**************************************
江戸から明治に変わり10年。御家人の次男坊だった定九郎は、御一新によって全てを失い、根津遊廓の「美仙楼」に流れ着いた。立番(客引)として働くものの、仕事に身を入れず、決まった住処すら持たず、根無し草の様に漂うだけの日々。
************************************** 第144回(2010年下半期)の直木賞を受賞した「漂砂のうたう」(著者:木内昇さん)。「漂砂」とは「海岸付近に於いて、波の運動や潮流により移動する砂。」を意味する。江戸から明治へと移り変わる中で従来の価値観がガタガタと音を立てて崩れ去り、其れによって翻弄される人々を「大波の中、彼方此方へと移動させられる砂。」に喩えたタイトルだろう。 遊郭の描写を始めとして、江戸の風景や風俗がリアルに書き上げられている。恰も自分自身が、江戸の町に身を置いているかの様に感じさせる筆致は素晴らしい。又、「現」と「幻」が渾然一体となった様な世界観は、読者を幻想的な思いに浸らせてくれる事だろう。 従来の価値観が見事に崩れ去り、縁を失ってしまった者達。明治維新の世に在って、其の代表格は武士と言って良い。不平士族の窮状を知り、士族反乱の先頭に立たざるを得なかった西郷隆盛に付いても触れられているが、共に御家人の息子という立場だった定九郎(本名は信右衛門。)と其の兄・政右衛門の“今の姿”と併せて、時代に翻弄される人々の哀しみが胸に伝わって来る。
或る時、賭場への使いを言い付かった定九郎は、嘗て深川遊廓で共に妓夫台に座っていた吉次と再会する。吉次は美仙楼で最も人気の花魁・小野菊に執心している様子だった。時を同じくして、人気噺家・三遊亭圓朝の弟子で、此れ迄も根津界隈に出没して来たポン太が、何故か定九郎に纏わり付き始める。吉次の狙いは何なのか。ポン太の意図は何処に在るのか。そして、変わり行く時代の波に翻弄される許りだった定九郎は、何を選び取り、何処へ向かうのか。
「両賞併せて4人の受賞者が出るのは7年振り。」とか「余りにも対照的な受賞者だ。」等、昨年下半期の芥川賞及び直木賞受賞者発表の席は久し振りに賑わいを見せた。しかし芥川賞を受賞した「苦役列車」と「きことわ」、そして直木賞を受賞した「月と蟹」の3作品に関しては、正直ガッカリさせられる内容。其れだけに残る1作品の「漂砂のうたう」も余り期待していなかったのだが、“良い意味で”裏切られた。総合評価は星4つ。