本題に入る前に、2つのエピソードを書く。1つ目のエピソードは、知り合いの高齢女性に付いて。彼女に関しては当ブログで何度か触れているが、基本的には真面目な人なのだが、偏狭な所が在り、又、嬉々として弱者叩きをする。「自分が払っている税金が、弱者の為に使われるのは許せない!」という思いが根底に在る様で、一時期「生活保護費の不正受給」が取り沙汰された際には、生活保護費を“正当に”受給している人も含め、十把一絡げにして叩いていた。「自分は、絶対に弱者の側には落ちない。」という“無根拠な思い込み”が彼女には在って、だからこそ嬉々として弱者叩き出来るのだろう。
「自分は高い医療費を払っているのに、生活保護受給者は医療費の負担が少ないのはおかしい!」というのも、彼女の口癖だった。「病気は自己責任なのだから、一定額以上の医療費を税金で負担する『高額療養制度』なんて必要無い。何で人の医療費を、自分が払った税金で賄わなければいけないのか?」とも言っていた。
そんな彼女の夫は不健康な生活を送っており、「病気になったら、薬を飲めば良い。」という感じだったのだが、何年か前、不健康な生活が理由としか思えない重病になった。結構な額の医療費が掛かったそうだが、高額療養制度を利用したと。「高い税金払ってるのだから、高額療養制度を使うのは当り前よね。」と平然と語っていた彼女。「病気になったら薬を飲めば良い。」と不健康な生活を送り続け、そういう生活が理由としか思えない重病に罹って、あんなに批判していた高額療養制度を利用しても、何とも思わないらしい。結局、「他人がメリットを得る事は断固として許さないけれど、自分はどんなメリットを得ても問題無し。」という事か。
2つ目のエピソードは、原辰徳氏が前回ジャイアンツの監督を務めていた時の事。記者達との雑談で“日本の膨大な医療費”に付いて、原監督(当時)が語った内容が新聞に載っていた。「病気は自己責任なのだから、病人の医療費負担を増やしても良いのではないか。」という趣旨の発言だったが、自分は共感出来る部分“も”在った。
と言うのも、自分や家族は「少しでも健康を維持出来たら。」という思いから、出来る限り歩いたり食生活に留意したりして、病院に行かない努力を続けているのに、「病気になったら、薬を飲めば良い。」と自堕落な生活を決め込み、其の結果として長きに亘って病院通いしている人が、身の回りに少なからず存在するから。病気になっても自堕落な生活を改めず、「薬を飲んでいるから大丈夫。」と言い放っている彼等を見ると、「だったら、もっと医療費を負担してくれよ。」と思ってしまう。
原監督の主張に共感出来る部分“も”在る一方で、「病人を十把一絡げにしてしまうのも、おかしくはないか?」という思いも在った。彼の主張の前後に“例外”を示唆していたら話は別だが(少なくとも記事には載っていなかった。)、「先天的に病気を抱えていたり、健康維持の努力をし続けていても病気になったりという、“止むを得ないケース”も存在する。」のだから。そういう人達をも十把一絡げにして、「病気は自己責任なのだから、病人の医療費負担を増やしても良いのではないか。」とするのは、「健康なのは当たり前。病気になるのは、努力が足りないからだ。」という様な思い上がりだと思う。
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「麻生氏が不適切発言=医療費負担『阿保らしい。』に同調」(10月23日、共同通信)
麻生太郎財務相は23日の閣議後の記者会見で、不摂生が理由で病気になった人の医療費を、健康の為に努力している人が負担するのは「阿保らしい。」と指摘した知人の発言を紹介した上で、「良い事を言う。」と同調した。健康維持の必要性を訴える趣旨と見られるが、病気になった人に対する心無い表現として批判が出る可能性が在る。
麻生氏の発言は、政府が検討している予防医療推進に関する質問への答えの中で飛び出した。78歳の麻生氏は「病院で世話になった事は殆ど無い。」と強調。「生活習慣の乱れで、自ら病気を招いた人の医療費を負担するのは不公平。」との考えを滲ませた。
唯、麻生氏は「人間は、生れ付きが在る。一概に言える、簡単な話では無い。」とも語り、止むを得ない事情で病気になった人の医療費を保険制度で賄う事に理解を示した。
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問題発言の多い麻生氏。でも、今回の話は記事を読む限り、「問題在り。」とは思えない。“不摂生が理由で病気になった人”という限定、そして“止むを得ない事情で病気になった人”という例外をした上での主張だから。
とは言え、“不摂生”と“摂生”との“線引き”が難しいのも事実。今回の報道を受け、或るラジオ番組で「麻生さんって確か、葉巻きを結構吸われてましたよね?(葉巻きを吸い続けていたという不摂生さから)肺癌になったら、医療費は自分で全て負担するんでしょうね。」と皮肉を言っていた人が居た。煙草や酒を全く嗜まない人達からすれば、煙草や酒を嗜む事自体を不摂生と考えるだろうし、又、嗜む人達の中でも「少しならば別だが、大量にだと不摂生。」と考える人も居るだろう。煙草と肺癌も100%関係付けられている訳では無いだろうし、そういう意味でも線引きは難しそうだ。
以前にも書いた事ですが、「世の中に、無駄な知識なんか無い。」と思っています。エロイ雑学で在っても、コミュニケーションして行く上での潤滑油となったりする。一見無駄と思える物でも、そうでは無いって事が結構在ったりします。
石ころで思い出したのですが、昔、漫画か何かで、道に転がっている石ころを蹴り、其の蹴った石ころが次々と予想外の事態を引き起こし、最終的には“歴史”が変わってしまったというストーリーが在りました。存在している以上、全く無意味な物なんて無いんですよね。
そして、彼はアンソニー・クィーンに殺されてしまいますが。
この「石ころだって役に立つ」は、きわめてカソリック的です。
カソリックではこの世はすべて神が作ったものなので、無意味なものは地球上には存在しません。
悪魔でさえも、最後は神に滅ぼされて、その時に神の力を再認識させるために存在しているのだそうです。
悠々遊様が出会われた女性、今回の記事でも取り上げた知人と非常に似ています。身の回りに存在している(彼女の感覚で言う)“不埒者”を取り上げ、そういう人達が生活保護受給者や障害者の全てで在る様に猛批判する。明々白々に問題の在る“一部の不埒者”を批判するのは判るけれど、十把一絡げにして叩くのは、単なる“ストレス発散”で在り、人として卑しい行為としか思えない。
非常に残念な事では在りますが、こういう人達って世界的に増えており、移民叩きに熱を上げているトランプ支持者の少なからずも、そういう連中なのでしょうね。
クーラーを使っていたり、パチンコをしていただけで、「とんでもない連中だ!」と生活保護受給者へのバッシングが起こったりする。異常な程の猛暑が当たり前となった此の国で、クーラーを使う事自体が「贅沢だ!」と批判されるのが理解出来ない。今回の記事で“線引き”というのに触れましたが、例えば「多機能で非常に高額なクーラーを使っているのはどうかと思うけれど、単一機能だけの安いクーラーなら全然問題無い。」というのが私見。又、パチンコ依存症の様な人は論外ですが、日々慎ましい生活を送っている中、稀にパチンコで少額を費やし、ストレス発散している生活保護受給者を、自分は責める気になれない。自分形の“線引き”で在り、其れが万人に当て嵌まるとは思わないけれど、自分に関する線引きは大甘なのに、他者、特に弱者に対する線引きは異常に厳しい人達というのは、どうにも理解出来ません。線引きを設けるので在れば、誰に対しても同一で無いと、何等説得力を持ち得ないと思うからです。
常軌を逸したレヴェルの弱者叩きの先に待っているのは、ナチス・ドイツが跋扈していた世界。弱者に向けた刃は、何れ自分にも向けられる。
この記事を読んで思い出したことですが、今年の夏必要に迫られて出生地に除籍謄本を取りに行った時のこと。
JRの駅を降り町役場までのバス待ちの時に、たまたま隣合せた私と同年配の女性と世間話をしたのですが、その女性曰く「障害者が税金で優遇されながら大きな顔をして権利を主張するのが許せない」とご立腹。
「障害があってもしっかり自立して社会の役に立っている人もいますよ」と言って、例えばホーキング博士の名前など上げてみたのですが、彼女にとってはそんな人はほんの例外で、ほとんどは周りの世話になっていながらそれが当たり前と思って偉そうにしている怪しからん者たちで、そんな者たちに多額の税金が使われているのは理不尽。
果ては、生まれながらに障害がある人は本来生まれてくるべきではなかった、と先端医療批判や障害を持って生まれてくるのは前世での悪行が罰になっている、とまで言い出したのには閉口。
話を聞いていると自分は身を粉にして働いているのに、身近なところに障害者がいて、働きもせず結構いい暮らしをしているらしい。
こういう主張は以前被差別の人に対しても聞いたことがあり、在日韓国朝鮮人に対しても向けられています。
記事で取り上げられている生活保護世帯や、病気を繰り返している人たちに対しても同じで、共通しているのは「弱者によるさらなる弱者叩き」。
確かに彼らの一部に社会的弱者であることを逆手にとって、理不尽な権利要求を平然としている輩がいることは事実でしょう。
しかし、giants-55さんも書かれているように、彼らを十把ひとからげに「怪しからん」というのはいかがなものか。
まして、社会的弱者を救済・無くすことが使命のはずの政治家が、上から目線で発言すること自体「強者による弱者いじめ」にならないのかと思います。
結局のところ、強者による弱者いじめが固定化し、強者に逆らえない閉そく感から、弱者によるさらなる弱き者叩きが蔓延しているのではないでしょうか。