我が国にプロ野球チームが発足して、今年で73年目を迎える。ここ数年人気低落が喧しく指摘されるプロ野球だが、その知名度や人気は未だ未だ他のスポーツを凌駕しており、国技の座に在ると言っても良いだろう。プロ野球の存在を其処迄押し上げたのは、球界に在籍した数多の先人達在っての事だが、その中で外国人選手達が果たして来た役割は決して小さくなかったと思う。
日本プロ野球界初の外国人選手は1934年に大日本東京野球倶楽部、後の東京巨人軍に入団したヴィクトル・スタルヒン投手とされている。それ以降、数多の外国人選手が海を越えてやって来た。レロン・リー&レオン・リーの兄弟選手、ブーマー・ウェルズ選手、ウォーレン・クロマティ選手、ラルフ・ブライアント選手、ランディ・バース選手、郭泰源投手等々、自分がリアル・タイムで見て来た中での凄い外国人選手の名前は幾つも頭に浮かぶ。しかし昨年の競馬界の話題を独占した最強馬の名前ではないが、”とてつもない衝撃”を与えた外国人選手と問われれば、自分は断然”赤鬼”ボブ・ホーナー選手の名前を挙げるだろう。
野茂英雄投手やイチロー選手、松井秀喜選手等の活躍により、日本人選手でもメジャー・リーガー達と充分互角以上に闘えるというのは今や不思議な事では無くなったが、ホーナー選手が来日してスワローズと入団契約を結んだ1987年当時は、日本人選手がメジャーに挑むなぞは正に夢物語。そんな時代にバリバリのメジャー・リーガーが日本プロ野球界にやって来たのだから、これは球界にとって”黒船来航”とも言える大事件だった。
来日初試合だった対タイガース戦では、二番手投手の仲田幸司投手からライト・ポール際へのホームランを放つ。それ迄にも”弾丸ライナー”と表現される打球は何度も目にして来たが、その数倍のスピード感&迫力を感じさせる、それこそ”ピンポン球”の様にあっという間にライト・スタンドに突き刺さる打球に唖然とさせられた。そして翌日の試合では、タイガース先発の池田親興投手から2本、2番手の中田良弘投手から1本と、ホームラン3連発を叩き込む。この時はパワーの余りの違いに、戦慄が走る思いだった。
故障の為に規定打席には到達しなかったものの、彼はこの年に「打率3割2分7厘、31本塁打、73打点」の記録を残す。”ホーナー旋風”を巻き起こした彼だったが、この年を限りに日本プロ野球界から去る事となる。「地球の裏側に来て、ベースボールとは違うものをやらされた。」という有名な言葉を残して。
「週刊現代(1月6&13日合併号)」の「あの人はいま」という特集では、”三越の女帝”と呼ばれた竹久みち女史や”ヨコベン”こと横山昭二元弁護士、青木盛久元駐ペルー特命全権大使、「日本航空123便墜落事故」で救出された吉崎博子さん親子等に混じって、ボブ・ホーナー氏の近況が記されていた。
冒頭では1987年に彼と対戦したカープの達川光男氏の証言が載っているが、当時のホーナー選手の恐ろしさを改めて感じさせる内容となっている。
「今迄に来日した外国人選手の中でも、ありゃあ別格じゃったのう。僕が対戦したのは、来日直後のタイガース戦で3試合連続ホームランを打った後じゃったが、ピッチャーに『用心してインコースから行こうや。』と身体に当たりそうなボール球を投げさせたら、腕を器用に畳んで、あっさりホームランを打ちよった。あれは本当に衝撃的だったな。顔が赤かったんで”赤鬼”なんて呼ばれてな。」
1年で日本球界を去ったホーナー選手は、その翌年の1988年にセントルイス・カージナルスに移籍するも、左肩の故障が癒えずこの年限りで現役を引退する。その後、家族を連れてテキサス州アービングに移住し、石油とガスのベンチャー企業を立ち上げるも倒産の憂き目に遭い、以降は引退生活に入っていたそうだ。
そんな彼にビッグ・プレゼントがもたらされたのは2004年の事。そもそもホーナー選手が日本球界に来る事となったのは、(来日した)前年の1986年オフにメジャーでFA宣言したものの、年俸高騰を危惧した各チームのオーナー達が連携を組んで彼をメジャーから締め出した為だったという。FA選手締め出しを不当とする裁判をメジャー選手会が起こしていたのだが、選手会側の全面勝訴となった為、2004年に賠償金の一部として700万ドル(約7億7千万円)がホーナー氏に支払われたのだ。
今は悠々自適なリタイア生活を送っているホーナー氏。そんな彼に昨春、新たな名誉が授けられたという。今年から制定されたカレッジ・ベースボール界の初代殿堂入りメンバーの一人に選出されたのだ。大学時代からスーパー・スターだった彼。
因みに1977年、アリゾナ州立大学の学生だったホーナー氏は日本の大学野球との親善試合の為に来日したが、その際に対戦した東海大学には、現在ジャイアンツの原辰徳監督が選手として在籍していたという。
日本プロ野球界初の外国人選手は1934年に大日本東京野球倶楽部、後の東京巨人軍に入団したヴィクトル・スタルヒン投手とされている。それ以降、数多の外国人選手が海を越えてやって来た。レロン・リー&レオン・リーの兄弟選手、ブーマー・ウェルズ選手、ウォーレン・クロマティ選手、ラルフ・ブライアント選手、ランディ・バース選手、郭泰源投手等々、自分がリアル・タイムで見て来た中での凄い外国人選手の名前は幾つも頭に浮かぶ。しかし昨年の競馬界の話題を独占した最強馬の名前ではないが、”とてつもない衝撃”を与えた外国人選手と問われれば、自分は断然”赤鬼”ボブ・ホーナー選手の名前を挙げるだろう。
野茂英雄投手やイチロー選手、松井秀喜選手等の活躍により、日本人選手でもメジャー・リーガー達と充分互角以上に闘えるというのは今や不思議な事では無くなったが、ホーナー選手が来日してスワローズと入団契約を結んだ1987年当時は、日本人選手がメジャーに挑むなぞは正に夢物語。そんな時代にバリバリのメジャー・リーガーが日本プロ野球界にやって来たのだから、これは球界にとって”黒船来航”とも言える大事件だった。
来日初試合だった対タイガース戦では、二番手投手の仲田幸司投手からライト・ポール際へのホームランを放つ。それ迄にも”弾丸ライナー”と表現される打球は何度も目にして来たが、その数倍のスピード感&迫力を感じさせる、それこそ”ピンポン球”の様にあっという間にライト・スタンドに突き刺さる打球に唖然とさせられた。そして翌日の試合では、タイガース先発の池田親興投手から2本、2番手の中田良弘投手から1本と、ホームラン3連発を叩き込む。この時はパワーの余りの違いに、戦慄が走る思いだった。
故障の為に規定打席には到達しなかったものの、彼はこの年に「打率3割2分7厘、31本塁打、73打点」の記録を残す。”ホーナー旋風”を巻き起こした彼だったが、この年を限りに日本プロ野球界から去る事となる。「地球の裏側に来て、ベースボールとは違うものをやらされた。」という有名な言葉を残して。
「週刊現代(1月6&13日合併号)」の「あの人はいま」という特集では、”三越の女帝”と呼ばれた竹久みち女史や”ヨコベン”こと横山昭二元弁護士、青木盛久元駐ペルー特命全権大使、「日本航空123便墜落事故」で救出された吉崎博子さん親子等に混じって、ボブ・ホーナー氏の近況が記されていた。
冒頭では1987年に彼と対戦したカープの達川光男氏の証言が載っているが、当時のホーナー選手の恐ろしさを改めて感じさせる内容となっている。
「今迄に来日した外国人選手の中でも、ありゃあ別格じゃったのう。僕が対戦したのは、来日直後のタイガース戦で3試合連続ホームランを打った後じゃったが、ピッチャーに『用心してインコースから行こうや。』と身体に当たりそうなボール球を投げさせたら、腕を器用に畳んで、あっさりホームランを打ちよった。あれは本当に衝撃的だったな。顔が赤かったんで”赤鬼”なんて呼ばれてな。」
1年で日本球界を去ったホーナー選手は、その翌年の1988年にセントルイス・カージナルスに移籍するも、左肩の故障が癒えずこの年限りで現役を引退する。その後、家族を連れてテキサス州アービングに移住し、石油とガスのベンチャー企業を立ち上げるも倒産の憂き目に遭い、以降は引退生活に入っていたそうだ。
そんな彼にビッグ・プレゼントがもたらされたのは2004年の事。そもそもホーナー選手が日本球界に来る事となったのは、(来日した)前年の1986年オフにメジャーでFA宣言したものの、年俸高騰を危惧した各チームのオーナー達が連携を組んで彼をメジャーから締め出した為だったという。FA選手締め出しを不当とする裁判をメジャー選手会が起こしていたのだが、選手会側の全面勝訴となった為、2004年に賠償金の一部として700万ドル(約7億7千万円)がホーナー氏に支払われたのだ。
今は悠々自適なリタイア生活を送っているホーナー氏。そんな彼に昨春、新たな名誉が授けられたという。今年から制定されたカレッジ・ベースボール界の初代殿堂入りメンバーの一人に選出されたのだ。大学時代からスーパー・スターだった彼。
因みに1977年、アリゾナ州立大学の学生だったホーナー氏は日本の大学野球との親善試合の為に来日したが、その際に対戦した東海大学には、現在ジャイアンツの原辰徳監督が選手として在籍していたという。
北海道で高校を卒業しているはずですから、今なら日本人ワクでしょう。
彼の記述が何かに書いてあると「スタルヒン(トンボ)」と最終球暦が書いてあることが多く、1年しかなかった球団名がPRされるのが印象的です。
>ホーナー
オーナー連中から締出しを食っていたんですね。
そういう事情でないと、日本へ来るような選手で無いですわね。
ホンマもんのバリバリメジャーリーガーでした。
スタルヒンは終生無国籍でした。で、今北海道には二重国籍のダルビッシュが居たりするんですよね。(ダースもそうでしたっけ?)
ホーナーといえば、そもそもマイナー経験なしでメジャーデビューしたほどの選手。打たれたマイク仲田の姿が印象的でしたねえ。
「そんなアホーナー!!」って走りながら俺達ひょうきん族で誰かが物真似してました。
そういえば湾岸戦争でホーナー中将って現地に派遣された空軍部隊の司令官がいました。親戚かな?なんて若い頃の僕は勝手に思ってましたね。