又A氏は、「(朝日新聞等の反日報道に怒りを示す人が増えたのは)ネットによって真実に触れる機会が増えた上での、単なる正常な反応。」ともしていた。インターネットの普及によって、確かに”多くの情報”に触れる機会が増したのは事実だと思うし、その事によって今迄は表に出なかった”事実”が明るみになるといった事も当然在るだろう。だが留意しなければならないのは、インターネット上に溢れ返っている情報全てが、必ずしも正しいという保証が無いという事。自分も記事を書く上では出来るだけ複数の、それもなるべく方向性が同じでないメディアで確認してから書く様には心掛けているつもりだが、それでも誤った情報を掴んでしまう事が在る。そういった情報の中には、「明らかに何等かの意図を持っての誤情報。」も在れば、「単なる勘違いといった、”悪意の無い”誤情報。」も在り、種々様々だ。
だから、「ネットによって真実に触れる機会が増えた。」というのも、果たして様々な方向からの情報を総合的に吟味した上で「真実」と判断したものか否かによって、その中身は大きく異なるのではないだろうか。何よりも思い込みが激しければ激しい程、インターネットに溢れ返った多くの情報を吟味する”目”にかなりのバイアスがかかってしまう事も充分考えられるのではないだろうか。
勘違いして戴きたくないのは、上記した金村投手と同様に此処でA氏を批判したい訳では毛頭無い。そうでは無くて、この所A氏と似た様な言動が世間ではどうにも目立つ気がしており、その事に対して疑問を呈したいだけなのだ。
ブログは、私見を書く場でも在る。それを踏まえた上で尚、自分は記事を書く上で私見に関する部分には出来るだけ「自分は」とか「私見で在るが」といった断り書きを付ける様にしている。あくまでもそれは一個人の意見で在り、他者に強制すべきものでも、「この考え方が絶対無二的に正しい。」なぞと思い上がっている訳でもない事を明示する意思からで在る。しかし時には、「○○は売国奴だ。」といった断言調で書く事も在る。それは自分なりに様々なメディアに当たった上で、「本当にこの情報は正しいのだろうか?」と自らの頭の中で情報整理し、その結果「そうとしか思えない。」といった憤りを持って書く場合で在る。
例えば自身と相容れない主義や人物が居るとする。自分の場合、星野仙一氏等がそういった人物の一人なのだが(笑)、それでも彼の言動が全て誤っているとは思っていない。時には(極稀では在るが。)「その通り。」と拍手喝采したい時も在る。要は、その時々に立ち止まって考え、その是々非々を判断する事が肝要なのではないか。
自分は別段、”右”にも”左”にも与したくはない。そもそも、ベルリンの壁崩壊から20年近くも経とうとしているのに、未だ「右だ左だ。」といった概念”だけ”が主張されているのも何か時代錯誤的な気すらしている。
だが、他者がどんな主義&主張を持とうが、それは全く自由という考えも持ち合わせているつもりだ。色んな主義&主張が無い方が、余程不健全だと思っている。
それだからこそ、過ぎた朝日バッシングに疑問を挟んだだけで、「御前は反日か!」と決め付けられてしまう様な昨今の風潮には付いて行けない。皇室の在り方に対し否定というレベルでは無く、疑問を呈しただけで「それならば日本から出て行け!」と書かれてしまった人のブログも目にした事が在る。議論を全面的に放棄し、自身の主義&主張と相容れないモノに対しては端から排除するというので在れば、それは極めて偏狭ではなかろうか。
中には”釣り”的に、又は冗談半分でこういった書き方をしている人も居るで在ろう。それならば別に疑問を差し挟むのは滑稽極まり無いのだろうが、「この考え方こそが唯一無二で在り、その他の主義&主張は100%嘘。考慮するに全く値しない。」と凝り固まってしまっているならばそれはどうかと思う。
嘗て「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン。」と揶揄された時代が在った。これもかなり偏った方向性の時代だった様に思うが、その揺り返しというか反動が今の世の中に繋がっているのかもしれない。唯、「朝日新聞の購読者や天皇制度に疑問を持っている人=反日」という安直な決め付けが在るとすれば、これは全くおかしなもの。彼等の中にだって、所謂”右”と称されている人よりも遥かに愛国の思いを持っている人が居ないとは誰が断言出来ようか。
偏った考え方を持っている自分だからこそ、敢えて今回は自戒も含めて吼えてみた。
*1 A氏の書き込みにはユーモア漂うものや納得させられるものも在るだけに、余りの決め付けが目立つのは残念でならないし、勿体無いなあと感じてしまう。
だから、「ネットによって真実に触れる機会が増えた。」というのも、果たして様々な方向からの情報を総合的に吟味した上で「真実」と判断したものか否かによって、その中身は大きく異なるのではないだろうか。何よりも思い込みが激しければ激しい程、インターネットに溢れ返った多くの情報を吟味する”目”にかなりのバイアスがかかってしまう事も充分考えられるのではないだろうか。
勘違いして戴きたくないのは、上記した金村投手と同様に此処でA氏を批判したい訳では毛頭無い。そうでは無くて、この所A氏と似た様な言動が世間ではどうにも目立つ気がしており、その事に対して疑問を呈したいだけなのだ。
ブログは、私見を書く場でも在る。それを踏まえた上で尚、自分は記事を書く上で私見に関する部分には出来るだけ「自分は」とか「私見で在るが」といった断り書きを付ける様にしている。あくまでもそれは一個人の意見で在り、他者に強制すべきものでも、「この考え方が絶対無二的に正しい。」なぞと思い上がっている訳でもない事を明示する意思からで在る。しかし時には、「○○は売国奴だ。」といった断言調で書く事も在る。それは自分なりに様々なメディアに当たった上で、「本当にこの情報は正しいのだろうか?」と自らの頭の中で情報整理し、その結果「そうとしか思えない。」といった憤りを持って書く場合で在る。
例えば自身と相容れない主義や人物が居るとする。自分の場合、星野仙一氏等がそういった人物の一人なのだが(笑)、それでも彼の言動が全て誤っているとは思っていない。時には(極稀では在るが。)「その通り。」と拍手喝采したい時も在る。要は、その時々に立ち止まって考え、その是々非々を判断する事が肝要なのではないか。
自分は別段、”右”にも”左”にも与したくはない。そもそも、ベルリンの壁崩壊から20年近くも経とうとしているのに、未だ「右だ左だ。」といった概念”だけ”が主張されているのも何か時代錯誤的な気すらしている。
だが、他者がどんな主義&主張を持とうが、それは全く自由という考えも持ち合わせているつもりだ。色んな主義&主張が無い方が、余程不健全だと思っている。
それだからこそ、過ぎた朝日バッシングに疑問を挟んだだけで、「御前は反日か!」と決め付けられてしまう様な昨今の風潮には付いて行けない。皇室の在り方に対し否定というレベルでは無く、疑問を呈しただけで「それならば日本から出て行け!」と書かれてしまった人のブログも目にした事が在る。議論を全面的に放棄し、自身の主義&主張と相容れないモノに対しては端から排除するというので在れば、それは極めて偏狭ではなかろうか。
中には”釣り”的に、又は冗談半分でこういった書き方をしている人も居るで在ろう。それならば別に疑問を差し挟むのは滑稽極まり無いのだろうが、「この考え方こそが唯一無二で在り、その他の主義&主張は100%嘘。考慮するに全く値しない。」と凝り固まってしまっているならばそれはどうかと思う。
嘗て「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン。」と揶揄された時代が在った。これもかなり偏った方向性の時代だった様に思うが、その揺り返しというか反動が今の世の中に繋がっているのかもしれない。唯、「朝日新聞の購読者や天皇制度に疑問を持っている人=反日」という安直な決め付けが在るとすれば、これは全くおかしなもの。彼等の中にだって、所謂”右”と称されている人よりも遥かに愛国の思いを持っている人が居ないとは誰が断言出来ようか。
偏った考え方を持っている自分だからこそ、敢えて今回は自戒も含めて吼えてみた。
*1 A氏の書き込みにはユーモア漂うものや納得させられるものも在るだけに、余りの決め付けが目立つのは残念でならないし、勿体無いなあと感じてしまう。
Spa supernova様の所は遺族会会員なのですね。でしたら、小泉前首相の靖国参拝の是非は”別にして”、それに乗じて(賛否どちらを表明しているかに拘らず)”単に騒いでいるだけの様な”連中にはウンザリされておられる事と思います。何度も書いている事では在りますが、今の平和が多くの犠牲の下に成り立っているのは間違い無い事ですし、「御国の為」という事で命を落とさなければならなかった御霊には追悼の意を表さない日本人は居ないと思います。問題はそれを妙な形で政治利用しようとする事。これはどちらの立場で在れ、戦没者に対して非常に比例極まり無い事でしょうね。
「福島みずほを客員教授に迎えた事も在る学習院の方がよっぽどリベラル」、何か凄く説得力が在ります(笑)。
星野氏&野村氏、ジャイアンツにもう無関心で在って欲しいです。「本当に御願いしますよ。」って土下座して御願いしたい程(苦笑)。
嘗ては、「『天声人語』を読まずして共通一時試験の国語対策は成らず。」みたいな事がさも常識の様に言われていた時代が在りましたよね。その頃ならばいざ知らず、今はそれ程朝日新聞そのものに影響力が在るとは思えないんですけどね。それにどの新聞を購読していようが、書かれている事を鵜呑みする人は鵜呑みするだろうし、色々なメディアに当たって確認する人はすると思われ、朝日だけそれ程迄にバッシングの矛先を向けるのも妙な気がするのですが。
一寸異論を唱えさせて戴くならば、「単一思考や条件反射だけで生きている様な人間、若しくはマナーのなっていない人間」は決して若い層だけでは無く、老若男女どの層にも増えて来ている気がしております。公共の場で大声で騒ぎ立ていた中年のおばちゃん軍団に、「一寸静かにして貰えませんか?」と注意すると、「此処はあんただけの場所じゃないでしょ?楽しく話しているのに、つまんない御兄ちゃんね!」と逆切れされた事が在りますし(勿論、その後は引き続き大声での会話を続けていました。)、又電車で小学校低学年位の女児が立っていた高齢の男性に「どうぞ。」と席を譲ろうとした所、「失礼な!」と一括され、しょぼんとしている姿を見た事も在ります。前者の場合はさて置き、後者の場合には「有難う。でも、大丈夫だから、そのまま座っていて良いよ。」といった事が何故言えないのか?「年寄りと看做された。→腹立たしい。」という単一思考しか出来ず、廻りが全く見えなくなっているのではないでしょうか。
これ迄に多くの新入社員を見て来ましたが、確かに「こりゃあ何だ?」と思ってしまう輩も居りましたが(苦笑)、逆に「この子は凄いな。」と自分自身のレベルの低さを痛感させられる様な出来た子も多かったです。「当たり前の事が当たり前に出来ない人間」と「当たり前の事以上の事が普通に出来る人間」との差が、老若男女を問わず格段と開いて来てしまっているという事ではないでしょうか。
日本人って元々、付和雷同的で寄らば大樹の陰的な面が強い国民性の様に思いますが、その”付帯度”が近年は一層強くなった気がします。又、例え中身が無くても判り易くてシンプルな方を好むという傾向も同様に強くなった様に感じられ、こういった傾向が強くなったのは、小泉純一郎氏が首相に就任した頃と時を一致しているのではないかと。
自民党総裁選中、世論調査では安倍氏の人気が圧倒しておりましたが(これも何か違和感を覚えます。若い層が多いで在ろう事は差し引いても、ネット調査では安倍氏はダントツに最下位というケースが目立っていましたから。)、では「何故安倍氏を支持するのですか?」という問いには、「何となく。」といった答が結構在りました。「何となく。」で一国の指導者に相応しいと思う人物を選んでしまう国民って・・・。
ネット上での中傷合戦もそうですが、最近気になっているのは著名人がブログ等で書いた文章に対して、”数の力”で責め立てて、所謂”炎上”させるという話を良く見聞する事。確かに、「これは批判されても仕方ないだろうなあ。」と思われる(著名人の)軽率な文章もそれなりに在るのですが、そうではない「一定の事柄に一寸疑問を呈したレベル」の文章でも、”巨大掲示板”に「こんな事書いてまっせ!皆で攻撃しましょうや。」といった感じで記し、面白おかしく当該文章へ”書き込みの攻撃”をするというのはどんなものかと思うのです。又、軽率な文章で在ったとしても、それに”論”としての文章で、尚且つ”一個人”として「おかしいのではないでしょうか?」と書き込むのならば未だしも、そうではない単に面白おかしく騒ぎたいが為に参加している様な人が多く見られるのは、折角ブログという有益なツールが普及した中で非常に残念だし、勿体無く感じます。
それと朝日新聞の件ですが、自分は朝日ウォッチャーでは在りませんので(笑)、実際にどういう事が書かれているのかの詳細は勿論判りません。ですので、あくまでも推測という形で元記事を書かせて貰ったのですが、やはりそこ迄偏った書き方はしていなかったのですね。唯でさえバッシングされている新聞なので、わざわざ火に油を注ぐ様な書き方をするものかなあ?と思っていましたが・・・納得です^^。
実はわが一族も遺族会会員。最近は靖国神社の「2ちゃんねる有志」ご一行様狙い路線に呆れ、ご一行様の多い時期には出かけない、が合言葉です。いかんせん、高齢の爺さん婆さんも連れて行きますからね…。地元の護国神社で充分という話もありますけど。靖国はにぎわってるけど、護国神社は閑散としてまして(笑)。まあ、老人と行くにはいい環境なんですけどね。宮司と話したら人が来ないことにものすごい危機感を感じているらしく。「人寄せに小林よしのりイズム使ったらあきませんよ」とは冗談でクギを刺しましたけどね(苦笑)。向こうも図星だったやらちょっと苦笑いでした。
同級生もまあ過激というか熱血教師と思われている部類の人間です(笑)。一般の教員は「都市部の一流校に何人入れるか」に血道を上げ、自分の時代もそうでしたが高偏差値=良い人間、低偏差値=存在もしてはいけないクズ、のように扱っているようで。最近は地元国立大(偏差値48程度、昔は教育学部と工学部のみだったなー)志望でもクズ扱いとか。で、親御さんのことを「昔のことしかシランアホ」みたいに罵倒し、「あんな奴らの言うこと聞くな、先生のことを信じとればええ」などとぬかしやがるんだそうで。まあ自分のころも似たり寄ったりでしたが…^^;。まあ親御さんの意識は20年遅れかもしれないけど…。こういう現場の雰囲気は安倍さんにとっては「美しい日本」なんでしょうかね。どうも東京の例を見る限り、それはOK,とにかく組合対策に尽きそうなんですけど。いやだなあ、これでは福島みずほを客員教授に迎えたこともある学習院のほうがよっぽどリベラル、真っ当な親御さんの公立離れは加速しますよ。
>アンチ巨人ファンとアンチ朝日
大いにいえますね。最近のアンチ巨人の代表格、星野氏、野村氏の言動には巨人ファン以上に巨人愛を感じますから(笑)
もうちょっと毎日や読売も構ってあげてください、と思います(笑)
確か文春の名物編集長・花田氏が昔言い切りましたよね。「朝日以外を叩いても反応が薄い」と。
現代の平均的日本人は心がせまくなって、それからきっと、ばかになってるな・・・と、いうのが、わたし、そしてわたしの友人の考え。
すべてのことに、単純に理解しやすい断定表現を好む。
マスコミ、特にTVに躍らせられる・・自分でものを考えない・・特に、選挙の時や・・人気政治家と放送されると、あ・・じゃあ、わたしも好き!!そのような扇動のされようには、うんざりです。これは、若者だけでなくて、年配の人もそう。。何に注目して、票を入れるの?と、一度、全国まわって、老若男女に聞いてみたい。「見栄えがするから。。」「何かやってくれそうだから・」「知り合いに頼まれたから」そんなことをいう人に出会ったら、パンチしてみたいです。苦笑。脳みそ使って考えろ・考えろ・・あんたの子供も、そのまた子供も・・み~んな今とつながってるんだ!!!!そう言いながらパンチしたいです。笑
それから、ネットでの中傷合戦の殺伐さには、もう、たまりません。これまた、いかにバカが多いかを物語っていて、こんな人たちが社会をつくってんだもんなあ~~と、と暗い気持ちになります。
あ・・あんまり、バカと書いてしまうことに、なんか、高みにたって物を言ってるような気がして、自分でも気持ちがいいものではないのですが・・それでも、バカっ!と言いたい時はあるのです。
ここでいうバカというのは、最低限で言うと、思いやりのない人。人の揚げ足をとって満足する。他人をうちまかすことで、自分の優位さを確認したがる人。です。
ほんとは、・・人の話を鵜呑みにしないで、自分で考えてみるという部分も付け加えたいのですが・・これは、最低限のバカから脱却してない人たちにはハードル高すぎるでしょうか・・
PS、我が家は朝日新聞ですが・別に安部さんの前にいちいち、戦犯の孫だとかついてませんよ。笑。わたしが見たのは、海外でそういうふうに報道される部分がある・・そういうニュアンスで一回だけ見ました。朝日新聞を取ってるのは、居住地の他紙より広告が少ないから。笑 それから、新聞は2、3紙読むことでバランスが取れると思っているので、おまえ、左翼だろ~と決め付けられると困っちゃうわ。笑
実はこのテーマ、以前よりずっときちんとした形で私見を表明したいと思っておりました。唯テーマがテーマだけに、如何に誤解無く思いを伝えられるだろうかという点に於いて艱難辛苦を続けていたのですが、やっとの事で書き終えた次第。稚拙極まりない文章では在りますが、自分としてはかなり力を入れた内容のつもりでしたので、こうやって多くの皆様から反応を戴くと心底嬉しいです。
相反する主義&主張の資料を対比させ、生徒達自身の頭で判断させるという試みはとても良いと思います。絶対的な真理に付いては、教師がそれを「正」のものとして教え込むのは勿論なのですが、こういった思想&信条に関わるものは、教師が自らの思想&信条を強制するものでは無いと思うからです。生徒によってはセンセーショナリズムな”見栄え”(表現やヴィジュアル面等。)で、どっちかに飛び付いてしまう事も在るとは思いますが、それはそれでその生徒なりの判断。唯、基本的には極右も極左も、極端に寄っているという点に於いては同根という事だけは理解して欲しいですが(苦笑)。
二元論思考しか出来ないというのは、その人間の可能性をも狭めてしまう気がして、個人的には非常に勿体無いなあと思ってしまいます。
小泉前首相の靖国参拝に付いては、以前に記事でも書きました様に「首相の立場での参拝は好ましくない。」というのが自分の考えです。唯、靖国問題が連日の様に取り上げられていた頃、街中でインタビューを受けていた人の中に「日本人だったら、靖国参拝しないっちゅーのはおかしいっすよ!そんなの非国民だし、日本から出て行くべき!」と言っていた人が居ました。此処迄極論では無いにせよ、それに類する発言をしている人がそこそこ目に付きました。
そういうのを見る度に、「この人達はじゃあ、去年迄は靖国参拝していたのかなあ?普段は老人に席を譲らなかったり、ゴミを平気で路上に捨てたり、酷い場合には慰霊碑の前で写真をパチパチ撮りながら大騒ぎしている人間だって居たんじゃないのかなあ?もしそうで在れば、そんな連中にだけは非国民だ何だなんて言われたくない。首相の靖国参拝は反対だけれども、自分は靖国どころか全国各地の慰霊碑&記念碑に赴き、心から追悼の気持を表しているつもりだし、国を愛する気持は人一倍強いと自負している。」という思いが湧いたものです。
「自己責任」という言葉を錦の御旗にして他者をいたぶる。二元論思考の流行りも、何か同じものが根っ子に在る様な気がします。
ファイターズは今年のドラフトで、ダース・ローマシュ匡投手を指名しましたよね。彼が金村投手の発言を耳にしたら、どう思う事でしょうか?金村投手に悪意は無かったと信じたいですが、こういった発言は金輪際慎んで貰いたいです。それだけ影響力の在る選手なのですから。唯、今回の発言でチームに悪影響が出る事を懸念していましたが、逆にこの事でチームがより結束した様で、昨日レギュラー・シーズンでの1位を決めた事にホッとしております。
今回の記事も興味深く読ませて頂きました。
皆さんのコメントも頷きながら読ませて頂きました。
私もブログに限らず、実生活の上でも、
“頭が固くなってるなぁ・・”
と、薄々感じていたので、反省させられる思いです。
確かにハッキリとモノを云う人が珍重される傾向はありますね。
声の大きい人、身振り手振りの多い人に押し切られる大人社会を、
“不思議だなぁ”
と見つめている少年時代の私でしたが、
今では親しい仲間と政治の話題すると、
“お前はタカ派だからなぁ、”
と、すっかり烙印を押されてしまっています(笑)
世の中を黒か白かで語ろうとする事自体に無理がありますね。
私の職場でさえ、
“敵の敵は味方、敵の味方は敵”
そんな幼稚な論理や主張が罷り通っていますし、
仲の悪い部長同士は口も利かないので、業務にまで支障がでて、
しかも、それが当たり前になっています。
私は最近になって、
「差異こそが人生や世の中の面白味」
そんな風に感じ始めていますので、
違う意見を排除し、仲良しグループを作りたがる同僚には辟易することがあります。
天保年間に、幕府から火盗改長官を拝命した黛内蔵之助という人物がいましたが、
彼は、人選の際、最も自分に批判的な人物も登用したそうです。
“なぜ、あなたと異なる考えの私を?”
と問われた内蔵助は、
“仲の良い人間だけではいい仕事は出来ない”
そんな会話がなされた様に記憶しています。
ドラマ『功名が辻』での法秀尼さまの台詞、
「議論を戦わせ、互いを理解し合う」
そこから人間の発展、解決の糸口も見えてくるのではないかと思います。
というか、人生損していると思いますよ。
例えばブログの中には人気ランキングで1、2位を争うブログから泡沫ブログまで「特定アジア」をこき下ろすブログが数多くみられます。
まあこき下ろすのは人の勝手ですが、こき下ろしているうちに「特定アジア」の美味とか文化とか(それがたとえパクリと呼ばれるものであってもパクリなりの味がありますしね)人とのふれあいなどを知らずにすごすことになるわけで、人間やっぱり日和見主義と言われても偏見を持たずにいろいろ味わっているほうが、この世の中、楽しく生きられるのではないですかね。
記事でも書きましたが、自分もかなり偏った考え方をする人間と自覚していますので、本来はこんな偉そうな文章を書く資格は無いんですよ。個人的に宗教観が薄いという事も在りますが、気持だけでは無く金銭迄入れ揚げてしまい、一家離散という最悪な結果を迎えてしまった人間を知っていますので、○価学会と聞くと眉間に皺が寄ってしまう様な人間ですので、或る意味朝日嫌いの人間と同根の部分は在るかもしれません。唯、だからと言って、その対象が全てに於いて駄目だと言い張る程の狭量さでも無いと思っておりますが(苦笑)。
アンチ・ジャイアンツ、それもその度合いが著しく強い人間は、或る意味ジャイアンツの動向を非常に注視しているという意味で、一般のジャイアンツ・ファンよりも熱狂的なファンとも言えると指摘している人が居ました。その意味で言えば、極度な朝日バッシングを続けている人は、裏返せば熱狂的な朝日ファンという事になるかと。極右or極左、結局は極端という意味で、同じ位置に立つとも言えますね。
「見境無くズケズケ物を言う事が自己主張で在るとか正しい事で在るかの様な風潮が嫌い。」というのは、自分も全く同感です。物事をハッキリ言うのは決して悪い事では無いけれども、相手の主義&主張に全く耳を貸さないどころか、端から排除しようとする姿勢は民主主義国家の一員としてどうかと思います。又、言いっ放しで良いので在れば、こんな事は誰でも出来る事。相手の立場も慮った上で、自分の主義&主張を理路整然と明らかにする。それが出来ないのでは、単なるゴロツキと同じではないでしょうか。
私もいわゆる新人類世代ですが、まめたぬきさんご指摘の通り前の世代から比べるとノンポリで、前の世代は左翼思想を語ることがインテリとしてのステーータスと言いますか、ファッション(昔「ファッション」と「ファッショ」の区別がつきませんでした)だったように思えます。それに比べ今の若い世代は、愛国や朝日バッシングを語ることがファッションのように思えます。
一点気になりますのが、インターネット等で情報が氾濫している時代にそれに対するリテラシーが低下してうることと、コミュニケーション、特に人の意見を理解する能力が低下しているように思われることです。それこそ「ファッショ」に利用されなければよいのですが(笑)。
…しかし今回の一連の騒動で「左」と決めつけられることや、イデオロギーを持ち出される事にはうんざりです。
一部の考え方に共感できたら、それでもええやん。
ノンポリであろう、というのが新人類(1960年代生まれ)には多く(ちょっと前の「左」が格好良い、ちうのに対する反発でしょうね)、『右』を良しとするちょっと若い世代には冷めた目を向けてしまいます。、
世の中なんか生きづらくなったような気がします。景気云々ではなく、人を許容するという姿勢があまり見えなくなってきたと思うから。他人を批判するのはいいけど、すべてを否定するのはあまり面白くないですね。
日本人って、もっと謙虚な民族だと思っていましたよ。
新聞についていえば、朝日が読みたい人は朝日をとるし、産経が読みたい人は産経をとるだけ。いやいや新聞の主張が購読理由にはなりますまい。洗剤の数とは巨○戦のチケットとかで決めてる人々も多いはずです(赤○や聖○新聞はともかく)。だって内容で吟味し出すと漢字の間違いや文法的なミス、慣用句や引用文の誤用なんか朝毎読産、山ほどありますから。
今までは所属している職場や組合、職場のつながり縁故で思想信条が影響を受けることが多かったのですが、そういうしがらみなしで自由に思想を構築していければよいと思います。
同級生で高校の教師をやっているものがいまして、
「週刊金曜日(朝日ジャーナルの後継?)」と
「サピオ」を読み比べさせる授業をたまにやるそうです。彼いわく「どっちもどっち」とか「左と右はけーっきょく一緒やわい」ということを判断させたいため、らしいんですが、今の高校生はキャッチーなサピオに飛びつきそうだが…、効果あるかなー?と思いました。
ただ彼との意見の合致点は「いわゆるネット右翼と称される人々は昔の新左翼の小型版」ということでした。手法がとにかく似ていること、思考の幼さ含め。
「ユダヤ陰謀論が大好き」だったりするのは新左翼どころかナチにまでつながってしまいますが(笑)。
で、二元論思考しか出来ない。朝日新聞をとっていたら左翼なんていうのはかなりばかげた思考ですよね。新左翼が好む「電通に勤めている=右翼」(中島らものお師匠さんは電通の人でした。らもも電通に出入りしていたんですから右翼になってしまいます)ぐらいアホです。
まあ若い人(とは限らないようだけど)にありがちなのかなあ…。数年住んだドイツ、デンマークでは自分は被害は幸い受けなかったけれど、ネオナチ(暴走族的な人々)とトルコ系のギャング(ネオナチよかよっぽど怖い)の抗争、あるいは反米・反イスラエルのインテリ左翼若者の運動というのはそれなりによくニュースのネタになっていました。
>金村選手の外国人だからという
日本人らしくて泣けてくる…
結局鎖国をしたいわけで。でも金村君、その言葉は仲間のひちょり君、マイケル君、果てはダルビッシュ君をも傷つけてしまうのでは?と思います。