*********************************
「袴田事件48年後の釈放 再審決定即・・・最初は信じず『嘘だ。』」(3月28日、スポニチ)
1966年6月に静岡県清水市(現静岡市清水区)で、一家4人を殺害したとして、1980年に死刑が確定した元プロボクサー袴田巌死刑囚(78歳)の第2次再審請求審で静岡地裁は27日、裁判の遣り直しを決定、死刑の執行を停止し、釈放を認めた。
袴田さんは、東京拘置所から釈放された。再審開始決定が出た事で、死刑囚の拘置が停止され、釈放されたのは初めて。午後5時20分頃、迎えの車に乗り込んだ。半世紀近く前の写真に比べ、ふっくらとした顔付き。右前方に一瞬視線を投げ掛けた後、ゆっくりだが、確かな足取りだった。
此れに先立ち、面会に訪れた姉の秀子さん(81歳)からアクリル板越しに決定文を見せられると、「そんなのは嘘だ。もう、帰ってくれ。」と言い、中々信じ様とはしなかった。其の後、弁護団によると、釈放に付いて「有難う。」と答えた。
審理で村山浩昭裁判長は、犯人が事件時に着ていたとされる「5点の衣類」に付いた血液のDNA型が袴田さんとは一致しないとする鑑定結果を認定。捜査機関が証拠を捏造した疑いが在るとし、無罪の可能性を指摘した。
*********************************
袴田氏が獄に繋がれていたのは約48年間という事で、自分(giants-55)が此の世の中に生を享けてから今に到る迄と大差無い期間だ。「人生50年」と言われた時代に在っては、「生まれてから死ぬ迄ずっと、自由を奪われた儘。」という感じ。78歳の袴田氏の場合、半生の約3分の2を獄に繋がれていたのだから、其の辛さは筆舌に尽くし難い事だろう。
平和を享受している人々が居る一方で、世界には戦争の最中に置かれている人々も居る。当事者で無ければ、“別の現実”が存在する事を、中々リアルに感じ取れないもの。(自分も例外では無いけれど)平凡な日常を過ごす中、「死刑執行の恐怖を抱え乍ら、約48年間も無罪を訴え続けていた人が居る。」という現実を、リアルに感じ取れていた人は、恐らく当事者達だけではないだろうか。
「死刑制度」に関しては、様々な意見が在る。人の生き死にに関する重い事柄なので、反対とする意見が在るのも理解出来るのだけれど、当ブログで何度も書いている様に、自分は「死刑制度を維持すべき。」という立場だ。「世界の潮流は死刑廃止に向かっているのだから、日本も廃止すべきだ。」という意見も在るが、「世界の潮流が全て正しいという訳では無いだろうし、何でも彼んでもグローバル・スタンダードに合わせなければいけないという事では無い。」という思いも。
唯、「死刑制度は維持すべき。」とは思っているけれど、同時に「冤罪は、絶対に生み出してはいけない。」とも思っている。「取り調べの可視化を進める。」等、冤罪が生み出される可能性を絶つ方策を、積極的に構築して行く必要性が在る。
「無罪が確定した場合、袴田氏に支払われる補償金は、2億円近くになるのではないか。」という話が在る。莫大な金額では在るが、約48年間も自由を奪われ続けた事への代償としては、決して高過ぎるとは思わない。自分が袴田氏の立場だったら、「失った時間を返して欲しい。」と心から思うので。
自白の強要、証拠のデッチ上げ等、警察、検察の悪質さを正面から描き、袴田さんの無罪を訴えた力作です。
これ以前からも、証拠の捏造や取調べの杜撰さに基づき、何年も前から袴田さんは明らかに無罪であると弁護士や支援団体が請求していたにもかかわらず、今回の再審請求まで、途方もない時間がかかっているのにはやり切れない思いです。また、検察の出方次第では、無実が確定するまでにはまだまだ時間がかかるでしょう。
それにしても、日本は冤罪事件が多すぎると思いませんか。
最近でも足利事件やら、少し前では松本サリン事件の河野さんやら、今もPC遠隔操作の片山さんも冤罪らしいと言われてます。
映画でも、八海事件を扱った今井正監督「真昼の暗黒」、山本薩夫監督「松川事件」、松本サリン事件の熊井啓監督「日本の黒い夏」、痴漢冤罪がテーマの周防正行監督「それでもボクはやってない」、今回の「袴田事件」、仲代達矢が奥西被告役を演じた「約束 名張毒ぶどう酒事件 死刑囚の生涯」等々、多くの冤罪を扱った作品が作られていますが、こんなに冤罪テーマの映画が多い国は世界的に見てもあまり例がありません。いかに日本に冤罪が多いかの証明でもあると思います。
日本の有罪判決率は99.5%だそうです。これも異常です。つまりは検察の判断を裁判所がほとんど疑義を抱かずパスしてるという事かも知れません。
怖いのは、今回の例を見ても、警察が意図的に証拠をデッチ上げ、検察は自分に不利な証拠は隠し、裁判所は常識的におかしな調書であっても検察に有利な判決を出す、という構図が見て取れる事で、これでは、いくらでも無実の人間を死刑にする事が出来ます。
映画「真昼の暗黒」では最後に主人公が「まだ最高裁があるんだ!」と絶叫する所で終わっています。
ところが袴田さんは最高裁でも死刑が確定してしまいました。そして、既に死刑が執行された人の中にも、再審請求が出されているものもあるそうです。おそらくはこれまで死刑が執行された中にも冤罪の人がいるのかも知れません。
そう考えると、このようないいかげんな警察、検察、裁判官の実態があり、日本の司法制度そのものが信用出来ない現状では、私は死刑制度そのものも見直さざるを得ないのではないかと思います。
裁判とは、人が人を裁く事ですが、人間はかならず過ちを犯します。そんな危うい人間が、人を死刑に追いやるのは不遜ではないかと思います。
警察が、絶対にデッチ上げや捏造が出来ないシステムが確立し、かつ裁判官が基本的に検察側を疑うというスタンスで望み、冤罪が皆無になる、という状況にならない限り、死刑制度は見直すべきではないでしょうか。
「百人の罪人を放免するとも一人の無辜の民を刑するなかれ」この有名な推定無罪の原則を、裁判官はじっくり噛み締めていただいきたいものです。
「冤罪になった人達は概して、普段からの素行が余りにも酷かった故、そういう事になったのではないか。真っ当な生活を送っていれば、冤罪になるなんて事は無い。冤罪なんて他人事。」、そういう思いを持っている人は結構居ると思うし、自分も昔はそんな思いを持っていました。
しかし、Kei様が挙げられている件、そして他にも村木厚子さんの一件(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%91%E6%9C%A8%E5%8E%9A%E5%AD%90#.E5.87.9B.E3.81.AE.E4.BC.9A.E4.BA.8B.E4.BB.B6)等、冤罪が決して他人事では無い事を知り、自分の中で考えが大きく変わった。
其れでも「冤罪なんて他人事。」と思っている人は、「電車内で痴漢行為を働いたとでっち上げられた事件」が幾つか在る事を知っても、未だ同じ事を言えるのだろうか?
「有罪判決率の異常な高さ」は、イコール「日本がこんなにも安全な国で在る。」という証左として“用いられて来た”歴史が在ると思うのです。其の為にも「是が非でも有罪にしなければならない。」という思いが捜査機関側に余りにも強くなってしまい、延いては証拠の捏造が行われてしまう結果にも。
******************
「『袴田事件』 一審死刑判決、今も悔やむ『謝りたい。』と元裁判官」(3月27日、共同通信)
静岡地裁の元裁判官、熊本典道さん(76歳)は、袴田巌死刑囚(78歳)を死刑とする判決文を書いた事を、今も悔やんでいる。「こんな証拠で死刑にするのは無茶。」と訴えたが、先輩の裁判官2人を説得出来なかった。「袴田君に謝りたい。申し訳無かった。」。其の目は止め処無い涙で溢れる。判決から46年、此の思いが晴れた事は無い。
一審を担当した3人の裁判官で最も若かった熊本さんは、公判の途中から裁判に加わった。審理が進めば進む程、自白や証拠への疑問が湧き上がった。しかし、有罪の心証を持っていた先輩裁判官2人と多数決になり、死刑判決を書く事を命じられた。書き掛けていた無罪の判決文を破り捨てたと言う。
死刑判決の付言で「長時間に亘り被告人を取り調べ、自白の獲得に汲々とし、物的証拠の捜査を怠った。」と捜査批判を繰り広げたのは、控訴審で捜査のおかしさに気付いて貰い、判決を破棄して欲しかったから。だが、控訴審や上告審、第1次請求審で、死刑判決が覆る事は無かった。
「心にも無い判決を書いた。」と良心の呵責に耐え切れず、判決の翌年に裁判官を辞めた。弁護士になったものの、法廷で「私は遣っていません。」と訴えた袴田死刑囚の眼差しが忘れられない。酒浸りの生活を送り、一時期は自殺を考えた事も在った。弁護士も辞めてしまった。
第1次再審請求の特別抗告審が大詰めを迎えた2007年に、無罪の心証を持っていた事を初めて明らかにした。「勇気在る告白。」と称賛する声も多く寄せられたが、自分の中では「もっと早く言わないといけなかった。」との思いの方が強かった。最高裁は特別抗告を棄却し、告白は実を結ばなかった。
「袴田君の気持ちを少しでも理解したい。」。東京拘置所で1984年にキリスト教の洗礼を受けた袴田死刑囚の心に近付こうと、自身も今年2月22日、カトリックの洗礼を受けた。
脳梗塞で足や言葉が不自由となっている為、神父に福岡市の自宅に来て貰った。聖水を頭に掛けられると、感激の余り、嗚咽が漏れた。「袴田さんの心に近付けましたか?」と問われると、すっきりした表情で深く頷いた。
袴田死刑囚の第2次再審請求で、静岡地裁は27日に再審可否の判断を示す。「再審は開始されるのか?」と問い掛けると、熊本さんは即座に「開始は考えられない。」と言い切った。「司法は彼の時と、何も変わっていないから。」。
******************
袴田事件は袴田氏や其の親族だけでは無く、関係した人達の人生も大きく変えてしまったという事を、此の記事からも痛感しました。
記事でも記しました様に、今でも自分は「死刑制度は維持すべき。」と思っていますが、其の大前提として「冤罪を生み兼ねない環境は、悉く改善されなければいけない。」というのが在ります。第二の袴田氏を生み出しては、絶対にいけない。
飽く迄も此れは私見ですが、「真に死刑に値する残酷な犯行を為した者は、死刑執行に怯える日々を送っても、何等同情の余地が無い。」と思っています。人を殺めるという行為は其れだけ罪深い物で在り、其れを償うには、同様に自らの命を奪われるという事でしか、“基本的には”在り得ないと考えているからです。(「基本的には」と記したのは、犯人に情状酌量の余地が在る場合、又は悔悛の情が顕著な場合という“例外”も在るので。)
しかし、「犯人と見做すのに、少しでも疑義が在る場合。」は有罪としてはいけないし、況や証拠の捏造や拷問による自白強要なんていうのは論外。
仰る様に「他者に厳しく、身内には甘い。」という雰囲気が警察内部に在るのは問題。(政界やマスメディアにも、そういった雰囲気は在りますが。)捜査は適正且つ公平に行い、有罪を生み出さない環境作りを進めていかないと、第二の袴田氏が生み出されてしまう事でしょう。
人間は自分のミスは隠そうとします。身内の不始末は庇おうとします。属する組織の不都合は見て見ぬ振りをします。全ては自分に不利益として返ってくるからです。
これは地位や立場に関係なく、もうほとんど本能のようなものです。前都知事や「みんなの党」の代表者を引き合いに出すまでも無いでしょう。
本能を押さえ理性で物事を見ようとする人は稀で、そういう人ほど苦しむことになるのは、原審1審の裁判官だった熊本さんの例でも分かるとおりです。
もちろん実際の犯罪者は罰を逃れるため、当然必死に嘘をつくでしょうから、取調べを全面的に開示するようにしても、自白を起訴の柱にするような内容では冤罪は無くならないでしょう。互いにより巧妙になるだけだと思います。
衆人環視の中で殺人を行い現行犯逮捕された凶悪犯だと分かりやすいですが、警察や検察のミス(怠慢?)で取り逃がした真犯人とでは何が違うのでしょうか。
片や憎しみの対象となり死刑に処せられ、片や今もそ知らぬ顔でのうのうとしているとしたら・・・。どちらも遺族の立場からすれば憎んでも憎みきれない相手のはずなのに。
一度冤罪で憎まれれば、たとえ冤罪と分かっても遺族は憎しみの対象から外すことは難しいでしょうね。
「一度冤罪で憎まれれば、仮令冤罪と判っても、遺族は憎しみの対象から外す事は難しいでしょうね。」というのは、其の通りでしょうね。殺人事件で身内を失った側とすれば、何れだけ重い罰が犯人に下されたとしても、失った身内が戻って来る訳では無く、喪失感は決して無くなる事は無いでしょう。身内と同じく、命が奪われる事で、哀しみや憎しみを減じさせたいと御遺族が思ったとしても、自分は其の気持ちが凄く判ります。なのに、憎むべき対象が全く無関係な人間だと判っても、今更真犯人を憎むという切り替えは出来ないだろうし・・・。