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「道徳教科化に賛否両論6,000件『健全な社会秩序維持』、『価値観の押し付け』」(3月13日、産経新聞)
文部科学省は13日、平成30年度以降に教科化される小中学校の道徳を巡る学習指導要領の改定案に付いて、2月4日~3月5日の期間で実施していた意見公募(パブリック・コメント)を集計した所、国内を中心に5,002人から計5,993件の意見が寄せられた事を明らかにした。教科化によって「健全な社会秩序が維持され、伝承される。」等の賛成意見が出た一方、「一定の価値観や規範意識の押し付けに繋がる事が危惧される。」等の反対意見も寄せられた。
賛成意見では、子供達への教育の観点からだけで無く、教科化によって、教員の能力を高め、学校教育の質の向上を期待する声が目立った。具体的には「教師が、子供と共に学ぶ事が必要。」、「多くの教員が道徳の授業の在り方を考える事となり、授業の質にも目が向けられる。」等の意見が在った。
一方、反対の立場からは「偏狭なナショナリズムに繋がる。」、「国の考え方を、子供に植え付ける危険性が極めて高い。」等の意見が見られた。「道徳は普段の生活等から学ぶ物で、教科として学ぶ物では無い。」、「現行の制度でも、充分に実施出来る。」等と、教科化する事への疑問も目立った。
文科省は今回の改正案で、教育内容を「正直、誠実」、「感動、畏敬」等、キーワード毎に示したり、小学校低学年から教材で国を愛する心を取り上げたりする等、記載を大幅に変更。こうした工夫に付いて、「判り易くて良い。」、「改善された。」等と評価する声が在った。
評価は記述式で行われるが、「評価を記入するからこそ、意識して指導に当たる事が出来る様になる。」との賛成意見が在る一方、「教師の求める発言をする子供が増える。道徳は、本音で語れる場とする事が重要」との指摘も在った。
文科省は、寄せられた意見を改正案に反映した上で、月内に新指導要領として告示する方針。道徳は「特別の教科」として小学校で30年度、中学校では31年度から導入される見通し。
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「道徳」と言えば、6年前の記事「あさ あさ あかるいあさ」でも記した様に、教室で見させられたNHK教育テレビ(現在の「NHK Eテレ)の「明るいなかま」【音声】や「みんななかよし」【曲】を思い出す。当時、点数評価される科目では無かった道徳。授業と言うよりも、「面白いドラマを見る時間。」という感じだった。
「道徳」という授業は在って良いと思うが、“特別の教科”(意味が良く判らない。)という位置付けや、“評価対象の教科”となるのは個人的に反対だ。
今回のパブリック・コメント(“御友達”で固めた有識者会議もそうだが、パブリック・コメントも、「現政権にとって、都合の良い部分だけしか利用していない。」と感じている。そうで在れば、単なるガス抜きの意味合いしか無いだろう。)、賛成意見で「道徳の教科化により、教員の能力が高まり、学校教育の質が向上する。」と在るが、果たして本当だろうか?道徳が教科化されたからと言って、教員の能力が高まるとは、とても思えない。
其れよりも、「“仕事の為の仕事”としか思えない、教員が生徒達と接せられる時間を奪っているとしか思えない、無駄な書類作り等。」を大幅に減らした方が、余程教員の能力アップや授業の質向上に寄与すると思うのだが。
又、賛成している人達の中には、昨今の少年犯罪を憂い、「こんな残酷な事件が多発しているのは、子供達の心が病んでいるからだ。道徳教育を推し進めれば、少年犯罪は大幅に減る筈。」という思いを持っている人も多そう。
でも、もしそう思っているのだとしたら、此れも違うと思う。8年前の記事「『戦前の少年犯罪』&『モノができる仕組み事典』」で紹介した様に、道徳教育に重きを置いていた戦前の方が、今よりも遥かに少年犯罪が多発しており、尚且つ残酷な物も少なく無かったのだから。
自分が「道徳を、評価対象の教科にする事に反対。」なのは、「国にとって都合の良い、盲目的に従うだけの子供を増産する危険性。」を懸念するからだ。
「愛国」と言っても、其の形には色々在る筈。余程の人で無い限り、日本人ならばどういう形で在れ、「日本」という国を愛していると思うし、異常な迄の“形式主義者”の「~以外は、愛国者として認めない!」的な押し付けは、非常に危険。常軌を逸する「愛国教育」を推し進めて来た中国や韓国、北朝鮮の現状を見れば、国がどういう方向に突き進んで行くかは、自明の理だろう。
道徳が評価対象の教科になれば、子供達だって馬鹿じゃ無いのだから、“上”が求める様な答えを、意識して書く様になるに決まっている。塾等では子供達に対し、「こう書けば、良い評価が得られる。」というマニュアルが作成&配布されるだろう。自分の頭で確り考え抜いた上で記した答えが、「“上”が求める様な答えでは無いから。」として評価されなかったら・・・。「国は、人の心の中に立ち入るべきでは無い。」と、強く思う。
抑、「愛国」とか「誠実」とか「虐めはいけない!」等と道徳の授業で教えたとしても、「巨額な脱税疑惑に付いて、一切説明しないで逃げ回っていたり、政治資金で御菓子等を買うという公私混同をしたり、デマや誹謗中傷を何度も口にする事で特定の対象を排除し様としたりしている人間。」が首相の座に在るのだから、何の説得力も無いのではないか?
私は「道徳教育の授業」そのものも不要と考えています。
子供たちは大人の「言う事」でなく「している事」を見習いますから。
大人になってからでもそうで、(自分も含めて)たいていの人間は要職に就く人間の建前の「綺麗事」に従うのではなく、本音の方に従う(従わざるを得ない)ものです。
だって、そのほうが楽だったり、逆らえば自分の身が危うくことさえあるのですから。
率先垂範と言う言葉がありますが、まずは先頭に立つ者、著名人から率先して良い手本を示す事。それに勝る道徳教育は無いと思います。
「福島原発はコントロールされている」・・・東京五輪誘致のためなら平気で嘘をつく、この国の首相にこそ道徳教育が必要なのではないでしょうかね。
「率先垂範」、どんな組織で在れ、トップに立つ者にとって、非常に大事な事だと思います。「美しい国」だ何だと耳触りの良い言葉を並べ立ててる一方で、其れを口にしている当人が、国を食い物にしていたり、野卑な言動をしているのですから、全く御話になりません。
中曽根元首相を始めとして、此れ迄にも“鷹派”と呼ばれた政治家は少なからず居た。でも、全部が全部とは言わないけれど、少なくとも国家の中枢に居る様な人間には、其れなりの知識と寛容さが在った。しかし、安倍首相に関しては、知識も何も感じられず、「自らの考えに少しでも沿わない人間は、悉く排除すれば良い。」といった狭量さしか無い。自分が彼を“史上最悪の首相”と断じるのは、そういった事が要因ですし、日本の未来に深い憂慮を覚えます。
櫻井よしこ女史や山谷えり子大臣、百田尚樹氏といった“御友達”もそうですが、安倍首相も「『日本にとって好都合な事柄は、全て事実。不都合な事柄は、無根拠に全て嘘。』というスタンスこそ、自虐史観の否定で在る。」と盲信している様な所が在ります。此れじゃあ、中国や北朝鮮等の国が行っているプロパガンダと、何が違うのでしょうか?
嘘は嘘と断固として否定し、不都合な事柄で在っても、事実は事実として認める。此れこそが、真面な国家だと思います。
そういう思考の連中だからこそ、「盲目的に政府に従う国民こそ、素晴らしい国民で在り、そうじゃ無い連中は必要無い!」と思っているのでしょうね。皆が皆、全て同じ方向を向いている国なんて、普通の感覚ならば、不気味以外の何物でも無い。