ば○こう○ちの納得いかないコーナー

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“岩倉使節団”派遣の陰で

2022年04月17日 | 歴史関連

日本史、特に近現代史が好き。なので、BS-TBSで放送されていた「関口宏のもう一度!近現代史」を見ていた。近現代史に関する情報を、頭の中で整理するのに最適番組。2019年10月12日から今年の3月26日放送されていたのだけれど、自分が見始めたのは昨年からだった。

放送された内容を纏めた本「関口宏・保阪正康のもう一度!近現代史 明治のニッポン」を現在読んでいるのだが、「岩倉使節団」に関して記された項目に目が留まった。

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岩倉使節団:明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日迄、日本からアメリカヨーロッパ派遣された使節団。岩倉具視全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
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此方に使節団の主なメンバーが記されているが、岩倉具視の他に木戸孝允(桂小五郎)大久保利通伊藤博文村田新八中江兆民金子堅太郎團琢磨津田梅子新島襄等、日本史の教科書に載っている、実に錚々たる顔触れ

以前からずっと気になっていたのは、明治政府の首脳陣が『1年8ヶ月21日』もの長期間、日本を“留守”にしていた。という事実。

日本に「内閣制度」が誕生するのは1885年の事なので、岩倉使節団が派遣されている時点で“首相”というのは存在していないのだけれど、今で言えば「岸田文雄首相と主要大臣達が、1年8ヶ月21日もの長期間、日本を留守にして海外を巡る。」訳で、考えられない事。特に当時は体制江戸幕府側)と新体制(明治政府側)との“血で血を洗う”様な激烈な戦い『戊辰戦争』が2年前に終結したとはいえ、新体制によって既得権益が次々と奪われ、旧体制側の人々の間に怨恨と不満が渦巻いていた、非常に不安定な時代。で在る。(実際、使節団が帰国してから4年後の1877年には、“我が国で最後の内戦”と言われる「西南戦争」が勃発しているし。)そんな非常に不安定な状態に在るというのに、政府首脳陣が国を長期間留守にするというのが、自分にはどうにも理解出来ない。

本の中で関口宏氏と保阪正康氏が指摘している様に、「旧体制に大鉈を振るった事で、旧体制側の人間から大きな恨みを買っていた岩倉等が、日本を背負うのが面倒になって、“一時的に”海外に逃げた。」という面は、自分も在る様に思っている。

、非常に不安定な状態に在る国を留守にするのだから、自分達が不在時にクーデターが起こらない様な段取りはされており、公家の岩倉具視は、同じ公家の三条実美薩摩の大久保利通は、同郷西郷隆盛長州の木戸孝允は、山形有朋井上毅等。」といった具合に、自身と近しい人間を“留守政府”の要職に据えた上で、「大きな制度改革人事は行わない。重要案件は、必ず報告する。」等、細かい取り決めが在った。

とは言え、政府首脳陣が海外に滞在している間、留守政府は次々と大きな制度改革を行った。明治の三大改革”と言われる「学制(教育制度)」、「徴兵令制度)」、そして「地租改正制)」は、全て留守政府による物。

徴兵令及び地租改正に関しては、国内で大きな反発を買い、血税一揆地租改正反対一揆が次々と発生。徴兵令に反対する「血税一揆」の中でも、1873年5月26日から6月1日迄の6昼夜続いた「美作騒擾」は、軍隊による鎮圧為され、約2万6千人が処罰されたと言う。(比較対象として出すには適切で無いかも知れないが、具体的なイメージを持って貰う意味で記すと)「東日本大震災」の死亡者・行方不明者・負傷者の合計が「24,582人」で在る事を考えると、約2万6千
人という処罰者数が如何に多いか判ろう。


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