「8年後に小惑星が直撃し、地球は滅亡する。」との発表が為されて以降、自暴自棄になった人々は物を強奪すべく店を襲ったり、人を殺害したりと荒れ狂った。世を儚んだ人が自らの命を絶つ等、人口が大幅に減ったとも。そして発表から5年が経過し、地球滅亡迄残り3年となった頃、世の中は意外な程に落着きを取り戻していた。諦観が支配する状態と言って良いかもしれない。秩序が崩壊し大混乱を来した状態から、“凪”の状態に入った世の中を、仙台市北部の団地に住む人々の目を通して描いた小説が、伊坂幸太郎氏の「終末のフール」で在る。この小説は「終末のフール」、「太陽のシール」、「籠城のビール」、「冬眠のガール」、「鋼鉄のウール」、「天体のヨール」、「演劇のオール」、そして「深海のボール」という8つの短編から成立。全てのタイトルが「~の○ール」という形に統一されているのは、言葉遊びの得意な伊坂氏らしいなという気がする。
地球滅亡をテーマにした作品と言うと、自暴自棄になった人々の姿を描くのが一般的と思うが、この作品は上記した様に多くの人が諦観の念を持った、意外な程穏やかな日常が描かれている。しかし穏やかな日々を描き乍ら、登場する人々は余りにも悲惨な過去を背負っており、そのギャップが却って「終末に近付く地球」というのをリアルに浮かび上がらせている。悲惨な過去というのは、自暴自棄になった人々に襲われて家族を惨殺されたり、世を儚んで家族が自殺したりといったケースだ。
興味深いのは誰もが諦観の念を持ちつつ、「もしかしたら、小惑星は直撃しないかもしれない。直撃したとしても、自分だけは助かるのではないか。」といった希望を持っている事。全く根拠の無い希望なのだが、意外とこういった無根拠な希望を人間は持ってしまうのも事実だろう。
8つの短編の内で最も印象に残ったのは、34歳の三咲と32歳の富士夫という夫妻を中心に描いた「太陽のシール」。10年前に結婚して以降、ずっと子供を望んでいたものの叶わず、「もう子供は授からないもの。」と諦めていた所、美咲に妊娠の兆しが現れる。やっと望みが叶った訳だが、地球滅亡迄残り3年という事で、生まれて来る子供は3歳迄しか生きられないという“現実”に、そもそも優柔不断な性格の富士夫は「産むか産まないか。」に悩むというストーリー。
富士夫が高校時代に所属していたサッカー部のメンバー達と、久し振りにサッカーをするシーンが登場する。「僕を誘ってくれた同級生の彼は『こんな時にサッカーなんてやって、何を考えてるの?』と奥さんにたしなめられたらしい。人それぞれだ。」という文章には、「人間って追い込まれると、理屈でどうこう説明出来ない行動に走ってしまうもんなんだろうなあ。」とニヤッとしてしまう。
15年振り位に再会したサッカー部の元主将・土屋に富士夫が「子供の出産」に付いて相談を持ち掛けようとするのだが、同時に口を開いた彼の話に聞き入る事となる。土屋には現在7歳の子供「リキ」が居るのだが、その子は先天性&進行性の病を抱えており、長くは生きられないのだと言う。
*************************************
「なあ、富士夫。俺とうちのカミさんがさ、今まで、一番不安だったことを知ってるか?」
「子供の病気のことじゃなくて?」
「まあ、そうなんだけどさ。いつも俺たちがびくびく怯えていることがあるんだ。」
「何だい、それ?」
「自分たちが死ぬことだよ。」
「死ぬこと?」それは、単なる死への恐怖とは意味が異なるように、聞こえた。
「リキは病気を抱えているけどな、俺たちは毎日楽しく暮らしているんだ。負け惜しみとか強がりじゃなくてさ、本当に俺たちは楽しく暮らしているんだぜ。」
「嘘だとは思わないよ。」僕の知っている土屋なら、きっとそうだ。
「でも、先を見るとやってられないんだよな。」
「どういうこと?」
「リキが成長していくのが、不安なんだよ。俺たちは年を取るだろ。いくら健康でも、いつかは死ぬじゃないか。で、俺たちが死んだら、リキはどうなる?」
「ああ。」
「それを考えると、愕然とするんだよな。」
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そんな土屋は、地球滅亡迄3年と迫った今が「みんなには申し訳ないけど、すげえ幸せなんだよ。」と言う。
「小惑星が降ってきて、あと三年で終わるんだ。みんな一緒だ。そうだろ?そりゃ、怖いぜ。でも、俺たちの不安は消えた。俺たちはたぶん、リキと一緒に死ぬだろ。っつうかさ、みんな一緒だろ。そう思ったら、すげえ楽になったんだ。」
子供を道連れにして一家心中を図ったというニュースを、時折見聞する。「子供には子供の人生が在る訳で、その命を奪うなんて親の身勝手だ。」という意見も確かに判るのだが、「自分が死んだ後、残された子供達がどれだけ厳しい状況に置かれる事か。それを思うと、とても残しては死ねない。」と考える親の気持ちも自分は充分理解出来てしまう。この土屋の言葉が身勝手なのは確かだが、自身が同じ立場になったとしたら、同じ考えを持ってしまうかもしれない。
総合評価は星3つ。
地球滅亡をテーマにした作品と言うと、自暴自棄になった人々の姿を描くのが一般的と思うが、この作品は上記した様に多くの人が諦観の念を持った、意外な程穏やかな日常が描かれている。しかし穏やかな日々を描き乍ら、登場する人々は余りにも悲惨な過去を背負っており、そのギャップが却って「終末に近付く地球」というのをリアルに浮かび上がらせている。悲惨な過去というのは、自暴自棄になった人々に襲われて家族を惨殺されたり、世を儚んで家族が自殺したりといったケースだ。
興味深いのは誰もが諦観の念を持ちつつ、「もしかしたら、小惑星は直撃しないかもしれない。直撃したとしても、自分だけは助かるのではないか。」といった希望を持っている事。全く根拠の無い希望なのだが、意外とこういった無根拠な希望を人間は持ってしまうのも事実だろう。
8つの短編の内で最も印象に残ったのは、34歳の三咲と32歳の富士夫という夫妻を中心に描いた「太陽のシール」。10年前に結婚して以降、ずっと子供を望んでいたものの叶わず、「もう子供は授からないもの。」と諦めていた所、美咲に妊娠の兆しが現れる。やっと望みが叶った訳だが、地球滅亡迄残り3年という事で、生まれて来る子供は3歳迄しか生きられないという“現実”に、そもそも優柔不断な性格の富士夫は「産むか産まないか。」に悩むというストーリー。
富士夫が高校時代に所属していたサッカー部のメンバー達と、久し振りにサッカーをするシーンが登場する。「僕を誘ってくれた同級生の彼は『こんな時にサッカーなんてやって、何を考えてるの?』と奥さんにたしなめられたらしい。人それぞれだ。」という文章には、「人間って追い込まれると、理屈でどうこう説明出来ない行動に走ってしまうもんなんだろうなあ。」とニヤッとしてしまう。
15年振り位に再会したサッカー部の元主将・土屋に富士夫が「子供の出産」に付いて相談を持ち掛けようとするのだが、同時に口を開いた彼の話に聞き入る事となる。土屋には現在7歳の子供「リキ」が居るのだが、その子は先天性&進行性の病を抱えており、長くは生きられないのだと言う。
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「なあ、富士夫。俺とうちのカミさんがさ、今まで、一番不安だったことを知ってるか?」
「子供の病気のことじゃなくて?」
「まあ、そうなんだけどさ。いつも俺たちがびくびく怯えていることがあるんだ。」
「何だい、それ?」
「自分たちが死ぬことだよ。」
「死ぬこと?」それは、単なる死への恐怖とは意味が異なるように、聞こえた。
「リキは病気を抱えているけどな、俺たちは毎日楽しく暮らしているんだ。負け惜しみとか強がりじゃなくてさ、本当に俺たちは楽しく暮らしているんだぜ。」
「嘘だとは思わないよ。」僕の知っている土屋なら、きっとそうだ。
「でも、先を見るとやってられないんだよな。」
「どういうこと?」
「リキが成長していくのが、不安なんだよ。俺たちは年を取るだろ。いくら健康でも、いつかは死ぬじゃないか。で、俺たちが死んだら、リキはどうなる?」
「ああ。」
「それを考えると、愕然とするんだよな。」
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そんな土屋は、地球滅亡迄3年と迫った今が「みんなには申し訳ないけど、すげえ幸せなんだよ。」と言う。
「小惑星が降ってきて、あと三年で終わるんだ。みんな一緒だ。そうだろ?そりゃ、怖いぜ。でも、俺たちの不安は消えた。俺たちはたぶん、リキと一緒に死ぬだろ。っつうかさ、みんな一緒だろ。そう思ったら、すげえ楽になったんだ。」
子供を道連れにして一家心中を図ったというニュースを、時折見聞する。「子供には子供の人生が在る訳で、その命を奪うなんて親の身勝手だ。」という意見も確かに判るのだが、「自分が死んだ後、残された子供達がどれだけ厳しい状況に置かれる事か。それを思うと、とても残しては死ねない。」と考える親の気持ちも自分は充分理解出来てしまう。この土屋の言葉が身勝手なのは確かだが、自身が同じ立場になったとしたら、同じ考えを持ってしまうかもしれない。
総合評価は星3つ。
この手の絶滅テーマはSFの定番で、
小松左京「復活の日」ネビル・シュート「渚にて」
J・G・バラードの諸作品などなど。
その中では、こういう視点からの作品は独特ですね。伊坂幸太郎の才能がよく判った作品ではないでしょうか。
以前よりマヌケ様が伊坂作品を御好きなのは存じ上げていた訳ですが、最初に手にした「アヒルと鴨のコインロッカー」を数頁読んだだけで「なんだこりゃ!?」と付いて行けなくなって放り出した自分としては、「マヌケ様は何故、そんなにも伊坂作品に魅了されているのだろう?」と不思議でなりませんでした。しかし彼の他の作品を読み進めて行く内に、その魅力の一端が垣間見えて来た気がします。これは三崎亜記氏や道尾秀介氏の作品にも言えるのですが、一見非現実的な世界を描き乍ら、その根底には実に現実的な部分が潜んでいるという点。
凡庸な作家ならば「地球滅亡」をテーマにした作品を手掛けた場合、概して自暴自棄になった人々を描き勝ちだと思うのですが、散々自暴自棄になった挙句の静かな“凪”の状態を描くというのは「巧いなあ!」と唸ってしまいました。
徹頭徹尾ファンタジーという小説なら別ですが、現実と非現実が微妙に入り混じっている類の小説が昔は余り好きでは在りませんでした。それ故に伊坂作品も敬遠していた訳ですが、三崎作品等に触れた事で、そういった嫌悪感も薄くなった感じがします。だからと言って、三崎作品を物凄く高く評価しているという訳でも無く、やはり年を経る毎に嗜好や感性が微妙に変化して来ているのかもしれません。
海外では今でも戦争の最中に在る国が存在しているというのを情報として認識していても、それをリアルに感じ取れる日本人は自分を含めて殆ど居ないのではないかと。「可哀想に。」といった感覚は持つだろうけれども、所詮は“安全地帯に身を置いての傍観者”というのが哀しいかな現実。小さい頃から殴り合いの喧嘩すらした事の無い子達にとっては、肉体的な痛みすらなかなか現実的に感じ得ず、爆弾によって手足が吹っ飛ぶという事に対しても、何処か麻痺してしまっている所が在るのかもしれないし。