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【一澤帆布騒動】
若者を中心に人気の高い「一澤帆布工業」の布製鞄。2001年3月、同社の先代会長・信夫氏が死去し、残された本人直筆の遺言書には「店を立て直した三男と、その妻に同社株の大半を相続させる。」との記載が。しかし、その後になって名古屋で銀行勤めをしていた長男が、「同社株は長男と四男に相続させる。」と記された“第二の遺言書”を明らかにした事でトラブルに発展。
三男は「第二の遺言書は偽造で在る。」として無効確認の裁判を起こすも、最高裁で敗訴が確定。三男は社長を解任され、行動を共にした職人と2006年に新ブランド「一澤信三郎帆布」を立ち上げ、店は分裂。
三男が敗訴した後、その妻が同様に提訴。そして今月の27日、大阪高裁は「一審の京都地裁の判決を覆す。」判決を下し、第二の遺言書は「無効」とした。「遺言は有効。」とする長男は、最高裁で争う方針。
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11月29日付けの東京新聞(朝刊)に「統一基準つくらなきゃ 筆跡鑑定が危うい」という記事が載っていた。一連の「一澤帆布騒動」で争点となっていたのは、先代の社長・信夫氏が残した“とされる”2通の遺言書の真贋。長男・信太郎氏&四男・喜久夫氏を後継者たらしめた“第二の遺言書”に関しては元警察官の3名が筆跡鑑定に当たり、「間違い無く、信夫氏の直筆で在る。」と“御墨付きを与えた訳だが、三男夫婦は大学教授や医師といった人々にその鑑定を依頼。即ち今回の判決は、「筆跡鑑定のプロ」と目されて来た筆跡鑑定人が「筆跡鑑定に於いてはアマチュア」に敗れたという構図。
警察式の筆跡鑑定法でメインなのは「類似分析」で、これは2つの文書が同一筆者かどうかを鑑定する場合に用いられ、両文書に共通する文字を抽出し、外形的な特徴を比較するという物。「共通する文字が百文字在ったとして、類似性が過半で在れば同一筆者と判断する。基本的に目視だが、字画の角度を測って数値を解析する事も在る。」という科学捜査研究所OBの証言も載っていた。
大阪高裁が“第二の遺言書”を無効とした理由は「文書が偽造された物で在る場合、似せて作成する為、共通点や類似点が多く存在したからといって直ちに真筆だと認める事は出来ない。」、「類似の文字や状態と位置付けるのに、基準が必ずしも明確で無い。」、「文字の選択が恣意的で在る。」といった点。
「恣意的な文字選択」の例として紹介されているのが、四男・喜久夫氏の名前に使われている「喜」の文字で、2つの遺言書に共通して出て来る。第二の遺言書の場合、「喜」の上部分が一般的に良く書かれている「士」となっているのだが、第一の遺言書の場合はこれが「土」に。書道の素養が在る人物が「喜」の文字を楷書で書く場合、「見た目が優美。」という理由から上部分を「土」と記すそうで、書を嗜んでいた先代は「土」と記していた可能性が高いというのに、何故かこの文字は除外。又、「布」という文字の筆順が第一の遺言書と第二の遺言書とでは明らかに異なっているのに、それも考慮されていないというのは確かに不思議だ。
一般的な認識で言えば、嘘発見器の判定と並んで筆跡鑑定はかなり確実な判定と見做されてるのではなかろうか。しかし元記事によると、筆跡鑑定というのはかなり危うい土壌の上に成り立っていると言う。どういう事かと言えば、「筆跡鑑定人には国家試験も資格も無く、統一された鑑定方法や基準は皆無で、“自称鑑定人”達が勝手な方法で鑑定した文書によって裁判が争われて来たのが日本の実情。」と。「依頼者の望み通りの鑑定書を書きます。」という業者も少なくない為、その結果として警察OBの鑑定に重きを置く傾向が強い。各都道府県に付属する科学捜査研究所で鑑識を担当し、定年退職後に民間業者となった人々が重用されるという、“警察の独占市場”状態に在ると言っても良いとか。
妙な利権を生み出す可能性も高そうだが、問題はそれ以外にも在る。一番大きな問題は「警察式の鑑定法こそが唯一無二的に正しい。」という風潮が在る事。「科学捜査とは名ばかりの、経験と勘に頼った警察式鑑定法」では無く、客観的で論理的な方法にすべき所を、そうしたくない勢力が多いと。又、「警察OBの鑑定至上主義」が根強い事から、警察OBに膨大な量の依頼が集中し、その結果として一件一件を性急に処理しなければならず、信頼性に疑問を生じさせる可能性も指摘されている。
論理的に確立された手法に基づき、一律に筆跡鑑定が行われていると思い込んでいたので、今回の記事には目から鱗が落ちる思いだった。
【一澤帆布騒動】
若者を中心に人気の高い「一澤帆布工業」の布製鞄。2001年3月、同社の先代会長・信夫氏が死去し、残された本人直筆の遺言書には「店を立て直した三男と、その妻に同社株の大半を相続させる。」との記載が。しかし、その後になって名古屋で銀行勤めをしていた長男が、「同社株は長男と四男に相続させる。」と記された“第二の遺言書”を明らかにした事でトラブルに発展。
三男は「第二の遺言書は偽造で在る。」として無効確認の裁判を起こすも、最高裁で敗訴が確定。三男は社長を解任され、行動を共にした職人と2006年に新ブランド「一澤信三郎帆布」を立ち上げ、店は分裂。
三男が敗訴した後、その妻が同様に提訴。そして今月の27日、大阪高裁は「一審の京都地裁の判決を覆す。」判決を下し、第二の遺言書は「無効」とした。「遺言は有効。」とする長男は、最高裁で争う方針。
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11月29日付けの東京新聞(朝刊)に「統一基準つくらなきゃ 筆跡鑑定が危うい」という記事が載っていた。一連の「一澤帆布騒動」で争点となっていたのは、先代の社長・信夫氏が残した“とされる”2通の遺言書の真贋。長男・信太郎氏&四男・喜久夫氏を後継者たらしめた“第二の遺言書”に関しては元警察官の3名が筆跡鑑定に当たり、「間違い無く、信夫氏の直筆で在る。」と“御墨付きを与えた訳だが、三男夫婦は大学教授や医師といった人々にその鑑定を依頼。即ち今回の判決は、「筆跡鑑定のプロ」と目されて来た筆跡鑑定人が「筆跡鑑定に於いてはアマチュア」に敗れたという構図。
警察式の筆跡鑑定法でメインなのは「類似分析」で、これは2つの文書が同一筆者かどうかを鑑定する場合に用いられ、両文書に共通する文字を抽出し、外形的な特徴を比較するという物。「共通する文字が百文字在ったとして、類似性が過半で在れば同一筆者と判断する。基本的に目視だが、字画の角度を測って数値を解析する事も在る。」という科学捜査研究所OBの証言も載っていた。
大阪高裁が“第二の遺言書”を無効とした理由は「文書が偽造された物で在る場合、似せて作成する為、共通点や類似点が多く存在したからといって直ちに真筆だと認める事は出来ない。」、「類似の文字や状態と位置付けるのに、基準が必ずしも明確で無い。」、「文字の選択が恣意的で在る。」といった点。
「恣意的な文字選択」の例として紹介されているのが、四男・喜久夫氏の名前に使われている「喜」の文字で、2つの遺言書に共通して出て来る。第二の遺言書の場合、「喜」の上部分が一般的に良く書かれている「士」となっているのだが、第一の遺言書の場合はこれが「土」に。書道の素養が在る人物が「喜」の文字を楷書で書く場合、「見た目が優美。」という理由から上部分を「土」と記すそうで、書を嗜んでいた先代は「土」と記していた可能性が高いというのに、何故かこの文字は除外。又、「布」という文字の筆順が第一の遺言書と第二の遺言書とでは明らかに異なっているのに、それも考慮されていないというのは確かに不思議だ。
一般的な認識で言えば、嘘発見器の判定と並んで筆跡鑑定はかなり確実な判定と見做されてるのではなかろうか。しかし元記事によると、筆跡鑑定というのはかなり危うい土壌の上に成り立っていると言う。どういう事かと言えば、「筆跡鑑定人には国家試験も資格も無く、統一された鑑定方法や基準は皆無で、“自称鑑定人”達が勝手な方法で鑑定した文書によって裁判が争われて来たのが日本の実情。」と。「依頼者の望み通りの鑑定書を書きます。」という業者も少なくない為、その結果として警察OBの鑑定に重きを置く傾向が強い。各都道府県に付属する科学捜査研究所で鑑識を担当し、定年退職後に民間業者となった人々が重用されるという、“警察の独占市場”状態に在ると言っても良いとか。
妙な利権を生み出す可能性も高そうだが、問題はそれ以外にも在る。一番大きな問題は「警察式の鑑定法こそが唯一無二的に正しい。」という風潮が在る事。「科学捜査とは名ばかりの、経験と勘に頼った警察式鑑定法」では無く、客観的で論理的な方法にすべき所を、そうしたくない勢力が多いと。又、「警察OBの鑑定至上主義」が根強い事から、警察OBに膨大な量の依頼が集中し、その結果として一件一件を性急に処理しなければならず、信頼性に疑問を生じさせる可能性も指摘されている。
論理的に確立された手法に基づき、一律に筆跡鑑定が行われていると思い込んでいたので、今回の記事には目から鱗が落ちる思いだった。
そもそも御洒落関係に全く無頓着なので、一澤帆布の鞄も一連の騒動で初めて知った程。御好きな方には申し訳無いけれど、自分もあのデザインはピンと来ませんでした。デザインや機能性に惚れて購入している方も勿論多いのでしょうが、「他の人が持っているから。」という理由だけで流されて購入している人も居るのではないかと。
争っている当事者同士は仕方ないにしても、双方の店で働いている方々は気の毒の一言。
昨日(3日)が御誕生日だったとの事で、遅ればせ乍らおめでとう御座います。そんな記念日に残業とは・・・本当に御疲れ様です。
赤の他人よりも肉親の方が、揉めた場合ににっちもさっちも行かなくなるケースが多いみたいですね。自分なぞは「血を分けた人間が其処迄憎み合うって、哀しかったり虚しかったりしないのかなあ?」と思ってしまうのですが・・・。