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「松山ケンイチの『嫁』発言に賛否 ツイッターのトレンド入り」(2月22日、東スポ)
俳優の松山ケンイチ(35歳)の言葉が22日、ツイッターのトレンド入りした。
此れは松山が16日に日本テレビ系「火曜サプライズ」に出演した際に「髪が伸びた時には自分で切ったり、嫁に切って貰っている。」と発言した所、批判の声が寄せられたという事がネット・ニュースになった。
どうやら“嫁”という事が引っ掛かったらしく「嫁という間違った言葉を、広めないで貰いたい。」、「嫁という発言は不味かった。」という声が寄せられたと言う。
此れに対しツイッター上では「何が悪いの?」、「言葉狩りだ。」と松山擁護の声が多かったが、脳科学者の茂木健一郎氏は22日のツイッターで「『嫁』という言葉、東京近辺では余り使わなかったけれど、恐らく一部の関西の芸人さんの影響等で最近、東京の若者とかも使っている。僕は別に言葉狩りをし様とは思わないけど、正直、苦手で嫌いな表現です。関西芸人文化がストリート的に認識されている事が遠因か。文化の多様性から、疑問です。」と私見を述べている。
日本では「馬鹿げている。」という声が多数を占めている様だが、ポリティカル・コレクトネスが広まる米国では、男女の違いを連想させる言葉を良しとしない風潮が在り、「マンホール」を「メンテナンス・ホール」に、「マンパワー」は「ヒューマン・エフォート」等と、「ヒー(彼)」や「シー(彼女)」を使わず、肩書や地位で呼ぶ事が議論されている。又、最近では「祈りの言葉『アーメン』が、『アーウーメン』と使い分ける事も検討すべき。」という声も出た事が話題になった。
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豊臣秀吉の側室で豊臣秀頼の生母で在る女性の事を、昔は「淀君」と呼ぶのが一般的だった。でも、最近は「淀殿」と呼ぶのが一般的となっている。「豊臣家を滅ぼした徳川家は、自分達の正当性をアピールすべく、淀君を“悪”の存在に仕立て上げる必要が在った。なので、『悪女』や『売春婦』のイメージが在る『君』を付けた『淀君』が、江戸時代から意図的に使われ出した。元々、淀殿が生きていた時には、『淀君』という呼称は使われていなかった。」という説が在るからだ。此の様に、時代の移り変わりと共に、使用が避けられて行く言葉というのは在る。
けれど、今回の“マツケン”の「嫁」という発言が、不適切とは全く思えない。批判している人達は「嫁という言葉は差別的だ。」という理由なのだろうけれど、「妻」や「家内」、「女房」等と言葉を置き換えた所で、「差別だ!」と批判する人は必ず存在するだろう。こんな事を批判し出したら、何も得居なくなってしまう。
マス・メディアもこんな事を取り上げる時間が在るのならば、他にする事が在るだろうに。「新聞では比較的取り上げているけれど、TV番組では余り取り上げられていない『愛知県知事のリコール不正問題』。高須院長にとって好都合な話題は取り上げるのに、『愛知県知事のリコール不正問題』に付いては不自然な程に取り上げないのは、高須クリニックが大スポンサーだからではないか?民主主義を瓦解させ兼ねない大問題を取り上げずに、どうでも良いタレントの不倫問題を執拗に取り上げているのは、どうにも理解出来ない。」、「『未成年買春』を『援助交際』、『中高年への暴行』を『親父狩り』等とマス・メディアが面白おかしく言葉遊びしている事で、事の悪質さや問題性を薄れさせた様に、『虐め』も『傷害』や『暴行』、『恐喝』等、実態の悪質さに合った呼び方をマスメディアは使うべき。」等々がそうだ。
何が差別用語になるのか、時代変化によって変わっていくものなのでしょうが、それが急激だとついていけないこともしばしば。
そうか・・・つい、「うちの嫁さん」と言ってるけど、それが差別用語になるのか・・・。
言葉は文化だと言っても、それが差別に結びついていると、確かに改める必要が出てくるのでしょうけど、過去を振り返ると差別語を含まない文化なんてなかったと思うし、それで歴史そのものを否定し消し去ることはできないし、むつかしいですね。
性差による社会的役割を表現する言葉は、特に取り扱い要注意で。
主旨はちょっと違いますが、現代人は十中八九、独裁者や殺人者を毛嫌いするけど、歴史上の人物で好きな人や尊敬する人と問えば、信長、秀吉、家康、外国で言えばアレクサーンダー大王やシーザー、ナポレオンなどの名前がよく上がりますね。
彼らって現代の視点では間違いなく独裁者だけど、みんなどこで価値観を切り替えているのかな?
私の勤務先では、普通に「うちの嫁は」、「お宅の嫁さん」とか会話してて、何の違和感もありません。
ネットで調べると、「本来『嫁』は『息子の配偶者』のことを指します」とあるのですが、それなら歌の題名で、加山雄三の「お嫁においで」、同「ぼくのお嫁さん」、新沼謙治」の「嫁に来ないか」も全部間違いと言う事なんでしょうか。今まで誰もそんな事指摘してないと思いますが。
昔は特定の意味だった言葉が、時代と共に変化して広い意味で使われる事はよくあります。「嫁」も歌にあるように(そもそも「お嫁においで」や「ぼくのお嫁さん」が作られたのは半世紀以上も前です)、「自分の妻」の意味で使って何も問題ないと思います。
「正しくは『妻』と呼ぶのが無難」とする専門家の意見もありますが、同僚との会話で「うちの妻が」なんて堅苦しくてかえって不自然です。「嫁」の方が、やや親しみがあってむしろ適切だと思います。
こちらの記事にもありますが、↓
https://news.yahoo.co.jp/articles/1fe11056960612542b1be3c3552b1ff6d7f93894
ある女性アナウンサーの方が、
>「うちの夫から『うちの嫁が』って言われたときは、新婚の時なんて『ああ、私お嫁さんだ!』」と「嫁」呼びを歓迎。「(呼び方は)何でもいい。そこに愛情があれば」と話すと加藤も「そこ大きいですよね。愛情のない『妻』より愛情ある『嫁』の方がいいよね」と共感していた。…
と言っている事に同感です。愛情がこもっていれば、どんな呼び方だろうといいと思いますよ。
それにしても、くだらない事で騒いだり非難したり、よほど暇なんでしょうかね(笑)。
時代の移り変わりによって「問題になるか否か?」というのは変わって行くとは思います。例えば“熱血指導”なんていうのもそうで、昔ならば“素晴らしい指導法”とされていた筈なのに、今では“パワハラ扱い”される事も在る。誰しもが「問題だ。」と思う事柄ならいざ知らず、ネット上で“一部の人間”だけが問題視している事を、然も“圧倒的多数の人間”が思っている様に捉え兼ねない報じ方をしてしまうと、本当に息苦しい世の中になってしまう。
独裁者に関する件、自分も不思議に感じていました。でも、或る時、ふと思ったんです。「其の相手が、自分自身に非常に影響の強い存在だったら、どう感じるか?」という観点が、全く無い人が多いのではないかと。
例えば保守派を自認する人達は、概して安倍前首相を強く支持しているでしょう。でも、自分の直属の上司が「“御友達”の部下を矢鱈と贔屓して会社の金で飲み食いさせるだけでは無く、理不尽な出世をさせる一方、自分は冷遇し続けている。」という状況だった場合、其の上司を強く支持出来るだろうか?織田信長等も同様で、第三者として支持していても、彼等が直属の上司だったら、「絶対に支持する!」という人は、極めて少ないのではないかと。
全部が全部とは言いませんが、「差別だ!」と主張する人達は概して、何でも彼んでも「批判在りき。」なのではないかという気がしています。要はストレスの発散口を捜しているだけではないかと。
例えば今回の場合、マツケンが「髪が伸びた時には自分で切ったり、嫁に切“らせて”いる。」とでも言ったのなら、「配偶者を奴隷扱いしている!」と批判するのは未だ理解出来るのだけれど、“嫁”と呼んだだけで“差別”というのは全く理解出来ない。得てしてこういう主張をする人は、“自身の性別による利益”に付いては「逆差別と全く思わない。」のですから、「勝手だなあ。」と思ってしまう。