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間:話の中に、適当に取る無言の時間。機会。リズムやテンポ。其の場の様子。
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「場の空気が読めない人」という意味で、略語「KY」が使われ出したのは、もう何の位前になるだろうか?「場の空気を読む」というのは大事な事では在るのだけれど、「KY」という略語には使い手の「自身と少しでも考え方が異なる人間、即ち”異分子”の排除が先ず在りき。」という思いが反映されている様に感じられる事が結構在る。「他者を甚振りたいが為に用いられるエクスキューズ」という感じで余り好きじゃない。
「間」を「其の場の様子」という意味で使う場合、「間抜け」というのは「場の空気が読めない人」といった感じになろう。そうなると「KY」と同じ意味合いになるのだが、「KY」という略語に感じられる「刺々しさ」や「排他意識」は薄い様に思う。
ビートたけし氏の本「間抜けの構造」は、彼自身の体験を元に「間」、そして「間抜け」に付いて記している。
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この本のために目を通した「間の研究-日本人の美的表現」(南博編、講談社、1983年)という昔の本があるんだけど、そこで6代目尾上菊五郎(1885-1949)のこんな言葉を紹介している。
「間というのは魔という字を書く。」
つまり、歌舞伎でも踊りでもその出来を左右するものは“間”であって、芸事を生かすも殺すも“間”次第。それだけ“間”というものは重要なんだけど、同時に怖いものでもあって、“間”を外せば“魔”ともなる。そんな含蓄ある言葉。
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「間というのは魔という字を書く。」とは、実に上手い表現。「間」が重要なのは芸事の世界だけでは無く、あらゆる世界に言える事だと思う。「其の正体は見え難いし、コントロールするのも難しいけれど、『間』を制した奴だけが、其れ其れの世界で成功する事が出来る。」とビートたけし氏は書いているが、同感だ。
同じ題目の漫才をする場合でも、「其の時の客の傾向や反応」や「演者の登場順」等、様々な状況を頭に入れた上で、“内容”を変えて行くと言う。「此のネタは、今日の客にはバレバレだな。」と感じたら、“ボケ”が話を落とす前に「其の“落ち”は○○だろ。やめろって。判っているよ、そんな事。」と変えたり、「話のテンポが速いな。」と感じたら、普段は「そうだろう、御前、おかしいじゃない。」と言っているのを、「だってさあ、御前みたいな言い方するのは、どう見たっておかしいじゃない。」と変えてテンポを緩めたり(其の逆のケースも。)と。「『間』というのは、常に一定では無い。」という証左で在り、だからこそ「間」を制するのは難しい。
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・ニュースだけでなくて、いつからかお笑い番組にもテロップがいっぱい出るようになった。この前も、「バカなこと言うんじゃないよ(笑)。」というテロップが出てきてひっくり返っちゃった。「(笑)」って、冷静に考えればおかしいだろ。相当間抜けだよ。笑うところかどうかわからないやつのために、「ここは笑うところですよ。」って教えてやっているつもりなのか。そうだとしたら余計なお世話だ。テレビを見ているときに、文字で確認してからじゃないと笑えない。そんな時代になっているんだろうけど、そうだとしたら、今の人は相当頭が悪いね。
・“間”が悪い人というのは、話をしている途中で息を吸っちゃう。息継ぎが下手なの。自分の頭の中で、「この話のどこで息継ぎをするか。」を考えていない。だから、「それはですね、原子力発電というもののリスクというのは政府が思っているより安全じゃなくてそれを信用するというのがそもそもの(“スーッ”と息を吸う。)間違いなわけであって。」なんていうことになる。息継ぎがスムーズじゃないと、話している内容が頭に入ってこないから損をする。
・役者同士の“間”というのも重要なんだ。役者同士が“間”を取り合うなんてことがしょっちゅうあるから。樹木希林さんなんて得意だよね。相手の芝居をつぶす演技をする。相手が熱演しているとするじゃない。それを樹木さんが「いや、まあだから・・・。」って受けて、相手役の熱演をとめてしまう。「一体どうなっているんですか!」なんて台詞を叫んでも、その言葉が全部抜けちゃった後に、「あんた、さっきからワーワー言ってるけどさ。」なんて“間”を外す。台詞自体は台本通りでも、“間”をちょっと変えるだけで、芝居の印象をガラッと変えることができる。樹木さんぐらいになると、“間”を操ることなんて自由自在だから。「あ、熱演しているな、こいつ。」とか、「自分よりいい芝居したな。」と思ったら、“間”を外す。相撲の立合いみたいだね。一方がいきり立っているときに、なかなか手を土俵につかないで透かしちゃうやつがいるだろう。あれと同じ。うまい役者は「自分の方が不利だな。」と思った場合は、一旦、“間”を外しておいてから、「ほら、自分の方がうまいだろう。」という芝居を始めるんだよ。
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そういうとき、「間を外す(取り去る)」ワケじゃなく、逆に「間を入れる」のに「間を取る」って言い方をしますね。
「間抜け」って言葉の場合、何か大事なことが一つ抜けていて、それが愛嬌になることもあったりして、やんわりとした揶揄の響きを感じるのですが、字義通り受け取れば、間を抜いて緊張状態が続いているように思えるし。
「間」と「阿吽の呼吸」って、何だか通じている気がしますが。
言葉を構成する「音」に関して言えば、日本語は他国語よりも種類が格段に少ないけれど、「語彙」に関しては格段に多いと言いますよね。「雨が降る様」を例に挙げても、「しとしと」だ「ざあざあ」だ「ぱらぱら」だ「しょぼしょぼ」だと、実に多い。
「馬鹿」と「アホ」、何方も相手を侮蔑する表現では在るけれど、「アホ」の方が「馬鹿」よりも柔らかい感じがしたりします。「馬鹿」だと相手を完全に突き放した感じがするのに対して、「アホ」の場合は「仕方ないなあ。」という苦笑の雰囲気、「今度は気を付けろよ。」という寛容さが在る様な感じが。