを折り畳む事を求める。
ベビーカー利用者と周囲との摩擦が起きない様、双方が配慮すべき注意点も纏めた。ベビーカー側には、小忠実にストッパーを掛ける事等を要請。周囲の人には、電車やバスでベビーカーを折り畳まずに乗る事に理解を求めた。駅構内や百貨店のアナウンス等で説明して貰う。
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【ベビーカー・マーク】
少し前、「新幹線内で泣く子供に対し、隣の席に座っていた女性が『五月蠅いなあ。』と言い乍ら舌打ちしたのだけれど、そういう人は新幹線の自由席では無く、車で移動すべきだ。公共交通機関というのは老若男女、色々な人が乗る物。公共圏は、我々が当事者意識と寛容さによって生み出す物だと思う。」というツイートに対し、賛否両論巻き起こった。
“ホリエモン”の「子供を飛行機(や新幹線)に乗せる時には、睡眠薬を飲ませれば良いのに。」という主張には同意出来なかったが、「公共交通機関で泣く子供」に対する賛否双方に、理解出来る面が在った。
「帰国時の機内、疲労困憊状態で寝ようとしている中、子供が泣き叫んでいるのに、全く放置状態の親に苛っとした。」事や、「エレヴェーターに乗り込もうとした際、後ろからペチャクチャ話乍ら、強引に押し込んで来たベビーカーに脛を思いっ切りぶつけられ、思わず『痛い!』と言うも、知らん顔している母親に腹が立った。」事等、自分も嫌な思いをしているので。
でも、そういうのは例外的で、「電車内で泣き叫ぶ子供を必死であやし乍ら、周りに『申し訳在りません。』と何度も謝罪している親。」や「申し訳無さそうに、ベビーカーをエレベーターに運び込む親。」を目にすると、「気の毒だなあ。」と感じる事が殆ど。
昨日のニュース番組で、「子育てが終わった50代以上の人に、『電車内に持ち込まれたベビーカーで、嫌な思いをした。』と回答する人が多かった。」というアンケート結果が紹介されていた。「昔は、負んぶ紐で赤ん坊を負んぶしていた。ベビーカーなんて論外。」という意見も少なく無い様だが、こういうのは「昔は、洗濯板と盥で洗濯していた。だから、洗濯機を使う今はおかしい。」という主張に近い感じがして、個人的には共感出来ない。
昔、ドラマ「3年B組金八先生」【動画】の中で、「子供怒るな、何時か来た道。年寄り笑うな、何時か行く道。」という言葉が紹介されていた。夭折しない限り、人は誰しも「子供」や「老人」という時代を経験する訳で、子供や老人の言動を怒ったり笑ったりしている若者達も、「過去」や「未来」には、其の怒ったり笑ったりしている対象と大差無い(で在ろう)事を理解しないといけない。
上記した非常識なケースや、「子育てをしているのだから、何でも許されるのだ。」といった雰囲気を露骨に出している親等は別として、「御互い様。」という寛容さは必要だと思う。
横柄は困るが、卑屈になる必要もない。
・・・等々正論ですが、当事者に身を置くと、そう冷静になってもいられない・・・やっかいなものですね。
今回のご意見で、一箇所だけ異論があります。
>「昔は、負んぶ紐で赤ん坊を負んぶしていた。ベビーカーなんて論外。」という意見も少なく無い様だが、こういうのは「昔は、洗濯板と盥で洗濯していた。だから、洗濯機を使う今はおかしい。」という主張に近い感じがして、個人的には共感出来ない。
「負んぶ」と「たらいで洗濯」は、全く次元が違うと思いますが・・・。
負んぶの効能は親と子供が身を接しお互いのぬくもりを感じることで、特に外出時に子供が安心感を得られる。背負うことで親が前に立ち外部の危険から子を守る心因的効果が期待できる・・・と思っていますが、ベビーカー使用は逆に子供を保護者から離し、先頭に置いている点でいわばジェットコースターに乗せているようなもの。子供のためというよりあくまでも保護者の都合・・・と考えてしまいます。
たぶん私の考えが保守的で古いのでしょうが(苦笑)。
たらいで洗濯と洗濯機は、同じ効果が得られるなら、合理的なほうを選択し(語呂合わせのつもり)、時間を有効に使えばよいので、負んぶとベビーカーの場合とは比較できない。と考えます。
以上、お粗末さまでした。
そうなんですよね。第三者の場合と当事者の場合とでは、受け取り方が違う。自分も綺麗事で言えば、「そんなに目くじら立てなくても。」と思うけれど、疲れている時に側で子供が泣き続けられると、「五月蠅いなあ。」と思ってしまうだろうし。根が小心者なので、舌打ちしたり、何かを言ったりは出来ないけれど。
負んぶの効用に付いては、悠々遊様の御意見は凄く理解出来るし(特に、双方の温もりを感じられるという点。)、そういう趣旨で「昔は・・・。」と主張されている方ならば共感出来るのですが、「昔、自分達はこんなに苦労して来た。今の若い人達は楽をし過ぎで、気に食わない。」という感覚“だけ”で物言いをしている人も結構居られ、「そういうのは、何か嫌だなあ。」という思いが在り、「洗濯板と盥」の例を記しました。誤解を与える表記、申し訳無いです。
「寛容さ」というのが日本人の美徳の一つと思い続けていたのですが、ネットの登場により、匿名で主張出来る様になった事で、其の特質が変容してしまったのでしょうか?其れとも、抑々「不寛容さ」が強かったのだけれど、匿名で主張出来る環境になかったから、そういうのを抑えていただけなのだろうか?日本人の特質の一つで在る「生真面目さ」というのは、一つ間違えると「不寛容さ」に転じてしまう面も在りますし。
近年気になるのは、所謂「構って欲しいちゃん」が老若男女を問わず、増えている事。触れたり見たりする事を強いられている環境ならば話は別ですが、そうでは無いのに態々「私は~が嫌いなので書かないで下さい。」なんぞと、ネットの掲示板レヴェルにも書き込みする人が居る。嫌ならば、見なければ良いだけの話なのに。
「そういう人達が、他者に対する異常な程の攻撃性を見せたりするケースが多いのではないのかなあ。」と思ったりします。
子供は将来を背負う、大事な宝物。甘やかしてはいけないけれど、社会全体で優しく見守って上げるのは、非常に大切な事だと思います。
>ベビーカー
うちのあたりだと乳母車ってありましたけど、都会には無かったんですか。
http://nagoyatv.com/tabigome/trip/index.html?key=568559dd60e7a3bfbf9cd8f67ed9e67e
ついでにいろんなもん乗せられたもんですよ。
正直イライラします。
見た目が上品そうな母親だったりすると、もう堪らんですわ。
そのあと、ヤンキーっぽい若ママがスマホも出さずに子供をちゃんと見てるのをみたりすると
おいおい、これで若ママを批判する奴はどこ見てんねん…と。
不愉快な思いをするのは、たたんでないベビーカーではなく、
通勤時間帯のキャリーバッグです。
大きなものはまだ事情があるんだろうなと思えるのですが
そのサイズならボストンバッグにして網棚に入れてや!という
者が結構多いですね。
「思い出は美しい。」と言います。当時は辛かったり、嫌だったりしていても、「過去」となってしまうと、概して良い思い出として振り返ってしまうもの。
匿名という形で在れ、公に自分の主張を訴えられる環境が出来上がった事で、其れ迄は内に秘めていた物を「此れでもか!」と言わん許りに押し出して来る人が増えたというのは在ると思いますね。
自分は幼少期を名古屋の片田舎で過ごしましたので、同年代の人間よりも「古いグッズ」を目にして来た様です。コークスをくべるストーヴ、町内会で定期的に配られる殺鼠剤や蛆駆除の薬剤、そして籐製の乳母車も普通に目にしました。懐かしいです。
「放任主義」と「身勝手さや無責任さ」を取り違えている人は、残念乍ら少なく無いですね。老若男女を問わずですが、こういう人達に限って妙に権利意識が強く、義務意識が希薄なのですから困ってしまいます。
運転していて感じるのは、見掛けはおっかなそうな運転手が「どうぞ。」という感じで道を譲ってくれるのに対し、都会人といった感じの運転手が意図的に意地悪な運転をしたりするケースが屡々在る事。「人を見掛けだけで判断してはいけない。」というのを、こういう時に痛感させられます。
人は1人では生きて行けない。時には不快に感じる事も在ろうけれど、少しでも御互いが気持ち良く生きて行ける様に、「御互い様」という思いを意識しないと、本当に住み辛い世の中になって行ってしまうと思いますね。