2月11日に亡くなられた野村克也氏の葬儀の様子を、義理の息子(野村氏の妻の連れ子)で在る団野村氏が自身のツイッターで紹介しているのだが、其の中に「棺の中に納められた“ノムさん”」と「スワローズのユニホームを着て眠るノムさんの全身」の写真が載っており、賛否両論出ている様だ。「ノムさんの安らかな顔が見られて良かった。」という感謝の声が在る一方、「幾ら身内とはいえ、御遺体を晒すなんて不謹慎。」という批判の声も。
ダルビッシュ有氏は自身のツイッターで、「本人が良いって言ってたなら判るけど、そうで無いなら駄目でしょう。 賛否の賛の意味が判らない。」と苦言を呈したそうだが、自分も全く同感。去年11月の記事「故人をCG復元」、そして今月の記事「興味は在るけれど、“別物”は“別物”」の中でも書いたけれど、「“亡くなった本人の意思”が確認出来ないのならば、どういう形で在れ、其の人の姿を安直に晒すべきでは無い。」という思いが自分には在る。特に今回の様な御遺体の場合、本人が生前に「晒しても構わない。」と許可していない限り、身内とはいえ安直に晒すべきでは無いだろう。(「不快ならば、見なければ良いだけの話。」と言われれば其の通りだし、だからこそ団野村氏を批判する気も無いが。)
「アメリカでは御遺体を晒すのは、珍しい事で無い。」という声も在ると言う。2年前の記事「ニッチ過ぎる博物館」の中でも触れたけれど、「御遺体の写真を専門に載せている雑誌が、普通に売られているタイ。」の様に、“御遺体を晒す事に抵抗感の薄い国”というのが在るのかも知れない。でも、少なくとも我が国は、そういう環境に無いし、寧ろそういう事を忌み嫌うのが多数派だろう。
大昔になるが、父の葬儀の場で、写真を撮り捲る身内が居た。流石に御遺体の写真を撮る事は無かったけれど、祭壇や棺の写真をパシャパシャ撮ったかと思ったら、大声で「はい、皆整列して!!」と指示して、何枚も写真を撮っていた。本人は悪気が無かったと思うけれど、遺族としては非常に不快だった。そういう嫌な思い出が在るからこそ、今回の団野村氏の行動には、好ましい思いが全く無い。