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【ジャイアンツ - 後攻】
水原茂(当時は「水原円裕」)氏(監督)
1960年にジャイアンツの監督を退任後、フライヤーズ(1961年~1967年)及びドラゴンズ(1969年~1971年)で監督を務める。以降は解説者等で活躍。1982年3月26日、肝不全にて逝去。享年73歳。ジャイアンツとしては黒沢俊夫氏に次ぐ、2人目の球団葬で送られた。
1番:与那嶺要氏(レフト)
1961年にドラゴンズに移籍し、1962年に同チームで引退。1963年~1966年はドラゴンズで打撃コーチ、1967年~1969年はオリオンズで打撃コーチ、1970年~1971年はドラゴンズで一軍ヘッドコーチ、そして1972年~1977年はドラゴンズで監督を務める。(1974年のドラゴンズ優勝は強く印象に残っている。)その後も1978年~1979年はジャイアンツの二軍外野守備・走塁コーチ、1980年はジャイアンツの一軍打撃コーチ、1981年~1982年はホークスの一軍ヘッド兼打撃コーチ、1983年~1984年はライオンズの一軍打撃コーチ、1985年~1988年はファイターズの一軍ヘッドコーチを歴任。つまり来日してジャイアンツに入団した1951年以降、1988年にファイターズの一軍ヘッドコーチを辞められる迄、38年間一度も“ユニフォームを脱がなかった”という事になる。昨日で84歳になった彼は、現在ハワイに在住されている。
2番:広岡達朗氏(ショート)
1966年、ジャイアンツにて引退。1970年~1971年にカープで内野守備コーチ、1974年~1976年にスワローズで守備コーチ&ヘッドコーチを務める。1976年のシーズン途中、チームの成績不振で辞任した荒川博監督の後を受けて同チームの監督に就任し、1979年に退任。1982年~1985年にはライオンズの監督を務める。監督を務めた2チームを日本一に導いた事で、「優勝請負人」との呼び名も。
その後は解説者として毒舌を吐き続ける“広岡御大”。現在77歳。
3番:藤尾茂氏(センター)
1965年、ジャイアンツで引退。74歳の現在、京都府に在るリゾート施設で理事兼支配人を務めておられるとか。
4番:長嶋茂雄氏(サード)
1974年にジャイアンツで引退。引退セレモニーでの「我が巨人軍は永久に不滅です!」の言葉は余りにも有名。
引退後はジャイアンツで2度の監督(1975年~1980年、1993年~2001年)、解説者等を務めるも、2004年に脳梗塞で倒れる。リハビリで驚異的とも言える回復を見せ、73歳の現在はジャイアンツの終身名誉監督等を務めている。
5番:坂崎一彦氏(ライト)
1965年にフライヤーズに移籍し、1967年に同チームにて引退。現在71歳。
6番:王貞治氏(ファースト)
1980年にジャイアンツにて引退。1981年~1983年にジャイアンツで助監督を務めた後、1984年~1988年は同チームで監督を務める。解説者時代を挟み、1995年にホークスの監督に就任。2006年にはWBC日本代表チームの監督を兼任し、同チームを世界一に導く。2008年にホークスの監督の座を退き、69歳の現在は同チームの取締役会長に就任。
7番:土屋正孝氏(セカンド)
1961年にスワローズに、そして1965年にはタイガースに移籍し、同年限りで引退。現在73歳。
8番:森祇晶(当時は「森昌彦」)氏(キャッチャー)
1974年、ジャイアンツにて引退。解説者等を務めた後、1978年~1979年はスワローズでバッテリーコーチ、1982年~1984年はライオンズでヘッド兼バッテリーコーチを務める。(当時の監督は共に広岡達朗氏。)1986年~1994年にかけてライオンズの監督、2001年~2002年はベイスターズの監督を歴任。選手、コーチ&監督として在籍したチームは日本シリーズに合計24回出場し、内21回日本一になっており、名将で在ると共に非常に強運な人物とも言える。
72歳の現在はハワイに在住し、海外の外の野球に付いての評論を主にされているとか。
9番:藤田元司氏(ピッチャー)
1964年にジャイアンツにて引退。1965年~1974年は同チームで投手コーチ等を、1975年~1976年はホエールズで投手コーチを歴任。以後は解説者を挟み、ジャイアンツの監督を2度(1981年~1983年、1989年~1992年)を務める。(個人的にはこの時代のジャイアンツの野球が一番好きだった。)
2006年2月9日、心不全にて逝去。享年74歳。ジャイアンツとしては3人目の球団葬で送られた。
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以上が「天覧試合のスタメン選手のその後」で在る。この伝説の試合から丁度30年後の1989年6月25日に甲子園球場で「タイガースvs.ジャイアンツ」戦が行われた際には、非常に因縁めいた物を感じた。「丁度30年後の6月25日に行われた『タイガースvs.ジャイアンツ』戦」という事だけでは無く、両チームを率いていた監督が「伝説の試合で敗戦投手になった村山実氏と、勝利投手になった藤田元司氏だった。」というのが余計にその思いを強くさせたのだ。
伝統の試合から丁度30年後のこの試合、ジャイアンツ・ファンの自分には苦い思い出が残っている。こちらに書かれている様に、「1対4」とジャイアンツのリードで迎えた9回裏、タイガースは2死満塁で打席に入ったのは岡田彰布選手。ジャイアンツのビル・ガリクソン投手が投じた球をレフトスタンドに放り込み、逆転満塁サヨナラホームランでタイガースが勝利を収めたのだった・・・。
【ジャイアンツ - 後攻】
水原茂(当時は「水原円裕」)氏(監督)
1960年にジャイアンツの監督を退任後、フライヤーズ(1961年~1967年)及びドラゴンズ(1969年~1971年)で監督を務める。以降は解説者等で活躍。1982年3月26日、肝不全にて逝去。享年73歳。ジャイアンツとしては黒沢俊夫氏に次ぐ、2人目の球団葬で送られた。
1番:与那嶺要氏(レフト)
1961年にドラゴンズに移籍し、1962年に同チームで引退。1963年~1966年はドラゴンズで打撃コーチ、1967年~1969年はオリオンズで打撃コーチ、1970年~1971年はドラゴンズで一軍ヘッドコーチ、そして1972年~1977年はドラゴンズで監督を務める。(1974年のドラゴンズ優勝は強く印象に残っている。)その後も1978年~1979年はジャイアンツの二軍外野守備・走塁コーチ、1980年はジャイアンツの一軍打撃コーチ、1981年~1982年はホークスの一軍ヘッド兼打撃コーチ、1983年~1984年はライオンズの一軍打撃コーチ、1985年~1988年はファイターズの一軍ヘッドコーチを歴任。つまり来日してジャイアンツに入団した1951年以降、1988年にファイターズの一軍ヘッドコーチを辞められる迄、38年間一度も“ユニフォームを脱がなかった”という事になる。昨日で84歳になった彼は、現在ハワイに在住されている。
2番:広岡達朗氏(ショート)
1966年、ジャイアンツにて引退。1970年~1971年にカープで内野守備コーチ、1974年~1976年にスワローズで守備コーチ&ヘッドコーチを務める。1976年のシーズン途中、チームの成績不振で辞任した荒川博監督の後を受けて同チームの監督に就任し、1979年に退任。1982年~1985年にはライオンズの監督を務める。監督を務めた2チームを日本一に導いた事で、「優勝請負人」との呼び名も。
その後は解説者として毒舌を吐き続ける“広岡御大”。現在77歳。
3番:藤尾茂氏(センター)
1965年、ジャイアンツで引退。74歳の現在、京都府に在るリゾート施設で理事兼支配人を務めておられるとか。
4番:長嶋茂雄氏(サード)
1974年にジャイアンツで引退。引退セレモニーでの「我が巨人軍は永久に不滅です!」の言葉は余りにも有名。
引退後はジャイアンツで2度の監督(1975年~1980年、1993年~2001年)、解説者等を務めるも、2004年に脳梗塞で倒れる。リハビリで驚異的とも言える回復を見せ、73歳の現在はジャイアンツの終身名誉監督等を務めている。
5番:坂崎一彦氏(ライト)
1965年にフライヤーズに移籍し、1967年に同チームにて引退。現在71歳。
6番:王貞治氏(ファースト)
1980年にジャイアンツにて引退。1981年~1983年にジャイアンツで助監督を務めた後、1984年~1988年は同チームで監督を務める。解説者時代を挟み、1995年にホークスの監督に就任。2006年にはWBC日本代表チームの監督を兼任し、同チームを世界一に導く。2008年にホークスの監督の座を退き、69歳の現在は同チームの取締役会長に就任。
7番:土屋正孝氏(セカンド)
1961年にスワローズに、そして1965年にはタイガースに移籍し、同年限りで引退。現在73歳。
8番:森祇晶(当時は「森昌彦」)氏(キャッチャー)
1974年、ジャイアンツにて引退。解説者等を務めた後、1978年~1979年はスワローズでバッテリーコーチ、1982年~1984年はライオンズでヘッド兼バッテリーコーチを務める。(当時の監督は共に広岡達朗氏。)1986年~1994年にかけてライオンズの監督、2001年~2002年はベイスターズの監督を歴任。選手、コーチ&監督として在籍したチームは日本シリーズに合計24回出場し、内21回日本一になっており、名将で在ると共に非常に強運な人物とも言える。
72歳の現在はハワイに在住し、海外の外の野球に付いての評論を主にされているとか。
9番:藤田元司氏(ピッチャー)
1964年にジャイアンツにて引退。1965年~1974年は同チームで投手コーチ等を、1975年~1976年はホエールズで投手コーチを歴任。以後は解説者を挟み、ジャイアンツの監督を2度(1981年~1983年、1989年~1992年)を務める。(個人的にはこの時代のジャイアンツの野球が一番好きだった。)
2006年2月9日、心不全にて逝去。享年74歳。ジャイアンツとしては3人目の球団葬で送られた。
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以上が「天覧試合のスタメン選手のその後」で在る。この伝説の試合から丁度30年後の1989年6月25日に甲子園球場で「タイガースvs.ジャイアンツ」戦が行われた際には、非常に因縁めいた物を感じた。「丁度30年後の6月25日に行われた『タイガースvs.ジャイアンツ』戦」という事だけでは無く、両チームを率いていた監督が「伝説の試合で敗戦投手になった村山実氏と、勝利投手になった藤田元司氏だった。」というのが余計にその思いを強くさせたのだ。
伝統の試合から丁度30年後のこの試合、ジャイアンツ・ファンの自分には苦い思い出が残っている。こちらに書かれている様に、「1対4」とジャイアンツのリードで迎えた9回裏、タイガースは2死満塁で打席に入ったのは岡田彰布選手。ジャイアンツのビル・ガリクソン投手が投じた球をレフトスタンドに放り込み、逆転満塁サヨナラホームランでタイガースが勝利を収めたのだった・・・。
これが噂の天覧試合ですか。^±^
千住のお化け煙突も見たいが、見たい。
アメリカ在住なんですね。
たしか権藤もそうだとか。
>大津
阪神百貨店にいたように聞いています。
たしかムラさんも
出向扱いだったと思います。
プロ野球の地位が
低かった頃の話ですね。