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・防空法:1931年に満州事変が起きると、ソ連からの空襲を想定し,国内で防空演習が盛んに行われた。防空法は、1937年に成立。敵機の襲来に備えて灯火管制、防毒・救護活動、設備や土地家屋の収用、防空訓練への参加を義務付けた。当初は毒瓦斯への対処が重視され、防火・防弾の項目は無かった。
・隣組:1940年、内務省が要綱で整備した「近隣5~10軒の家庭から成る組織」で、以前から在った町内会を制度化し、「防空任務を担う基礎単位」として、国の指揮監督下に置いた。御近所付き合いの組織で在ると同時に、「火災時に逃げ出さず、消化に当たる様、相互に監視する機能。」も在った。
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昨日の東京新聞サンデー版で、「防空法が広げた空襲の犠牲」という特集が組まれていた。大変興味深い内容だったので、今回紹介させて貰う事にした。
太平洋戦争末期、米軍爆撃機B29による本土空襲は、80年前の昨日、即ち「1944年11月24日」から本格化し、終戦迄の死者数は原爆投下被害も含めると「数十万~百万人」にも上る。そんなにも多くの死者数を出してしまった大きな要因の1つに、「都市住民の退避を禁止し、消火作業を義務付けた『防空法』と、其れを相互監視によって守らざるを得なくさせた『隣組』の存在。」が在ったと言われている。人命では無く、国家を守る法律だった「防空法」は、軍人や民間人による玉砕や自決の原因となった悪名高き訓戒「戦陣訓」と、思考的に同根に在ったと言って良いだろう。
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・情報操作:政府は、住民が空襲を怖がらない様、都合の良い情報を発信。空襲への対処法を記した冊子「時局防空必携」(1941年発行)は、「弾は滅多に当たらない。」、「焼夷弾も、心掛けと準備次第で、容易に消し止め得る。」、「空襲は、決して恐れるに足り無い。」等、恐ろしさを過小評価した。「家庭防空の手引」(1941年発行)では、「自分1人の事を考えて防衛に任じ無い者が在るとすれば、法の制裁は別として、道義的には非国民だ。」等と断じていた。
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防空法は、太平洋戦争目前の1941年11月に改正。都市からの「退去の禁止」、「空襲時の消火義務」が追加され、罰則も新設・強化された。政府は更に「退去は一般に行わない。」、「高齢者や幼児にも、退去を誘い勧め無い。」等の運用基準を作り、一般国民を従わせたと言う。
太平洋戦争中の我が国では、非科学的で精神論的な訓練が、少なからず行われていた事は有名だ。「手に持った竹槍で、飛来する敵機を墜落させるポーズを取る訓練。」なんかもそんな1つで、「こんな馬鹿な事をして、何の役に立つんだ。」と心の中で思っていた人は、幾ら当時でも多かった事だろう。
当時発行された「防空絵とき」には焼夷弾が落ちた時の対処法として、「周りの燃え易い物に水を掛け、濡れ莚、砂、土等を直接焼夷弾に被せて、火勢を抑える。」、「隣組で一致協力。」、「焼夷弾の火勢を抑えたならば、シャベル等で屋外に運び出す。」と、天井裏に焼夷弾が落ちた際には「長棒等で床に落とし、直ぐに濡れ莚や砂を掛ける。」、そして柱や襖に点いた火には「火叩きで消火。」と記されていたそうだ。
「通常の爆弾とは異なり、目標を爆発で破壊するのでは無く、攻撃対象に着火させて焼き払うのが目的。」の焼夷弾。「爆発での破壊が目的では無い。」とは言え、「其れ自体が強烈な火力を発生させ、人や家屋を焼き尽くす。」という恐ろしい平気なのには変わり無い。又、「3kg近く在った。」という重量の焼夷弾は、上空から落ちて来て、直撃したら即死する事だろう。そんなとんでもない兵器に対する対処法としては、余りに非科学的で精神論的と言える。
「人命を軽視し、国家を守る事こそが重要。」という思考は大なり小なり、何処の国家でも存在する物だが、"大日本帝国"時代の我が国は、特に其の傾向が強かった様に思う。と言うか、其の傾向は今も脈々と受け継がれており、「武力攻撃事態に対し、政府の計画指導の下、土地、家屋、物資等を所有者の同意を得ずに収用出来る等、国の計画に強制的に従わせる仕組みが示された内容で、20年前の2004年に制定された『国民保護法』。」は、「現代の防衛法だ。」と指摘する識者も居る。(日本弁護士連合会は此の法律に付いて、「民主的な統治構造を、大きく変容させる危険性を孕んでいる。」と警鐘を鳴らした。)