日本史、特に近現代史が好き。なので、BS-TBSで放送されていた「関口宏のもう一度!近現代史」を見ていた。近現代史に関する情報を、頭の中で整理するのに最適な同番組。2019年10月12日から今年の3月26日迄放送されていたのだけれど、自分が見始めたのは昨年からだった。
放送された内容を纏めた本「関口宏・保阪正康のもう一度!近現代史 明治のニッポン」を現在読んでいるのだが、「岩倉使節団」に関して記された項目に目が留まった。
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岩倉使節団:明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日迄、日本からアメリカ、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団。岩倉具視を全権とし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。
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此方に使節団の主なメンバーが記されているが、岩倉具視の他に木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、村田新八、中江兆民、金子堅太郎、團琢磨、津田梅子、新島襄等、日本史の教科書に載っている、実に錚々たる顔触れ。
以前からずっと気になっていたのは、「明治政府の首脳陣が『1年8ヶ月21日』もの長期間、日本を“留守”にしていた。」という事実。
日本に「内閣制度」が誕生するのは1885年の事なので、岩倉使節団が派遣されている時点で“首相”というのは存在していないのだけれど、今で言えば「岸田文雄首相と主要な大臣達が、1年8ヶ月21日もの長期間、日本を留守にして海外を巡る。」訳で、考えられない事。特に当時は「旧体制(江戸幕府側)と新体制(明治政府側)との“血で血を洗う”様な激烈な戦い『戊辰戦争』が2年前に終結したとはいえ、新体制によって既得権益が次々と奪われ、旧体制側の人々の間に怨恨と不満が渦巻いていた、非常に不安定な時代。」で在る。(実際、使節団が帰国してから4年後の1877年には、“我が国で最後の内戦”と言われる「西南戦争」が勃発しているし。)そんな非常に不安定な状態に在るというのに、政府首脳陣が国を長期間留守にするというのが、自分にはどうにも理解出来ない。
本の中で関口宏氏と保阪正康氏が指摘している様に、「旧体制に大鉈を振るった事で、旧体制側の人間から大きな恨みを買っていた岩倉等が、日本を背負うのが面倒になって、“一時的に”海外に逃げた。」という面は、自分も在る様に思っている。
唯、非常に不安定な状態に在る国を留守にするのだから、自分達が不在時にクーデターが起こらない様な段取りはされており、「公家の岩倉具視は、同じ公家の三条実美。薩摩の大久保利通は、同郷の西郷隆盛。長州の木戸孝允は、山形有朋と井上毅等。」といった具合に、自身と近しい人間を“留守政府”の要職に据えた上で、「大きな制度改革や人事は行わない。重要案件は、必ず報告する。」等、細かい取り決めが在った。
とは言え、政府首脳陣が海外に滞在している間、留守政府は次々と大きな制度改革を行った。“明治の三大改革”と言われる「学制(教育制度)」、「徴兵令(兵制度)」、そして「地租改正(税制)」は、全て留守政府による物。
徴兵令及び地租改正に関しては、国内で大きな反発を買い、血税一揆や地租改正反対一揆が次々と発生。徴兵令に反対する「血税一揆」の中でも、1873年5月26日から6月1日迄の6昼夜続いた「美作騒擾」は、軍隊による鎮圧が為され、約2万6千人が処罰されたと言う。(比較対象として出すには適切で無いかも知れないが、具体的なイメージを持って貰う意味で記すと)「東日本大震災」の死亡者・行方不明者・負傷者の合計が「24,582人」で在る事を考えると、約2万6千人という処罰者数が如何に多いか判ろう。