チャールズ・チャップリン氏が「資本主義社会に生きる人々が人間の尊厳を失わされ、機械の歯車として存在している。」事を、笑いという形で描いた映画「モダン・タイムス」。「黄金狂時代」や「街の灯」、「独裁者」、「殺人狂時代」等々とチャップリン氏には名作が多いけれど、「モダン・タイムス」もその一つ。伊坂幸太郎氏の近刊本「モダンタイムス」は、このチャップリン氏の名作からタイトルを採っている。
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「『幻魔大戦』が100年以上昔の20世紀に作られた作品。」と記されているので、今回の舞台は“今”から60年以上先、徴兵制度の敷かれた未来の日本という事になる。システム・エンジニアを務める29歳の渡辺拓海は或る日突然、奇妙な出会い系サイト関連の仕事を突然任される。その仕事に関わっていた先輩社員・五反田正臣が謎の失踪を遂げた為、渡辺に御鉢が回って来たのだ。「五反田の失踪の陰に、そのサイトが関係しているのでは?」と疑う渡辺。サイトの謎を解こうと動き回る内に、彼自身や彼の周りの人間に様々なトラブルが振り掛かって行く。謎の背後には、一体何が在るのか?
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例えば20年前、未知なる事柄に出くわした際、我々はどうやってそれを調べたか?恐らくは人に聞いたり、百科事典で調べたりするのが一般的だったろう。情報を得られる迄にはそれなりの時間を要した訳だが、今ならばインターネット上で検索エンジンを用い、調べたい用語を入力してエンター・キーを押せば、あっと言う間に多くの情報が得られる時代だ。「検索」という行動が習癖になっている現代人は少なくないだろう。しかし、検索で得られる数多の情報が、全て真実とは限らない。一般社会と同様にネット社会も玉石混淆で、偽りの情報も少なくない。中には何等かの意図を持って、偽りの情報を載せている場合も。その偽りの情報を真実と信じ込み、世論が一つの方向に流れる危険性。そして、何者かが“特定の用語”を検索した人間を機械的に調べ上げていたとしたら、これも非常に危険で恐ろしい話で在る。「便利なインターネットの落とし穴」や「社会に於ける個人の喪失」を、伊坂氏はこの作品で浮き彫りにさせている。荒唐無稽に思えるけれど、現実的に「絶対無い。」とは言えない話。
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「いいか、たとえば、国民は、殺人を許さない。殺人は許されない。それが道徳だと、基本的には誰もが認識している。実際、法律でも殺人は裁かれる。ただ、例外がある。戦争と死刑だ。(中略)それは道徳的に正しいとか、正しくないとかを超えてんだよ。だろ?ようするに、国家が望めば、国家が生き長らえるためなら、殺人も合法となるんだよ。国民のためにそうなっているわけじゃない。全部、国家のためだ。(中略)いいか、もし、本当に国民が怒ったなら、国家に反旗を翻すだろう。国家はだから、国民に怒られない程度に、国民を守るような素振りを見せているだけだ。それもつまり、延命のために過ぎない。」
「物事の真相というのは、あとから構築される。真相としてもっとも受け入れられたものが、真相となる。」
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印象に残った文章を2つだけ取り上げてみたが、前者は「死刑制度」に関する破壊王子様の御意見と重なる部分を感じる。小泉純一郎元首相や伊坂幸太郎氏自身を思わせる人物が登場したり、過去の映画や小説から至言(「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想で在る。」―芥川龍之介氏の「侏儒の言葉」より。)が多く引用される等、伊坂氏が森羅万象に深い造詣を持っているのが垣間見られる。
伊坂氏に対しては「単なる人気作家の一人。」という思いしかなかった自分だが、この作品で「凄い才能を持った作家なのかも。」という思いに。それだけ味わい深い作品で、今年のミステリー・ベスト10で上位に選ばれた同氏の作品「ゴールデン・スランバー」よりも、個人的には遥かに読み応えが在った。総合評価は星4つ。
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「『幻魔大戦』が100年以上昔の20世紀に作られた作品。」と記されているので、今回の舞台は“今”から60年以上先、徴兵制度の敷かれた未来の日本という事になる。システム・エンジニアを務める29歳の渡辺拓海は或る日突然、奇妙な出会い系サイト関連の仕事を突然任される。その仕事に関わっていた先輩社員・五反田正臣が謎の失踪を遂げた為、渡辺に御鉢が回って来たのだ。「五反田の失踪の陰に、そのサイトが関係しているのでは?」と疑う渡辺。サイトの謎を解こうと動き回る内に、彼自身や彼の周りの人間に様々なトラブルが振り掛かって行く。謎の背後には、一体何が在るのか?
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例えば20年前、未知なる事柄に出くわした際、我々はどうやってそれを調べたか?恐らくは人に聞いたり、百科事典で調べたりするのが一般的だったろう。情報を得られる迄にはそれなりの時間を要した訳だが、今ならばインターネット上で検索エンジンを用い、調べたい用語を入力してエンター・キーを押せば、あっと言う間に多くの情報が得られる時代だ。「検索」という行動が習癖になっている現代人は少なくないだろう。しかし、検索で得られる数多の情報が、全て真実とは限らない。一般社会と同様にネット社会も玉石混淆で、偽りの情報も少なくない。中には何等かの意図を持って、偽りの情報を載せている場合も。その偽りの情報を真実と信じ込み、世論が一つの方向に流れる危険性。そして、何者かが“特定の用語”を検索した人間を機械的に調べ上げていたとしたら、これも非常に危険で恐ろしい話で在る。「便利なインターネットの落とし穴」や「社会に於ける個人の喪失」を、伊坂氏はこの作品で浮き彫りにさせている。荒唐無稽に思えるけれど、現実的に「絶対無い。」とは言えない話。
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「いいか、たとえば、国民は、殺人を許さない。殺人は許されない。それが道徳だと、基本的には誰もが認識している。実際、法律でも殺人は裁かれる。ただ、例外がある。戦争と死刑だ。(中略)それは道徳的に正しいとか、正しくないとかを超えてんだよ。だろ?ようするに、国家が望めば、国家が生き長らえるためなら、殺人も合法となるんだよ。国民のためにそうなっているわけじゃない。全部、国家のためだ。(中略)いいか、もし、本当に国民が怒ったなら、国家に反旗を翻すだろう。国家はだから、国民に怒られない程度に、国民を守るような素振りを見せているだけだ。それもつまり、延命のために過ぎない。」
「物事の真相というのは、あとから構築される。真相としてもっとも受け入れられたものが、真相となる。」
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印象に残った文章を2つだけ取り上げてみたが、前者は「死刑制度」に関する破壊王子様の御意見と重なる部分を感じる。小泉純一郎元首相や伊坂幸太郎氏自身を思わせる人物が登場したり、過去の映画や小説から至言(「危険思想とは、常識を実行に移そうとする思想で在る。」―芥川龍之介氏の「侏儒の言葉」より。)が多く引用される等、伊坂氏が森羅万象に深い造詣を持っているのが垣間見られる。
伊坂氏に対しては「単なる人気作家の一人。」という思いしかなかった自分だが、この作品で「凄い才能を持った作家なのかも。」という思いに。それだけ味わい深い作品で、今年のミステリー・ベスト10で上位に選ばれた同氏の作品「ゴールデン・スランバー」よりも、個人的には遥かに読み応えが在った。総合評価は星4つ。
アニメ「元祖天才バカボン」に「ゴミだらけは美しいのだ」という回が在ります。「バカボンのママはロマンチックな小説を書く作家・花山カオルの大ファンで、『こんなに美しい文章を書く先生だから、容姿端麗な人に違いない。』と思い込む。しかし実際の花山は小汚いオヤジで、そのギャップに唖然としてしまう。」というストーリー。此処迄極端では無くても、書かれている内容からその書き手のイメージを勝手に作り上げてしまい、実物を見たらガッカリというケースは少なからず在りそう。名前から完全に男性と思い込んでいたのが、実は女性作家だったというケースも、自分の場合は在りました。
根が無精なので書き残す事は滅多に無いのですが、小説を読んでいて「この文章は良いな。」と思う事は多々在ります。何とか記憶するものの、暫くすると忘れてしまう。しかし時を経て、何かのきっかけでふっと思い出す。そんな繰り返しです。
「便利なインターネット」にはもちろん「落とし穴」があり、使う側も注意しなければならないと思います。
しかし、好きな書物や歴史、スポーツやアイドル等を調べ、同じようなファンやアンチ、当事者とも会話できるインターネットが「社会に於ける個人の喪失」とは、到底、理解できません。
もし、仮に私とgiants-55さんとの出会いや、意見交換も、「社会に於ける個人の喪失」なのでしょうか??
お互い、今まで生きてきた歴史や環境も違いますので、共感できる部分も、そうでない部分も多数あると思います。
しかし、表面的にでも、意見交換でき、自分とは違うものの見方に触れただけでも、「個人の喪失」というよりも、新たな「個人の構築」に役立っていると思います。
そうはいっても、インターネットも万全ではなく、功罪はあると思います。
しかし、使い方さえ間違わなければ、場所や時間、性別、人種等を超えてコミュニケーションできる、インターネットはよい道具だと思います。
(そして、いかに、インターネット技術が発達しても、それを利用する者は、生身の人間同士で、擬似でけではなく、リアルな関係があると思います)
誤解を招く表現になってしまい、申し訳在りません。ネタバレになってしまいますので詳しくは書けないのですが、「インタネットの普及=社会に於ける個人の喪失」という捉え方を伊坂氏がしている訳では無く、あくまでも“或る手段”としてインターネットが利用され、その“一結果”として「社会に於ける個人の喪失」という事を促進させてしまっているという内容。物事には全て「光」と「陰」の部分が在る物で、「光の部分だけを見ていては駄目。何でも鵜呑みせず、自身の頭で確認しなければいけない。」という様な“示唆”を、自分はこの作品から汲み取りました。
自分もインターネットの「功」を全否定する物では無く、その普及に感謝しています。昔ならば自分の考えを述べたとしても、マスメディアに乗らない限り、その考えは極めて狭い範囲にしか届かなかった。それが今や、こんな駄文ですら数百人の方が読んで下さるというのですから、本当に在り難い事です。