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栗原一止(くりはら いちと)は夏目漱石を敬愛し、信州の「24時間、365日対応」の本庄病院で働く内科医で在る。写真家の妻“ハル”こと榛名(はるな)の献身的な支えや、頼りになる同僚、下宿先「御嶽荘」の愉快な住人達にに力を貰い、日々を乗り切っている。
新年度、本庄病院の内科病棟に新任の医師・進藤辰也(しんどう たつや)が東京の病院から着任して来た。彼は一止、そして外科の砂山次郎(すなやま じろう)と信濃大学の同窓で在った。嘗て“医学部の良心"と呼ばれた進藤の加入を喜ぶ一止に対し、砂山は微妙な反応をする。赴任直後の期待とは裏腹に、進藤の医師としての行動は、嘗ての其の姿からは想像も出来ない物だった。そんな中、本庄病院に激震が走る。
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大ベスト・セラーとなった小説「神様のカルテ」。著者の夏川草介氏が現役の医師という事も在って、仄々とした作風の中にも、医療現場が抱える深刻な問題が具体的に提起されており、読ませる作品だった。
今回読了したのは、第2弾となる「神様のカルテ2」。冒頭に記した梗概の如く、大学時代とは余りに人が変わってしまった親友・進藤が登場する。医学部を首席で卒業し、真摯な態度で医療と向き合っていた彼が、5年振りに再会すると“無気力さ”を露骨に感じさせる人間に変貌。ストーリーが進む中で、其の理由が明らかとなって行く。
医師が、患者の治療に尽力するのは当然の事だ。だがしかし、「患者の治療の為に『医師の生活』や『医師の健康状態』をも犠牲にしなければいけない。」というのはおかしいし、「治療行為によって患者が亡くなってしまったり、後遺症が残ったりすると、医師の過失が在るとは言い難いケースでさえも糾弾されてしまう。」のは余りに気の毒だと思っている。医師が熟考した上で「患者にとって最善策。」として選択した事柄が、仮に不幸な結果になってしまったとしても、其処に過失が無いので在れば、十把一絡げ的に「医療ミスだ!」と医療サイドを攻め立てるべきでは無い。結果として医師達を委縮させるだけで在り、患者に対して“及び腰な方策”しか選択しなくなってしまうだろうから。そうなれば医療の進歩は止まってしまうし、延いては我々の不利益にも繋がる。
脱力系のキャラクターで在る一止だからこそ、彼が熱く語るシーンはより心に突き刺さる。彼や彼の周りの人々の然りげ無い優しさも、グッと来る物が在る。
印象に残る文章は幾つか在ったが、取り分け以下の文章が印象深かった。
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・ 「医者は、患者のために命がけで働くべきだという。この国の医療は狂っているんだ。医者が命を削り、家族を捨てて患者のために働くことを美徳とする世界。夜も眠らずぼろぼろになるまで働くことを正義とする世界。主治医?馬鹿を言っちゃいけない。二十四時間受け持ち患者のために駆けずり回るなんて、おかしいだろう。僕たちは人間なんだぞ。それでもこの国の人々は、平然と中傷するんだ。夜に駆け付けなかった医師に対して、なぜ来なかったのかと大声をあげるんだ。誰もが狂っていて、しかも誰もが自分が正しいと勘違いをしているんだよ。違うか、栗原。」
・ 「・・・人が死ぬということは、大切な人と別れるということなんですね。」
・ 「我々は人間です。その人間が死んでいくのが病院という場所です。いやしくも一個の人間が生死について語ろうとするならば、手帳も算盤も肩書も投げ捨てて、身一つで言葉を発するべきではありませんか。」「栗原先生、あなたは・・・。」「かかる態度をくだらない理想論と笑うなら結構、好きなだけでもお笑いなさい。しかし、あえてこのバカバカしい理想論を押し立て、かつ押し進めていかなければ、一体誰がこの救い難い環境の中で、正気を保って働き続けられるというのですか。」
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前作「神様のカルテ」よりも、個人的には「良かった。」と思う。総合評価は星3.5個。
死ぬときは、自分の一番居心地の良い所で最後を迎えるべきと思っていましたが、いつのまにか延命の実験台にされ、患者も医者も救われない最後に向かって歩まされているような。
それが医療の進歩なのでしょうかね。
giants-55さんの書評を読んで、この本読んでみたくなりましたよ。
ところで「24時間、265日対応」では、残り100日は未対応? 揚げ足取りでごめんなさい。
先ず初めに・・・御指摘有り難う御座いました!完璧に打ち間違いで、「24時間、365日対応」が正しいです。早速、訂正させて貰いました。
病院が「患者の命を救う場所」で在るのは当然の事なのですが、もし患者が不治の病で在り、余命幾許も無いという事で在れば、「心安らかに最期を迎えられる場所」で在って欲しいもの。しかし医療費抑制という大義名分の下、「長期入院患者を追い出さなければ、病院経営が悪化してしまう政策。」を我が国の政府は打ち出した。要介護の身になり、入院を続けなければいけない高齢の知り合いが居るのですが、定期的に転院を余儀無くされている。次を常に捜さなければいけない家族の心労、そして盥回しにされている知り合いの気持ちを思うと、本当に堪らないです。裕福と言われる国なのに、余りにも多くの歪みが生じている現実・・・。
病院は直る患者を治療するところで、病状が固定してそれ以上回復する見込みが無ければ、退院するよう法律が変わったとの事でした。
長期に預かってくれる介護施設は数年の順番待ちで、ショートステイと自宅介護の組合わせでしのいでいた時、長期入院可能な「姥捨て山病院」が見つかりました。ほとんどが寝たきり老人ばかりで、薄暗く陰気な雰囲気の病院でした。
しかし自宅介護が長引けば共倒れになると、心を鬼にして相談に行って間もなく、自宅で2度目の発作を起こし、2週間ほどで他界しました。
事情を知る近所の人たちから「息子孝行のお母さんやね」と言われましたが、思えば母親も家族にこれ以上負担をかけるのがいやだったのかもしれません。また、そんな「姥捨て山」で最後を迎えるのもいやだったのでしょう。
これがこの国の介護医療の現実です。
悠々遊様にも、御辛い経験が在ったのですね。「長生き」というのは、本来は喜ばしい事なのに、我が国では表面的には喜ばしい事としていますが、実際には「マイナス・イメージ」として捉えられる事が少なくない。其の要因は、「高齢者を温かく見守れる環境が構築されていない。」というのに尽きる気がします。正確に言えば、「資産が潤沢に在る高齢者以外は」という但し書きが付くのでしょうが。
大往生と言える年齢で亡くなった祖母も、亡くなる何日か前からは、「残された人達に、出来るだけ迷惑を掛けない様に。」という“意思”が強かった様に感じています。飲食物を摂取しなくなったのも、「飲食するのがしんどい。」というのでは無く、「衰弱死」や「亡くなった後に、流れ出た糞尿の面倒を掛けたくない。」という思いが在ったのではないかと、明治生まれならではの強さを感じたりした次第。
以前、新聞の読者投稿欄に十代の男性が「嘗て日本には、姥捨てというシステムが在った。」とした上で、其れが然も合理的で素晴らしいシステムで在るかの“様にも”受け取れる記述をしていたのには、一寸ショックを受けました。必死で働いて来た人達が、社会から抹殺される仕組みなんか、どう考えても真面とは思えないから。