
本当に便利な世の中になったものだ。先日、頭にふっと浮かんだ「シュッシュッ シュッシュシュッシュシュ パッパッ パッパパッパパ♪」という男性ヴォーカルで始まる、やけにノリの良い曲。昔なら思い出そうと散々悩んだ挙句、結局判らず仕舞いに終わるというのが関の山だったが、駄目元で上記したフレーズにて検索した所、あっさりと判ってしまったからだ。こちらで試聴出来る「花咲じいさん」というタイトルで、こおろぎ’73が歌っていたサントリー・レッドのCMソング。そうそう、そうだった!
閑話休題。
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「鳥取の小学校は『学級委員長』無し 『為れない子供が傷付くから』?」(2月12日、J-CASTニュース)
鳥取県の公立小学校には「学級委員長」が居ない。リーダーを決めれば差別に繋がる、との抗議を人権団体等から受け自粛した結果なのだそうだ。しかし、2009年春から鳥取市で1校だけ20年振りに「学級委員長」が復活する。市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てる為に復活を呼び掛けて来た成果らしいが、後に続く学校が現れるかは判らないと言う。
鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体等から「委員長に為れなかった子供が傷付く。」、「自分には出来ないと劣等感が生まれる。」等の抗議が在り、自粛が全県に広がった為だと言う。図書委員、保健委員といった担当者は居るが、これ等の委員は全て横並びの関係にしている。又、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴール出来る様に、走るのが遅い子供に対しては、コースをショート・カット(近道)したり、スタート・ラインを他の生徒より前にしたりする学校も在るのだそうだ。
そうした中、鳥取市では2009年春から1校だけだが「学級委員長」を復活させる。鳥取市教育委員会はJ-CASTニュースの取材に対し、「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう。』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けて来た。」と打ち明ける。人権団体とも交渉し「苦情は受け付けない。」と突っ撥ねたのだそうだ。
その学校は「鳥取市立湖南学園」。2008年に小・中一貫校の指定を受け2009年春から本格的な一貫教育が始まる。同校の金田吉治郎校長はJ-CASTニュースに対し、子供の保護者等から自分の意見を大勢の前でも堂々と表明出来る様な子供を育てて欲しい、という要望が多く在り、2009年春の一貫校としての新制度策定が良い機会だったと明かした。その上で、「指導要領を見ても、子供の自主、自立という言葉が盛んに使われている。更に、皆を纏めて行く様な人材、リーダーを育てていかなければならないとも考えている。」と復活する理由を語った。
但し、市の教育委員会によれば、「湖南学園」に続き市内で復活させる小学校が出るのかどうかは判らず、県内の地方の小学校程復活は難しいのではないか、と話している。小学校の「学級委員長」を「人権」の視点から無くす自治体は大阪以南に多い。愛媛県が2004年に調査した所、同県の約半数の小学校が「学級委員長」を置いていなかったそうだ。同県の教育委員会はJ-CASTニュースに対し、「様々な子供に活躍の場を与える事を目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。必ず学級委員長を置かなければならないという規定は無い為、それぞれの学校の判断に任せている。」と話している。
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以前にも記事として書いた事が在るが、「差別に当たるから、徒競争では順位を付けない。」とか「同時にゴールする指導をしている。」といった話にはげんなりしている。「どれだけ綺麗事を並べ立てた所で、社会に出たらあらゆる場面で厳然とした“順位付け”は存在しており、“純粋培養”された子供達が“現実”との乖離によって対応出来なくなってしまう可能性。」を懸念するからだ。実際問題、「『理想を持って勉強して来たが、教科書の内容と違う現実が在る事を知り、文科省に騙されたと感じた。』という動機から、文部科学省の局長等の殺害予告を自身のブログに書き、逮捕された元東大生。」なんてニュースが昨年在ったりもした。子供達に社会の汚い部分ばかりを見せる必要も無いが、綺麗な部分だけを見せるというのも違うと思う。
「学級委員長を選ぶ=差別」という考え方には同意出来ない。幼少時から出来の悪い人間だった自分だが、学級委員長に選ばれなかったからといって、それが差別だと感じた事は全く無かったからだ。だから今回の報道にも「又、訳の判らない人権団体等が騒いでるんだな。」という思いが在り、最初は取り上げる気が無かった。
しかし、愛媛県の教育委員会が取材に答えた「様々な子供に活躍の場を与える事を目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。」という部分を読み、「そういった考え方で在れば、判らなくもないなあ。」という思いも。「『学級委員長』という役職を設けずとも、TPOに応じて生徒個々にリーダー役を務めさせるシステムがきちんと構築&運用されている“ならば”、それはそれで良いのではないだろうか。」と。
上記した様に出来の悪い人間の自分だが、天の悪戯か、一度だけ学級委員長を務めさせられた事が在る。最初は嫌で仕方無かったが、務めて行く中で責任感が増して行ったし、皆を纏めて行く充足感を得た。それを考えると、杓子定規に「学級委員長」を1人乃至は数人据える弊害というのも、絶対に無いとは言い切れないのかもしれない。くどい様だが、その場合には「TPOに応じて、生徒個々にリーダー役を務めさせるシステムが、きちんと構築&運用されている。」というのが前提となるが。

閑話休題。
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「鳥取の小学校は『学級委員長』無し 『為れない子供が傷付くから』?」(2月12日、J-CASTニュース)
鳥取県の公立小学校には「学級委員長」が居ない。リーダーを決めれば差別に繋がる、との抗議を人権団体等から受け自粛した結果なのだそうだ。しかし、2009年春から鳥取市で1校だけ20年振りに「学級委員長」が復活する。市の教育委員会が2、3年前から子供達の社会性、自主性を育てる為に復活を呼び掛けて来た成果らしいが、後に続く学校が現れるかは判らないと言う。
鳥取県の公立小学校が「学級委員長」を無くしたのは、人権団体等から「委員長に為れなかった子供が傷付く。」、「自分には出来ないと劣等感が生まれる。」等の抗議が在り、自粛が全県に広がった為だと言う。図書委員、保健委員といった担当者は居るが、これ等の委員は全て横並びの関係にしている。又、「差別」の観点から、運動会の徒競走でも全員が同時にゴール出来る様に、走るのが遅い子供に対しては、コースをショート・カット(近道)したり、スタート・ラインを他の生徒より前にしたりする学校も在るのだそうだ。
そうした中、鳥取市では2009年春から1校だけだが「学級委員長」を復活させる。鳥取市教育委員会はJ-CASTニュースの取材に対し、「横並びで生徒は『誰かがしてくれるだろう。』と考え社会性、自主性が育たない。2、3年前から市内の小学校に委員長の復活を呼び掛けて来た。」と打ち明ける。人権団体とも交渉し「苦情は受け付けない。」と突っ撥ねたのだそうだ。
その学校は「鳥取市立湖南学園」。2008年に小・中一貫校の指定を受け2009年春から本格的な一貫教育が始まる。同校の金田吉治郎校長はJ-CASTニュースに対し、子供の保護者等から自分の意見を大勢の前でも堂々と表明出来る様な子供を育てて欲しい、という要望が多く在り、2009年春の一貫校としての新制度策定が良い機会だったと明かした。その上で、「指導要領を見ても、子供の自主、自立という言葉が盛んに使われている。更に、皆を纏めて行く様な人材、リーダーを育てていかなければならないとも考えている。」と復活する理由を語った。
但し、市の教育委員会によれば、「湖南学園」に続き市内で復活させる小学校が出るのかどうかは判らず、県内の地方の小学校程復活は難しいのではないか、と話している。小学校の「学級委員長」を「人権」の視点から無くす自治体は大阪以南に多い。愛媛県が2004年に調査した所、同県の約半数の小学校が「学級委員長」を置いていなかったそうだ。同県の教育委員会はJ-CASTニュースに対し、「様々な子供に活躍の場を与える事を目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。必ず学級委員長を置かなければならないという規定は無い為、それぞれの学校の判断に任せている。」と話している。
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以前にも記事として書いた事が在るが、「差別に当たるから、徒競争では順位を付けない。」とか「同時にゴールする指導をしている。」といった話にはげんなりしている。「どれだけ綺麗事を並べ立てた所で、社会に出たらあらゆる場面で厳然とした“順位付け”は存在しており、“純粋培養”された子供達が“現実”との乖離によって対応出来なくなってしまう可能性。」を懸念するからだ。実際問題、「『理想を持って勉強して来たが、教科書の内容と違う現実が在る事を知り、文科省に騙されたと感じた。』という動機から、文部科学省の局長等の殺害予告を自身のブログに書き、逮捕された元東大生。」なんてニュースが昨年在ったりもした。子供達に社会の汚い部分ばかりを見せる必要も無いが、綺麗な部分だけを見せるというのも違うと思う。
「学級委員長を選ぶ=差別」という考え方には同意出来ない。幼少時から出来の悪い人間だった自分だが、学級委員長に選ばれなかったからといって、それが差別だと感じた事は全く無かったからだ。だから今回の報道にも「又、訳の判らない人権団体等が騒いでるんだな。」という思いが在り、最初は取り上げる気が無かった。
しかし、愛媛県の教育委員会が取材に答えた「様々な子供に活躍の場を与える事を目的に、リーダーの固定を避けているのだろう。」という部分を読み、「そういった考え方で在れば、判らなくもないなあ。」という思いも。「『学級委員長』という役職を設けずとも、TPOに応じて生徒個々にリーダー役を務めさせるシステムがきちんと構築&運用されている“ならば”、それはそれで良いのではないだろうか。」と。
上記した様に出来の悪い人間の自分だが、天の悪戯か、一度だけ学級委員長を務めさせられた事が在る。最初は嫌で仕方無かったが、務めて行く中で責任感が増して行ったし、皆を纏めて行く充足感を得た。それを考えると、杓子定規に「学級委員長」を1人乃至は数人据える弊害というのも、絶対に無いとは言い切れないのかもしれない。くどい様だが、その場合には「TPOに応じて、生徒個々にリーダー役を務めさせるシステムが、きちんと構築&運用されている。」というのが前提となるが。

徒競走に順位をつけないって意味ないですよね。
g-55さんのおっしゃるように
世の中に出れば順位だらけです。
それを完全に避けることは不可能です。
徒競走に順位をつけないのなら
テストも皆同じ点になるようにするのでしょうか?
普段テストで劣等感を味わうガキんちょも
運動会で存在を発揮するというチャンスを奪う点については、抗議する人たちはどう考えているのでしょうね?
それぞれの生徒にいいとこがある。
それをよく見てやって褒めてやればいいのです。
それと学級委員長が偉いのは昔の話で
私もテキトーに、選ばれたことがあります。
適当な時期で交代するのも案ですね
(私がそうでした)
別に一年間ずっとやらねばいかん理屈は無いですから・・
>こおろぎ73
天才バカボンのエンディングもそうでしたね。
いやそのようなフレーズの検索でも
出ましたか。
いやはや、便利になったものです・・
ところで「学級委員長」の子って小学校時代の思い出でも印象に残っていますね。あ~彼は子供の頃からリーダーシップがとれて、しっかりしていて、勉強も良くて、利発な子。。。。しか~し、そのキャラが大人になってもずっと続いているかはまた別のお話。。。
「できない子がかわいそう」との屁理屈ですが、社会に出れば、いやでも競争しなくてはいけません。それをこんな学校で学んで、社会に適応できない大人に育ったら、と考えないのでしょうか。人権無視団体ですね。
私は、子供のころからなんらかの委員をやらされていました。大人になっても、労働組合の副委員長やSFのイベントの実行委員長をしました。それらのことは大きな勉強になりました。得がたい勉強をさせてもらいました。これらの勉強の機会を奪うことでもありますね。
真剣に差別と闘っている人権団体も当然在るでしょうから十把一絡げにするつもりは在りませんが、こういった「何でも差別に結び付ける」似権団体というのはどうにも受け容れ難いです。こんな事迄「差別」と結び付ける人権団体って、それならば内部には役職等のヒエラルキーは存在しないという事なのでしょうか?対価は一律同額で、「差別に当たるから。」という理由でどれだけ年長の人で在っても“タメ語”で話していたりするのでしょうか?全く以て不思議でなりません。
余程優れた人は別にして、人は誰しも「得手」と「不得手」が在るもの。或る場面では「不得手」に悩みつつも、別の場面で「得手」を発揮して満足する。そういった“山”や“谷”を幾つも越えて行く事で、人は大きくなって行くものだと思うんですけどね。
こおろぎ’73が歌っていた「元祖天才バカボンの春」(http://www.fukuchan.ac/music/anime/bakabonnoharu.html)、凄く印象深いです。ハチャメチャなギャグが繰り広げられた後に、あのシリアスな内容の歌。自分が41歳になった時、「嗚呼、バカボンのパパと同い年になったんだなあ。」としみじみ思った“嘗ての子供達”も結構居たのではないでしょうか。
上でハムぞー様宛に書かせて貰いましたが、こういった「何でもかんでも差別問題に結び付ける組織」の内部って、ヒエラルキーが全く存在していないんでしょうかね。それが非常に気になります。
以前「同期会」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/94acaad49f8f2a08d258d5b775bc5a5c)という記事で、内館牧子さんのエッセーを紹介させて貰いました。中学校や高校の同期会に出席すると、決まって出席していない同期が居る事を挙げ、「私が感じるのは、中学や高校時代に派手で目立って、勉強やスポーツや容姿等でトップ・ランクに居た生徒は、どうも出席に過剰な決心が要るのではないかという事だ。私の推測だが、彼等彼女等にとって、当時のイメージと現在のギャップは他者が考えているより大きいのかもしれない。」としている。彼女はそういった同期を非難している訳では無く、「だが、私は断固として同期会には出ない元王子様、元マドンナは嫌いじゃない。年月や円熟味が全てを『遠い日』にしつつ在る年齢に於いて、未だに過去の栄光に拘る心に、生きる力の強さを感じるのだ。」と寧ろ温かい視線を向けている訳ですが、嘗ての学級委員長達の中には「昔」と「今」の乖離に悩んでいる人が居るのかもしれませんね。
我が息子も小6の時にそれをやられまして、選んだ連中を集めての集会を開かれてしまったほどで。。。私も先生と相談したり、相手方に乗り込んで行ったり大変でしたわ。ああいう連中は「そんなつもりはなかったんですよ」って言いますけどね(怒)。
息子、当然小6の同窓会には行きません。
でも中学になってからはイジメに消極的に加担するほうに廻ってしまって。。。
むずっかしいなあ!と悩みました。
もう学校とか学童とか中学生とかPTAに関わるのは二度と嫌です。まあ、関わる心配もないと思いますけど^^;。
本当に学校の先生って大変な職業と思いますですよ。
我が親が小学生だった時代、宿題を忘れると窓際にその生徒を立たせ、虫眼鏡で髪の毛をジリジリと焼くという“罰”を与える教師が居たそうです。恍惚状態といった表情でそれを行う教師に、生徒達は不気味さを感じていたとか。こんなのは教育でも何でも無く、単なる個人の趣味を充足させているだけ。又、自分が学生だった時分にも、自身のストレスを充足させる為だけに度を過ぎた体罰を行う教師が居ました。こんな連中は論外ですが、今でも懐かしく思う良い教師も居たというのは言う迄も在りません。
知り合いに教育関係者が多いのでそれなりに現場を知っているつもりではいますが、教師って大変な仕事だと思います。今回赤い三角定規様が書かれている様に、陰湿な虐めを解決して行くのも一筋縄では行かないと思うし。「好い加減さを直す。」という趣旨の元に自分(giants-55)は学級委員に選ばれたのだと思っていますが、結果的にはその事を感謝しています。虐めというマイナス要因は許せませんが、「重責」を委ねられる事で人が大きくなって行くのも確かで、何とか良い方向で運用されて行けば良いかなと。
5年前の記事「ミャンマーの政変で想う事」(http://blog.goo.ne.jp/giants-55/e/0bd82ff977c9d65e62f15554d22a9256)でも触れました様に、自分も小学生の頃に「差別行為」に加担した事が在ります。結局、その相手とは仲良くなったのですが、それからウン十年経った今でもあの時の卑劣な行為は、自分の心に澱となって残っています。人間って残酷な部分を持ち合わせているし、判断能力が未熟な子供は一層それを出してしまうもの。
「差別」という言葉を悪用された結果、罪無き者が被害者になってしまうというのは、本当に許し難い事。そういう不埒な連中が居るからこそ、本当に守られなければならない被差別者迄白い目で見られてしまう。全く以って、困ったものです。
実をいうと右翼系も厄介でした。教育団体としての提言なんだかゆすりたかりなんだかようわからない人たちがいましたから。あと妙に神がかった狂信者みたいな人とか。
丁重に玉虫色の中の玉虫色のような対応をして帰っていただいていました。
>自身のストレスを充足させる為だけに度を過ぎた体罰を行う教師
そういった人の苦情処理も大変でした。
こういう人って、親にはいい顔をしたりするんでPTAの中では意見が割れてたりするんですよ。
あと本人に対する面談などの処理も…。
ところでその元の記事を読みまして気になりました。
>大阪以南に多い
「大阪以西」が正しいのではと(笑)
大阪以南だと奈良と和歌山と三重しかありません。どうでもよいようで凄く気になってしまいました。