*************************************
肝心なところ、伏線を張ったところを見逃されてしまうと特に喜劇は成立しづらい。例えば「男はつらいよ」(動画)。
「寅さん、今ごろどうしてんだろうね?」
「寒い北海道で元気にしてんじゃないかね。」
「いや案外帰って来ていて、照れ臭いから一度通り過ぎてたりして。」
団子屋でこんな会話が交わされているところに寅さんがすーっと通り過ぎるから面白い。このやりとりを聞き逃してしまうと、ただ寅さんが出てきただけではおかしみも生まれない。小道具も同様だ。物語のカギとなる伏線として使われることがあるが、見ていないと意味を成さなくなる。
テレビは最初から終わりまで見てくれる人が少なくなった。だから「コメディータッチ」はあっても「喜劇」と呼べるものが作りづらい。もう舞台か映画でなければできないのではないか。私はそう思っている。
*************************************
大好きな芸人の1人、伊東四朗氏。彼は現在、スポーツニッポン紙上で「我が道」という自伝を連載しているのだが、8月18日付けの同紙では「テレビで『喜劇』作りづらく」というタイトルで、上記の文章を記されていた。確かに肝心な部分や伏線を張った所を見逃されてしまうと、「此の場面で、見ている人達は笑ってくれるだろう。」という作り手の計算は崩れてしまうだろう。
ネット上のみならず日常生活に於ても、見逃しや聞き逃し、又は読み落としというのでは“無く”、“敢えて” 「部分」だけを取り上げて他者攻撃する人が居る。例えば最初に「高齢者は、早く亡くなった方が良いと思う。」という文章が書かれていた(又は発言した)とする。で、其の後に「世の中が余りにも世知辛くなってしまい、高齢者にとっては生きるのが過酷な状況となっている。必死で働いて来た人達が年老いて、辛過ぎる日々を送らなければいけないというのは、実に気の毒な事。『そんな辛過ぎる日々を送る事を強いられるので在れば、高齢者は早く亡くなった方が幸せではないか?良いのではないか?』と自分は思ってしまう。」といった文章が記されているのにも拘らず、「高齢者に対して『早く亡くなった方が良い。』と言うなんて非道だ!」とか「高齢者への優しさが無さ過ぎる!」等と、「部分だけを取り上げて非難している人」を見掛けると、結局は「先ず非難在りきなのではないか?」という気がしてしまう。書いても(又は言っても)いない事を、然も書いている(又は言っている)様に捏ち上げて、他者攻撃する人よりは増しだろうけれど、「意図的に真意を捻じ曲げている。」という意味では同根。
とは言え、そういった点を留意している積りの自分(giants-55)も、時には「部分だけを取り上げて他者攻撃している。」事が在るやもしれない。近年、そういった宜しくないスタンスの記述や発言を見聞する事が多いだけに、自戒しなければいけないと思っている。