ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

「燃えよドラゴンズ!」 ~あの選手達の今~ Part2

2006年01月14日 | スポーツ関連

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(4番の歌詞)

9. 星野仙一、強気の勝負♪
星野仙一氏(1947年1月22日生まれ、58歳)
1968年のドラフト1位でドラゴンズに入団。ジャイアンツ戦には滅法強く、ジャイアンツ・ファンの自分としては、ジャイアンツが苦しめ続けられた投手の1人として印象が強い。対ジャイアンツ戦で30勝以上を記録した投手の内、勝ち越しているのは平松政次氏と川口和久氏、そして星野氏の3人だけ。尚且つ、その中での最高勝率は星野氏との事で、ドラゴンズのエースとしてだけではなく、”ジャイアンツ・キラー”として君臨していた選手だった。1982年に引退後、ドラゴンズで2度、タイガースで1度監督を務め、現在は野球解説者及びタイガースのSD(シニア・ディレクター)を務めている。


10. 松本、渋谷のミラクル投法♪
松本幸行氏(1947年6月5日生まれ、58歳)
谷沢氏と同じ1969年のドラフト4位でドラゴンズに入団。優勝した1974年には、最高勝率&最多勝利のタイトルを獲得している。1980年にブレーブスに移籍し、翌年に引退。こちらの情報によると、引退後に経営されていた御店(電気屋?)も畳まれ、悠々自適な生活を送られているとの事。又、「熱血ドラゴンズファン」なるメールマガジンで、「元M投手の目」というコラムを記されていたのが松本氏だったという説も在る様だ。

渋谷幸春氏(1947年4月15日生まれ、58歳)
谷沢氏&松本氏と同じ1969年のドラフト8位でドラゴンズに入団。この年には他にも3位で西田暢氏が入団している為、1968年ドラフト組と同様、初代「燃えよドラゴンズ!」に4人の選手を”送り込んでいる”事になる。右腕が遅れて出て来る変則投法で、先発にリリーフにと活躍の場を見出していたが、1976年にファイターズに移籍し、その年に引退。ファイターズのスカウトを務めた。


11. 鈴木、竹田の快速球♪
鈴木孝政氏(1954年7月3日生まれ、51歳)
初代「燃えよドラゴンズ!」に登場する選手達の中では、現年齢が最も若い人物。谷木選手と同じ1972年のドラフト1位でドラゴンズに入団。を痛めて技巧派投手に転じる迄は、兎に角快速球で真っ向勝負という印象が強い選手だった。”公式戦で”長嶋茂雄一茂親子の両者と対戦した唯一の投手だそうだ。1989年に引退した後はドラゴンズの投手コーチ等を務め、現在は東海テレビ放送の解説者を務める一方で、名古屋80D’sersの選手でも在る。

竹田和史氏(1950年7月4日生まれ、55歳)
星野氏等と同じく1968年のドラフトで、4位指名としてドラゴンズに入団。彼の情報を検索した所、「快速球を投じる大型左腕投手との呼び声が高かったが、1972年に打球を左腕に当てて以降は伸び悩んだ。」と記載されていた。だからかもしれないが、自分の中では彼の記憶が殆どと言って良い程無い。1977年にライオンズ、1979年にはタイガース(田淵幸一選手等との超大型トレードの1人として。)に移籍し、1980年に現役引退。その後、ドラゴンズでスコアラーや打撃投手等を務め、現在は同チームの査定担当チーフの職に在る様だ。


12. 三沢も稲葉も水谷も♪
三沢淳氏(1952年10月1日生まれ、53歳)
1970年のドラフト3位でドラゴンズに指名されるも、新日鉄広畑への入社を経て1年後に入団。1973年~1975年にかけて3年連続二桁勝利を挙げる等主力投手として活躍。1985年にファイターズに移籍し、翌年に引退を決める。その後、解説者を務めていたが、1996年の第41回総選挙に、今は無き新進党の愛知4区から衆議院議員候補として出馬し、当選を決めた。幾つかの党を渡り歩き、保守新党衆議院愛知第六区総支部会長という役職も務められた。現在は
テレビ愛知で対談番組の司会をされたりしている様だ。


稲葉光雄氏(1948年10月2日生まれ、57歳)
三沢氏と同じ1970年のドラフトで、ドラゴンズから2位指名を受け入団。落差の大きいカーブを武器に、入団2年目には20勝を挙げた。その後、勝ち星面では低迷を続け、1977年からブレーブスに移籍。移籍1年目に17勝を挙げて復活。3年連続で二桁勝利を達成。1984年にタイガースに移籍するも出場機会が無く、その年に引退を決める。(因みに、その翌年の1985年にタイガースは21年ぶりの優勝を果たしている。)引退後はドラゴンズ及びファイターズでコーチを務められた。

水谷寿伸[寿伸]氏(1941年1月3日生まれ、65歳)
1965年及び1966年には二桁勝利を挙げるも、優勝した1974年には引退を決めている。実働14年間で71勝75敗。引退後はドラゴンズの二軍コーチを務められた。
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(5番の歌詞)

13. 一発強打の大島君♪
大島康徳氏(1950年10月16日生まれ、55歳)
星野氏と同じ1968年のドラフトで、ドラゴンズから3位指名を受け投手として入団するも、直ぐに打者に転向。入団4年目に外野手のレギュラー候補となるが、なかなか完全にレギュラー定着と迄は到らなかった。8年目に代打として無類の勝負強さを発揮し、以降レギュラーの座を掴む。1987年オフに”同期”の星野氏がドラゴンズ監督に就任し、チーム改革を図った事で、翌年からはファイターズに移籍。2,000本安打を達成して日本プロ野球名球会の会員となり、1994年に現役を引退。現役生活26年というのは、野村克也氏に次ぐ長期記録だそうだ。引退後はNHKで野球解説を、2000~2002年にはファイターズの監督を務め、現在は再びNHKの解説者となっている。


14. 代打男の江藤君♪
江藤省三氏(1942年4月29日生まれ、63歳)
ドラフトが開始された初年度の1965年にドラフト3位ジャイアンツから指名を受け入団。(その年の同チーム1位は、昨年迄ジャイアンツの監督だった堀内恒夫氏。)ジャイアンツでの3年間を殆ど二軍暮らしで終え、1969年にドラゴンズに移籍。代打として生きる道を見出し、1976年に引退。勝負強い打撃が記憶に残っている。引退後は野球評論家を務められる一方で、NPO法人「ジャパン・ベースボール・アカデミー」の理事長として、子供達に野球を指導されている様だ。


15. スイッチヒッター、ウィリアム♪
ジミー・ウィリアム氏(1946年5月3日生まれ、59歳)
1973年から2年間、ドラゴンズに在籍。代打としてはそれなりに勝負強さを感じたが、兎に角三振が多かったという記憶が在る。優勝した1974年も、試合中に怪我をして、そのまま退団になったという“イマイチ外国人選手”。


16. 期待のルーキー藤波君♪
藤波行雄氏(1951年4月26日生まれ、54歳)
歌詞に在る通り、1973年のドラフト1位でドラゴンズに入団した彼にとって、1974年はルーキー・イヤーに当たった。ルーキーながら90試合に出場し、「114打数33安打、1本塁打」の記録を残して新人王に輝く。晩年は主に代打として活躍し、1987年に引退。現在はラジオの野球解説者を務められている様だ。
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