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「『障害物競走』という名称は問題?」(5月30日、web R25)
5月26日、ネットニュース・サイト「ゴゴ通信」が、「運動会の『障害物競走』が『興味走』に変更! 『障害』の言葉狩りが影響?」という記事を公開し、ネット上で話題が広まっている。
記事では、「興味走」と書かれた運動会のプログラムを紹介。「興味走」とは、所謂「障害物競走」を指す物とし、複数の学校で「興味走」という名称を採用している事を報告している。
確かにツイッターには、数年前から、「昨日は、地元の小・中学校で運動会。部下が言っていたが、障害物競走って『興味走』って言うらしい。差別差別というが・・・気にしてる事自体が差別じゃないか?競馬の中山大障害も、其の内、中山大興味走になったりしてwww。」(2011年5月)、「無いよね、無いよね、興味走なんて!旦那も子供の頃には、こんな言い方して無かったと言ってたけど、本当に当たり前に書いてあるから吃驚したよ~!」(2012年5月)等、初めて目にして驚いたという声が投稿されているが、改めて同サイトが紹介した事により、話題は拡散。ツイッターには、「単純な言い換えで在れば無意味。」といった意見が多数見受けられる。
但し、同記事で公開されたプログラムの画像で確認出来る競技内容は「向日葵の種を撒きました。力を合わせて向日葵を咲かせ、仲良くゴールを目指します。」という物で、抑、此の興味走が「障害物」でも「競走」でも無い可能性は在る。
因みに、「興味走」以外にも呼び方が在る様で、ツイッターには、「家の子の学校じゃ、興味走じゃ無く、チャレンジ走って言ってるな。」、「家の子の中学校では『障害物リレー』が、『雨ニモ負ケズ』になってるんですけど。組体操は『以心伝心』だぜ。」、「家の学校は『障害物競走』→『運命走』だ。興味走よりは判り易いかwww。興味走は、初めて聞いたなwww。」、「家の地域では障害物競争は無いですが、『人生行路』という名のレースが在ります。ボールを転がしたり、袋に入って飛んだり、人生は唯進むだけが、こんなに厳しい・・・!って感じです。」等といった報告が挙がっている。
抑、興味走が障害物競走の言い換えで在るかは定かでは無く、記事でも此れが言葉狩りの結果で在るかは、飽く迄書き手の推測となっている点に注意が必要だ。然し、言葉の使い方に敏感で在ったり、以前の障害物競走に馴染みが在ったりするネット・ユーザーにとって、「興味走」は格好のトピックとなった様だ。
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問題のプログラムには興味走に付いて、「向日葵の種を撒きました。力を合わせて向日葵を咲かせ、仲良くゴールを目指します。」と説明されているという事で、此の内容を読む限りでは「興味走が、障害物競走という名称の置き換え。」とするのは無理が在る気がする。多分に“面白半分のネタ”の様に思うが、置き換えだとしたら「何だかなあ・・・。」という感じ。
全ての人間が納得する事なんて、まあ在り得ないだろう。名称に付いても同様で、何とも思わない人も居れば、不快に思う人が居てもおかしくは無い。一定以上の人が不快に感じるならば、其の名称を変える(置き換える)のは「在り。」だと思うけれど、極めて少数の人が「不快に感じる。」(乃至は「不快に感じるかもしれない。」)からという事だけで、無理無理な名称に変えるのは、言葉狩りと言われても仕方無いだろう。
「興味走」という名称も笑ったが、「人生行路」というのには大笑い。「じんせいこうろ」といったら、大好きだった芸人の1人で、「責任者出て来い!」の決め台詞で有名な人生幸朗師匠【動画】の顔が思い浮かんでしまうから。
【人生幸朗&生恵幸子師匠】
giants-55さんも書かれていますが、確かに>「向日葵の種を撒きました。力を合わせて向日葵を咲かせ、仲良くゴールを目指します。」
と運動会プログラムに書かれたものがありましたが、ますます分からない(笑)。
疑問1:ヒマワリの種を撒く事が「走る」競技になるんでしょうか。まさかグラウンドに畑をこしらえ、走りながらどちらが早く種を撒いてゴールに入ったかを競うって事でしょうか?観客はそれ見てて面白いんでしょうか?
どう考えても頭にイメージが湧かない(笑)。それに「仲良くゴール」だったら“競争”にならないでしょうが。
疑問2:そんな意味不明の競技に、なんで「興味走」なんて名前を付けたんでしょうか?この競技名から、どう頭を捻っても「ヒマワリの種を撒く」事が思い浮かびません。
小学校の運動会プログラムが現状どうなっているのか分かりませんが、「障害物競走」が無くなって来ているんでしょうか。ハシゴとかネットをくぐり、あるいはタイヤを引きずりながら走るこの競技は、見てて楽しいし、笑えるし、応援ボルテージは上がるし、危険なものでもないし、無くす必要はまったくありません。
それとも、「障害」という字が言葉狩りに会ったせいで、競技名だけ差し替えたという事でしょうか。
どちらにしてもバカバカしい事です。
最近、障碍者を示す単語がほとんど姿を消してしまいましたが、そういう過剰反応が、却って差別の助長に繋がってるという事に気が付かないんでしょうか。
つい2、30年前までは「めくらのお市物語」あるいは「唖(おし)侍 鬼一法眼」等の題名のコミックが映画やテレビドラマになってて、見る方も差別だなんて意識せず、ごく気軽に楽しんでいたはずなのですが、今ではこれら作品のタイトルは駆逐されてしまってて、前者はソフト化なし、後者は「唖侍」がカットされ、ただの「鬼一法眼」でようやくDVDになってる有様です。
それともっと呆れたのが、笠置シズ子さんのヒット曲「買い物ブギ」が、最近聞いたCDでは最後の、いくら呼んでもおっさんからの返事がない、オチの言葉「わしゃツ○ボで聞こえまへん」がカット編集されて「わしゃ聞こえまへん」になってた事。
これだと、このおっさんが意地悪人間になってしまい、曲の狙いがまったく変わってしまいます。…というか、昭和の文化遺産とでも言うべき名曲を改ざんするなんて、とんでもない暴挙です。このCDを作った音楽会社にはそれこそ「責任者出てこい!」と怒鳴りたくなります。
言葉は“文化”です。昔の映画や小説、歌にはそういう言葉がごく自然に使われていました。言葉を狩るという行為は、そうした文化・芸術を狩る行為に繋がる、文化破壊行為である、という事を、日本人みんなで考え直していただきたいものです。
興味走、説明を読んでも、具体的にどんな競技なのか良く判らないですよね。
今回の件がそうなのかどうかは判りませんが、くだらない言葉狩りには辟易としています。Kei様が書かれた事例もそうですが、他にも以前書いた「キチガイじゃが仕方が無い。」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/3ad7b35567bc18f559aed86fd48abe7a)の様に、文学的な良さをも毀損する様な言葉狩りにはウンザリ。
それでも「コース内にいろいろな仕掛けがしてあり、それを全部クリアしてゴールする競走のことを一般に障害物競走と呼ぶ」ということは私を含め他の子供たちも知っていたし、その言葉が差別語を含むと思ったことはありません。
こういった過剰な言葉狩りが、青少年に「タブー破りをしてみたい」という気持ちを抱かせ、やがて「過剰に保護(あくまで正当なサポートなのですが)されているマイノリティを潰したい」という悪しき方向に発展させてしまうこともあるのではないかと思います。差別発言をしている人の言い分を読んだり聞いたりすると、「タブー破り」がエスカレートするうちに本当の差別主義者と交わり、「差別ではなく正当防衛・正義の鉄槌」という感覚になってしまったんだなと推測できる場合が少なからずあるように見えます。
先日、市原悦子さんが「日本昔話でどの役がいちばん思い入れがあるか」という話になった時に、「やまんば。彼女たちは“片輪”であるとか“毛唐”であるということで世間からのけ者にされた人たち。反骨精神があって攻撃的だけど、心を許した相手にはどこまでも手を取り合っていくところが好き」という内容のことを話し、司会者が「不適切な発言がありましたことをお詫びします」と言ったことが問題になりました。市原さんは物語世界やその物語が生まれた時代背景を踏まえているからこそ、あえてその言葉を使ったのだと、私としては読み取っています。
現在も発刊されている昔の文豪の作品は、巻頭に「現在の観点では差別的な表現が含まれますが、発表時の時代背景を考慮し、また、作品世界の雰囲気を損なわないために敢えてそのままの表記といたしました」と書いてあります。杓子定規に封印するよりも、そういう姿勢の方がずっと良い。もちろん、発言者自身がそれを明言するか、司会者等がフォローするといった配慮は必要だと思います。市原さんの場合は「物語の時代背景と世界観を踏まえての敢えての言葉づかい」であることは明々白々ですが、人や話し方によっては「タブー破り」気取りの人と間違えられそうなこともあると思うので。
「関所破り」というのは、洒落たネーミングですね。こういうセンスの在る置き換えは好きですが、「差別と非難される可能性は全て排除する。」という事からの無理無理な置き換えは、凄く残念です。
「差別発言をしている人の言い分を~」というのは、全く同感。馬鹿の一つ覚えの様に「在日認定」をする輩がネット上に散見されますが、彼等の多くは、最初はふざけ半分に騒いでたものの、書き込みを続けて行く中で、そういう行為が「本当の正義」だと思い違い(盲信)してしまった様に感じたりもします。
“タブー破り”に陶酔してしまっている様な人は嫌だけど、其の人の言動を確り把握していれば、“差別の思いからの言動”なのか否かは判断出来ると思うんです。市原さんの件は実際に番組を見ていないのですが、報道内容を読む限りでは、そして何よりも彼女の人間性から判断すると、差別の思いからの発言”とは、自分も感じませんでした。