本日の記事はかなりの長文となってしまい、1記事の字数規定(1万文字)を超過してしまった(^o^;;;。字数削除も躊躇われたので、ブログを開始して初めて、記事を二つに分けるという上田馬之助氏ばりの荒技になってしまった事を御許し願いたい。
さて、康芳夫(こうよしお)氏を御存知だろうか?恐らく、多くの人は「誰それ?」と思うのではなかろうか。自分もそうだった。でも、一定年齢の人にとっては次の事柄に、何とも言えない懐かしさと心の疼きを覚えるのではないだろうか?
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・ アラビア大魔法団来日。
・ 「家畜人ヤプー」出版。
・ インディ500を日本で初開催。
・ モハメッド・アリ対アントニオ猪木戦。
・ ネッシー捕獲探検隊結成。
・ 謎の類人猿オリバー君来日。
・ アントニオ猪木対”人肉食い”アミン大統領(ウガンダ)戦計画。
・ 「三浦和義のアナーキー人生相談」。
・ ノアの箱舟探索プロジェクト。等々
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リアルタイムでこれ等の事柄を見聞した人でなくても、字面から漂う何とも言えない胡散臭さを感じられるのではないだろうか。これ等をプロデュース&プロモートした男が、自称”虚業家”で”国際暗黒プロデューサー”の康氏。その彼の自伝が「虚人魁人 康芳夫」である。(表紙の康氏のいでたちが、何とも言えない胡散臭さを醸し出していて笑える。)
1937年に東京西神田で、駐日中国大使侍医の中国人父と日本人母の次男として誕生した康氏。生活面では裕福な状態に在った様だが、日中戦争拡大に伴い、中国人である彼はかなりの差別的待遇を受けたという。「暁星小・中学校→海城高校」といわばエリートの道を進む彼だったが、父親の病院に置いてあった当時は貴重品のペニシリンを黙って持ち出し、闇市で売り捌いたり、同じ学校の生徒からかつあげをする等し、歌舞伎町に女性を買いに行くの日課だったという。連日の様に喧嘩を繰り返していたともいうのだから、札付きの悪と言っても良いだろう。
そんな彼だが、後にプロデューサーとして名を成す片鱗を高校時代に示している。文芸部を設立し、編集長を務める事になった彼が発行した同人誌。高校生が出した名も無き雑誌が、一躍世間の脚光を浴びる事になったのは、当時、既に大作家だった武者小路実篤氏から原稿を貰い掲載した事からだった。一介の高校生に過ぎない康氏。武者小路氏とは一面識も無いどころか、紹介してくれる人間すらも居よう筈が無い。元来物怖じしない性格で、どんな有名人でも偉い人間でも、対等の視線で話が出来たという彼が採った行動は、武者小路氏の自宅に”ノーアポ”で押し掛け、直接依頼するという事だった。或る意味、無礼な直談判にも拘らず、武者小路氏は気軽に原稿を書いてくれたという。原稿は1頁に過ぎなかったというものの、大家の作品をノーギャラで、それも名うての不良高校生が編集長を務める無名同人誌への掲載という事で、大変な話題になったそうだ。
東大に進んで以降も彼の破天荒ぶりは止まる事が無かった。ビートルズ旋風が吹き荒れる以前の時代故、東大に限らず大学構内を闊歩する男子学生のスタイルは黒に金ボタンの詰襟に角帽姿、眼鏡をする者は黒縁眼鏡というのが定番だった。そんな中、康氏はロン毛に赤いチャイナドレスを身に着けて通学していたというのだから、さぞかし奇異な存在で在ったろう事は容易に想像が付く。保守的な先輩諸氏からは幾度と無く難癖を付けられたというが、このファッション自体も、他者を幻惑させるはったりだったと彼は述べている。
「こつこつ働いて生きるのは性に合わない。人間、働く為に生きているのではなく、楽しく有意義に生きる為に働くのだ。」と考える彼は、汗水垂らして地道に金儲けをする事も肌合いが合わないとしている。
そんな彼だからこそ、東大時代も様々な”利権”に目を付ける。「東大新聞」が発行する卒業生名簿の広告収入を東大新聞が独占しているのはおかしいと、「卒業生名簿委員会」なる上部団体をでっち上げ、其処に売り上げの一部を献上させた。その額は今の物価に換算すると500~600万円に当該するのだとか。康氏本人語る所では、「『独占は許されない。』等詭弁も良い所で、単に頭を使って利権を巻き上げただけだった。」と。
又、この成功に味をしめた彼は、次に「学内問題粛正委員会」なる団体をでっち上げ、用心棒代わりの空手部員を引き連れて「東大出版部」等のサークルを廻り、「学生が民間企業と同じ様な事業をしてはいけない。学生に還元すべきだ。」とか、「君達の会の経理状況に不正な問題が在ったと密告を受けた。事の次第によっては立ち入り検査をする。」等と脅し、強引に幾ばくかの寄付をさせたのだとか。その多くを、康氏がマージンとして懐に入れたのは言う迄もない。彼自身も、暴力団と変わらない恐喝行為だったと述懐している。
その他にも、ダンスパーティーの入場券を「学内問題粛正委員会委員長」の立場をちらつかせて一手に仕切る等、何やかんやで今の金額に直すと年間数千万円以上の”収入”を得ていたという。何やら何処ぞのIT企業社長とオーバーラップする部分が多い様に感じるのは気のせいだろうか(笑)。
さて、康芳夫(こうよしお)氏を御存知だろうか?恐らく、多くの人は「誰それ?」と思うのではなかろうか。自分もそうだった。でも、一定年齢の人にとっては次の事柄に、何とも言えない懐かしさと心の疼きを覚えるのではないだろうか?
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・ アラビア大魔法団来日。
・ 「家畜人ヤプー」出版。
・ インディ500を日本で初開催。
・ モハメッド・アリ対アントニオ猪木戦。
・ ネッシー捕獲探検隊結成。
・ 謎の類人猿オリバー君来日。
・ アントニオ猪木対”人肉食い”アミン大統領(ウガンダ)戦計画。
・ 「三浦和義のアナーキー人生相談」。
・ ノアの箱舟探索プロジェクト。等々
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リアルタイムでこれ等の事柄を見聞した人でなくても、字面から漂う何とも言えない胡散臭さを感じられるのではないだろうか。これ等をプロデュース&プロモートした男が、自称”虚業家”で”国際暗黒プロデューサー”の康氏。その彼の自伝が「虚人魁人 康芳夫」である。(表紙の康氏のいでたちが、何とも言えない胡散臭さを醸し出していて笑える。)
1937年に東京西神田で、駐日中国大使侍医の中国人父と日本人母の次男として誕生した康氏。生活面では裕福な状態に在った様だが、日中戦争拡大に伴い、中国人である彼はかなりの差別的待遇を受けたという。「暁星小・中学校→海城高校」といわばエリートの道を進む彼だったが、父親の病院に置いてあった当時は貴重品のペニシリンを黙って持ち出し、闇市で売り捌いたり、同じ学校の生徒からかつあげをする等し、歌舞伎町に女性を買いに行くの日課だったという。連日の様に喧嘩を繰り返していたともいうのだから、札付きの悪と言っても良いだろう。
そんな彼だが、後にプロデューサーとして名を成す片鱗を高校時代に示している。文芸部を設立し、編集長を務める事になった彼が発行した同人誌。高校生が出した名も無き雑誌が、一躍世間の脚光を浴びる事になったのは、当時、既に大作家だった武者小路実篤氏から原稿を貰い掲載した事からだった。一介の高校生に過ぎない康氏。武者小路氏とは一面識も無いどころか、紹介してくれる人間すらも居よう筈が無い。元来物怖じしない性格で、どんな有名人でも偉い人間でも、対等の視線で話が出来たという彼が採った行動は、武者小路氏の自宅に”ノーアポ”で押し掛け、直接依頼するという事だった。或る意味、無礼な直談判にも拘らず、武者小路氏は気軽に原稿を書いてくれたという。原稿は1頁に過ぎなかったというものの、大家の作品をノーギャラで、それも名うての不良高校生が編集長を務める無名同人誌への掲載という事で、大変な話題になったそうだ。
東大に進んで以降も彼の破天荒ぶりは止まる事が無かった。ビートルズ旋風が吹き荒れる以前の時代故、東大に限らず大学構内を闊歩する男子学生のスタイルは黒に金ボタンの詰襟に角帽姿、眼鏡をする者は黒縁眼鏡というのが定番だった。そんな中、康氏はロン毛に赤いチャイナドレスを身に着けて通学していたというのだから、さぞかし奇異な存在で在ったろう事は容易に想像が付く。保守的な先輩諸氏からは幾度と無く難癖を付けられたというが、このファッション自体も、他者を幻惑させるはったりだったと彼は述べている。
「こつこつ働いて生きるのは性に合わない。人間、働く為に生きているのではなく、楽しく有意義に生きる為に働くのだ。」と考える彼は、汗水垂らして地道に金儲けをする事も肌合いが合わないとしている。
そんな彼だからこそ、東大時代も様々な”利権”に目を付ける。「東大新聞」が発行する卒業生名簿の広告収入を東大新聞が独占しているのはおかしいと、「卒業生名簿委員会」なる上部団体をでっち上げ、其処に売り上げの一部を献上させた。その額は今の物価に換算すると500~600万円に当該するのだとか。康氏本人語る所では、「『独占は許されない。』等詭弁も良い所で、単に頭を使って利権を巻き上げただけだった。」と。
又、この成功に味をしめた彼は、次に「学内問題粛正委員会」なる団体をでっち上げ、用心棒代わりの空手部員を引き連れて「東大出版部」等のサークルを廻り、「学生が民間企業と同じ様な事業をしてはいけない。学生に還元すべきだ。」とか、「君達の会の経理状況に不正な問題が在ったと密告を受けた。事の次第によっては立ち入り検査をする。」等と脅し、強引に幾ばくかの寄付をさせたのだとか。その多くを、康氏がマージンとして懐に入れたのは言う迄もない。彼自身も、暴力団と変わらない恐喝行為だったと述懐している。
その他にも、ダンスパーティーの入場券を「学内問題粛正委員会委員長」の立場をちらつかせて一手に仕切る等、何やかんやで今の金額に直すと年間数千万円以上の”収入”を得ていたという。何やら何処ぞのIT企業社長とオーバーラップする部分が多い様に感じるのは気のせいだろうか(笑)。