ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

ズバリ聞きます!(73)

2024年03月18日 | 「ズバリ聞きます!」

2月の記事「忘れられないプロ野球の名シーン」で大日本東京野球倶楽部創設されたのは、1934年12月26日の事。大日本東京野球倶楽部はジャイアンツ前身で在り、詰まり今年はジャイアンツにとって、『球団創設90周年』という記念の1年になる。と記したが、記念すべき年という事で、「ジャイアンツは今季から、ユニフォームキャップのデザインを一新して臨む。」事となった。

従来の物との変更点は幾つか在るが、大きく印象が変わったのは「ヴィジター用ユニホーム」だろう。グレーの色味が大きく変わり、胸文字や袖口のラインにホワイト・カラーが採用されている。又、キャップはホーム&ヴィジター共にデザインが一新された。ホーム用は90周年を刷新した「YG(YOMIURI GIANTS)」ロゴを前面に配置し、ヴィジター用では「TG(TOKYO GIANTS)」ロゴが、約70年振りに復活。

「企業名を前面に押し出し過ぎる事に抵抗が在る自分。」なので、ヴィジター用のキャップだけとはいえ、ロゴを「YG」から「TG」に変更したのは良かったと思っているが、「タイガースっぽいなあ。」という印象は拭えない。シーズンに入れば、見慣れて行くのだろうが。

記念すべき年という事で、ユニフォームやキャップのデザインを一新したのは判るのだけれど、此方に記されている様に、「21世紀に入ってからのジャイアンツは、ユニフォームのデザインをチョコチョコ変え過ぎている。」という感じが在る。「時代の移り変わりと共に、色々変わって行って良い。」とは思うけれど、伝統在るチームなので「もう少しデンと構えていても良いのでは?」と思ったりもする。

ユニフォームのデザインの変更、時の流れと共に慣れて行った部分も在れば、どうしても慣れない・・・というか“抵抗”が在り続けているのは、昨季よりユニホーム背面から名前を無くし、背番号のみとした。事。此方其の理由が記されているが、『チームの』というのを最優先し、背負う物は個人の功名心でなく、ファンへの思いで在るという事の決意の表れ。とか。“形式主義”の原辰徳監督らしい決定だが、ユニフォームの背面から選手名が無くなったのは「選手を認識辛い。」し、延いては「新しいジャイアンツ・ファン獲得の障害になるのでは?」という懸念が。

大昔で言えば「『背番号1=王貞治選手』、『背番号3=長嶋茂雄選手』の様に、背番号だけで背負っている選手名がパッと思い浮かぶケースは在った。」し、今でもジャイアンツに限らず、背番号だけで選手名がパッと思い浮かぶケースは在る。其れは、「同じ背番号を背負い“続け”、大活躍している選手。」の場合だ。でも、原前監督時代の様に、毎年、何人かの選手の背番号がコロコロ変わる様では、長くファンを続けて来た人間でも「選手名がユニフォーム背面に記されていないと、『誰だっけ?』と戸惑う。」事は結構在った況してやファン歴が浅かったり、新しくファンになった人ならば一層だろう。

思い返せば自分がジャイアンツに興味を持った幼少期ローマ字なんて全く理解してい”なかったけれど、(ユニフォーム背面に記された選手名のローマ字の)“形”で選手個々の名前を覚え、そしてジャイアンツというチームを応援する様になった。大袈裟な言い方になるが、ユニフォーム背面から選手名を無くした事は、選手を“パッと認識出来る機会”を奪い、ファンの興味を減じさせる。様に感じる。或る意味、ファン・サーヴィスの低下の様な気も。

其処で皆様にズバリ聞きます!ジャイアンツがユニフォームの背面から選手名を無くした事、貴方はどう思いますか?


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2 コメント

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間違いですね (Kei)
2024-03-19 11:46:37
昨年、ジャイアンツ選手のユニフォームから名前がなくなった時は、あれっと思いました。まるで高校野球かと思いましたよ(笑)。なんか(厳しい言い方をすれば)華がなくてみすぼらしくさえ見えます。
結論から先に言うと、まったく間違いです。大失敗です。以下その理由を書きます。

>『チームの為』というのを最優先し、背負う物は個人の功名心でなく、ファンへの思いで在るという事の決意の表れ…
という原監督の狙いは分からなくもないですが、それがなんでユニフォームから名前を消す事に繋がるんでしょうか。意味不明です。ただでさえ今の巨人の選手は坂本、岡本、菅野ら数人を除いて、顔だけでは誰なのかよく判らないのに、余計判らなくて困ります。でも理由はそれだけではありません。

背中の名前は、単なる記号ではなく、“選手のアイデンティティ”だと思います。名前がある事で、自分の存在をアピールする絶好のチャンスになるし、名前を注目して貰える事で、選手自身の励みにもなります。
いい例がイチローです。それまでは自身が考案した振り子打法を認められず、二軍で低迷していた鈴木一朗(本名)を、当時の仰木監督が注目し、登録名をイチローに変え、ユニフォームの名前も“ICHIRO”に変えました。そこからレギュラーに定着し、日米それぞれで大活躍する名選手となったのはご承知の通り。本名の通りに“SUZUKI”だったら、あるいはユニフォームに選手名がなければ果たしてどうだったか。少なくとも“ICHIRO”の名前で注目された事が自身を鼓舞する結果に繋がったのは間違いないと思います。

確かに野球はチームプレイであるのは正しいですが、同時に選手が自分の名前を憶えて貰おうと努力精進したり、指導者側も選手の持つ個性を引き延ばし、大きく育てる事も大事です。MLBで大活躍したイチロー、その前の野茂英雄、現在の大谷翔平はそれぞれ独自の個性を日本、及びアメリカでも開花させたわけですが、彼らの背中に書かれたICHIRO、NOMO、OHTANIの文字がその存在をアピールする事に大きく貢献した事も事実でしょう。
選手の背中から名前を消すなんて、言ってみれば学校において、個々の個性を伸ばそうとせず、画一的な教育を進めようとする現在の学校教育と、根はどこかで繋がっているようにさえ思えるのですが。今年は無理としても、来年にはジャイアンツ選手の背中の名前、復活した方がいいと思いますよ。
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>Kei様 (giants-55)
2024-03-19 14:55:41
書き込み有難う御座いました。

「背中の名前は、単なる記号では無く、“選手のアイデンティティ”だと思います。」という部分は特にですが、頂戴したコメントは全く同感です。

昨夜、NHKのBSで中畑清氏を取り上げた番組が放送されていました。現役時代、外国人選手を中心に、次から次へとライヴァルが現れ、出場機会を奪われる事が少なく無かった彼。でも、「『自分如きの選手では無く、もっと良い選手が起用されるのは、チームにとって良い事だし、悔しさはそう無かった。」と語った中畑氏。悔しさが全く無かったとは思えないけれど、野球がチーム・プレーで在る以上、自己犠牲の気持ちというのは、野球をする以上、“或る程度”は求められると思います。

でも、飽く迄も“或る程度”で在り、其れが“何から何迄”となってしまうと、ファンは其のチームに魅力を感じ得ないでしょうね。

原元監督の考えを全面的に否定はしないけれど、「自己犠牲=ユニフォームの背面から名前を無くす」というのは余りに短絡的だし、形式的に過ぎる。常々「我が“軍”は。」と口にする等、彼には「“個”を無くし、“全体”を唯一無二的に尊重する様な“軍隊意識”が垣間見れる事が多く。」、そういう点でも拒否感が在りました。自己犠牲は大事だけれど、飽く迄も“個”在ってのチームだと思うので。

松井秀喜氏と言えば、野球に興味が無い人でも殆どが知っている存在だった。もっと昔で言えば、ONを知らない国民は居なかったでしょう。でも、今はジャイアンツの4番で在る岡本和真選手の事を知る非野球ファンは、果たして何れだけ居る事か。地上波での野球中継が激減したというのも大きいでしょうけれど、だからこそ「選手の名前を積極的に売り込んで行く。」事が大事。ジャイアンツのしている事は、時代に逆行していると思います。
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