ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

Theおっさん

2023年01月26日 | スポーツ関連

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門田博光さん死去、74歳 44歳プレー元南海大砲 歴代3位567発 引退後に糖尿病悪化、脳梗塞」(1月24日、スポニチ

南海、オリックスダイエーでプレーし、プロ野球歴代3位の通算567本塁打マークした門田博光氏が亡くなった事が24日、判った。74歳。和製大砲として44歳迄プレーし、通算1,678打点も歴代3位。太くて長い野球人生を歩んだ偉大な打者が、静かに此の世を去った。    

本塁打に拘り続け、フルスイングが最大の魅力だった。南海入団2年目の1971年に31本塁打。同時に120打点で、初のタイトルとなる打点王に輝いた。12年連続を含む、20度のシーズン2桁本塁打僅か2発に終わったのが1979年だったが、アキレス腱断裂という大怪我から不死鳥如く蘇った。

断裂したのは、1979年2月の高知大方キャンプ全治6ヶ月で、当時は「現役復帰は難しいのでは?」と囁かれた。同年は、治療に専念。翌1980年に、41本塁打を放ってカムバック賞に輝いた。40歳シーズンとなった1988年には本塁打、打点の2を獲得。40歳でのMVP本塁打王、打点王は、何れも歴代最年長だった。門田氏の活躍で、「不惑」という言葉が流行語になった程だ。同年オフに南海がダイエーに買収されて本拠地福岡移転となったが、子煩悩だった門田氏は単身赴任を嫌い、同じ大阪のオリックスへトレード移籍。子供が進学する迄見守り、1991年には愛着の深い古巣のダイエーに移籍した逸話を持つ。

現役引退後の1993年に、持病の糖尿病が悪化。右足が不自由となり、手術を受けた。2005年暮れには脳梗塞で倒れたが、翌2006年1月に野球殿堂入り。晴れ姿を見せ、「最高の賞を戴いて、舞い上がっている。此れで『人生の終着駅に来たのかなあ・・・。』という気もする」等とコメントした。
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【門田博光氏】

1969年のドラフトで、南海ホークスから2位で指名された門田氏。以降、南海ホークスに19年(1970年~1988年)、オリックス・ブレーブスに2年(1989年~1990年)、そして福岡ダイエーホークスに2年(1991年~1992年)と、併せて23年のプロ生活だったが、個人的には南海ホークス時代、所謂南海グリーン”のユニフォームを着用していた時代の彼が、最も印象に残っている

安打:2,566、本塁打:567、打点:1,678、打率:.289等の通算記録を残した彼は、間違い無く超一流の選手。元記事にも書かれている様に、「常にフルスイング。」というのが彼のイメージで在り、オリックス・ブレーブスに移籍した1年目の1989年9月25日、対福岡ダイエーホークス戦で31号本塁打を放った際、本塁付近で出迎えた同僚ブーマー・ウェルズ選手とハイタッチ交わした所、ブーマー選手の余りのパワーで右肩を脱臼した。事も忘れられない。

門田博光選手と言えば、古き時代の野球選手というイメージが在る。古き時代の野球選手と書くと、「パンチパーマ掛けた頭髪に濃いサングラス、ド派手な服装と靴、そして金のネックレスを身に付けている。」という“其の筋の人”っぽい選手達が思い浮かぼうが、門田選手の場合はそういうのでは無く、“Theおっさん”という見た目が、古き時代の野球選手という感じがするのだ。(同時代で言えば、落合博満選手も、そんな1人。)


【落合博満氏】

パ・リーグで言えば、西崎幸広投手渡辺久信投手、潮崎哲也投手等々、“トレンディー系”・・・というのも死語化しているので、今で言えば“イケメン選手”が現れて以降、“絶滅危惧種化したおっさん選手”の1人が、門田選手で在った。


【西崎幸広氏】


【渡辺久信氏】


【潮崎哲也氏】

晩年は、病気と闘い続けていた門田氏。今回の件、「1月23日に予定されていた通院治療に現れなかった事から、病院警察に相談。翌24日午前、兵庫県相生市の自宅に警察官が訪ねた所、倒れているのが発見され、其の場で死亡が確認された。」という報道も在った。と言う事は、1人暮らしだったのだろうか?昨年の村田兆治氏同様、偉大な選手の最期としては、余りに寂し過ぎる。

彼の猛烈なフルスイングが忘れられない。合掌


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