約40年ぶりに実母と再会したジェンキンス氏の姿には胸を打たれた。90歳を越える実母と今生で会う事は叶わぬ事と、彼は何度思った事だろうか。親を想う気持ち、そして子を想う気持ちは万国共通。本当に良かったなあと思う。しかし、封建的な土地柄も在ってか、現地では彼に対して冷ややかな反応も少なくない。「祖国を裏切った臆病者。」、「彼は重罪を犯した。残りの生涯を軍刑務所で過ごすべきだ。」等々。身内を戦争で失った者達の気持ちも判らなくはないが、40年という月日を経て再会した親子に、もう少し温かい目を向けて上げて貰えないものだろうか。彼は脱走兵だったかもしれないが、国家の威信の為に戦場に赴かされ、命を落とさなければならなかった”世界”から、「生きたい」という本能が優先してしまった事を咎めるだけの強さは自分には無い。
昨日の新聞に「玉砕よりも『生きたい』」という記事が載っていた。
話は5年前に遡る。サイパン島の北西海岸を歩いていた米国人のベス・ネパイアル氏(当時35歳)は、浜で小判型の小さな金属札を拾った。刻まれていた文字からどうやら日本兵の物らしいと判った彼は、「遺族に返せたら。」という思いで日本領事館にその金属札を預けた。そして、その事を忘れかけていた頃、「持ち主が生きている。」という連絡を受け、感激で涙が止まらなかったという。翌年、ネパイアル氏は日本でその持ち主と会う事となった。持ち主は元日本兵の山内武夫氏(84歳)。だが、元日本兵のの表情は硬いままだった。と言うのも、その金属札は彼がサイパンの地で永久に捨てたはずのものだったからだった。
現在の東京外国語大学(ロシア語)を中退した山内氏が、徴集を受けサイパンに送り込まれたのは1944年5月の事だった。それから1ヶ月後の6月15日、米軍の上陸作戦を迎える事になる。沖合いの海は2日前から見渡す限りの艦隊で黒く染まり、厳しい空襲と艦砲射撃が続いていた。分隊長として13人の兵を率いていた彼は、怒鳴る上官に促され、躊躇いを振り切って部下に初の攻撃命令を下した。陣地から飛び出すと同時に、弾丸が喉をかすめ、後に続いた部下が戦死。山内氏は「生き残りたい。」と心から思ったという。
日米の圧倒的な戦力の差に、日本軍は瞬く間に散り散りとなり、山内氏は仲間達とジャングルを敗走する事となる。目の前を銃砲弾が降り注ぐ日々に、「死んだ。」と思った瞬間は10回は下らなかったとか。海岸には日本兵の死屍が累々と晒され、逃げ込んだ洞窟には、日本兵の命令で母親達に殺された幼子の死臭が漂っているという地獄絵図。「欧州では捕虜は保護される。」事を知っていた山内氏は、「捕虜になりたい。」という生への希求が強かったが、仲間達は口々に玉砕を唱えたという。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残す事勿れ。」という戦陣訓が、此処でも絶対的な力を持っていたのだ。
7月14日、投降の決意を固めた彼は、夜明け前に潜んでいた洞窟を抜け出し投降の呼び掛けに応じた。その際、肩から掛けていた兵隊の証を山中に捨てたという。それこそが、ネパイアル氏が拾った金属札、個人番号が刻まれた「認識票」だったのだ。山中で捨てられた認識票が、どういう経路で56年を経て浜辺に辿り着いたのかは不明だが、持ち主を捜し彷徨っていた様に感じてしまう話だ。
捕虜となった山内氏はハワイやアメリカ本土の収容所生活を経て、終戦後の1946年に帰国する。やっとの思いで帰り着いた故郷には、既に自分の墓が出来ていたという。彼が配属していた136連隊は約4,000人。その生存率は僅か3%だった。
戦後の彼は経済研究所に勤務する傍ら、不戦運動に携わって来た。「戦時中の国家主義の思想を否定しながらも、戦争に反対出来なかった事への償いだったのかもしれない。」と記者は書いているが、山内氏本人は「ボクは正しくなんかない。卑怯だった。僕の命令で倒れた隊員への罪は、一生背負って行く。」と弱々しい口調で繰り返すばかりだったとか。
今はサイパンの中学校副校長を務めているネパイアル氏に、山内氏のこの言葉を記者が伝えた所、彼は柔らかな口調で次の様に答えたという。
「多くの日本兵が捕虜になる事を恥じて、自殺した事は知っています。でも、恥なんて皆、毎日かきながら生きている。人間ですから。兎に角、私はタケオが生きていてくれて嬉しい。」
昨日の新聞に「玉砕よりも『生きたい』」という記事が載っていた。
話は5年前に遡る。サイパン島の北西海岸を歩いていた米国人のベス・ネパイアル氏(当時35歳)は、浜で小判型の小さな金属札を拾った。刻まれていた文字からどうやら日本兵の物らしいと判った彼は、「遺族に返せたら。」という思いで日本領事館にその金属札を預けた。そして、その事を忘れかけていた頃、「持ち主が生きている。」という連絡を受け、感激で涙が止まらなかったという。翌年、ネパイアル氏は日本でその持ち主と会う事となった。持ち主は元日本兵の山内武夫氏(84歳)。だが、元日本兵のの表情は硬いままだった。と言うのも、その金属札は彼がサイパンの地で永久に捨てたはずのものだったからだった。
現在の東京外国語大学(ロシア語)を中退した山内氏が、徴集を受けサイパンに送り込まれたのは1944年5月の事だった。それから1ヶ月後の6月15日、米軍の上陸作戦を迎える事になる。沖合いの海は2日前から見渡す限りの艦隊で黒く染まり、厳しい空襲と艦砲射撃が続いていた。分隊長として13人の兵を率いていた彼は、怒鳴る上官に促され、躊躇いを振り切って部下に初の攻撃命令を下した。陣地から飛び出すと同時に、弾丸が喉をかすめ、後に続いた部下が戦死。山内氏は「生き残りたい。」と心から思ったという。
日米の圧倒的な戦力の差に、日本軍は瞬く間に散り散りとなり、山内氏は仲間達とジャングルを敗走する事となる。目の前を銃砲弾が降り注ぐ日々に、「死んだ。」と思った瞬間は10回は下らなかったとか。海岸には日本兵の死屍が累々と晒され、逃げ込んだ洞窟には、日本兵の命令で母親達に殺された幼子の死臭が漂っているという地獄絵図。「欧州では捕虜は保護される。」事を知っていた山内氏は、「捕虜になりたい。」という生への希求が強かったが、仲間達は口々に玉砕を唱えたという。「生きて虜囚の辱めを受けず。死して罪禍の汚名を残す事勿れ。」という戦陣訓が、此処でも絶対的な力を持っていたのだ。
7月14日、投降の決意を固めた彼は、夜明け前に潜んでいた洞窟を抜け出し投降の呼び掛けに応じた。その際、肩から掛けていた兵隊の証を山中に捨てたという。それこそが、ネパイアル氏が拾った金属札、個人番号が刻まれた「認識票」だったのだ。山中で捨てられた認識票が、どういう経路で56年を経て浜辺に辿り着いたのかは不明だが、持ち主を捜し彷徨っていた様に感じてしまう話だ。
捕虜となった山内氏はハワイやアメリカ本土の収容所生活を経て、終戦後の1946年に帰国する。やっとの思いで帰り着いた故郷には、既に自分の墓が出来ていたという。彼が配属していた136連隊は約4,000人。その生存率は僅か3%だった。
戦後の彼は経済研究所に勤務する傍ら、不戦運動に携わって来た。「戦時中の国家主義の思想を否定しながらも、戦争に反対出来なかった事への償いだったのかもしれない。」と記者は書いているが、山内氏本人は「ボクは正しくなんかない。卑怯だった。僕の命令で倒れた隊員への罪は、一生背負って行く。」と弱々しい口調で繰り返すばかりだったとか。
今はサイパンの中学校副校長を務めているネパイアル氏に、山内氏のこの言葉を記者が伝えた所、彼は柔らかな口調で次の様に答えたという。
「多くの日本兵が捕虜になる事を恥じて、自殺した事は知っています。でも、恥なんて皆、毎日かきながら生きている。人間ですから。兎に角、私はタケオが生きていてくれて嬉しい。」
ジェンキンスママが生きてるうちに会えたってことが良かったです。
地元の人が「裏切りもの」みたいなことを言ってましたが、会わせる機会をつくった国のイキに乾杯!
小泉さんも映画でも何でも見ればいいんです。やることをやったあとで。。
ジェンキンスさんは、日本人の拉致被害者と結婚していたからこそ、特別な計らいを受けることができた人であって、そうでなければ、悪の枢軸北朝鮮の共産政権に手を貸した売国奴でしかないだろうと思います。
不遇な人生には同情をしますし、一兵に世界史的な責任を負わせるのは朝日新聞同様の蛮行だと思いますが、彼が北朝鮮のために自ら望む形で協力し、アメリカ兵に投降を呼びかけていたのも事実です。
ですから、拉致被害者の夫としてみる日本人と、北朝鮮に亡命した兵士として見るアメリカ人では違うジェンキンスさんに写るのは仕方ないと思います。