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ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺の計画と実行の指揮者で在ったアドルフ・アイヒマンは、十五年の逃亡の末に逮捕され処刑されたが、裁判に於いて実に見事に弁明したものだ。「私は専門的技術者としてヒトラーの命令を忠実に実行しただけであって、責任は無い。」と。これは究極の「乾いた三人称の視点」の証言と言えるだろう。
このアイヒマンの弁明は歴史の彼方の他人事では無い。ネット社会が大量生産している「乾いた三人称の視点」が引き起こしている様々な事件や事態に共通するものなのだ。残虐さの度合いやスケールの点で違いこそすれ、人間は状況や条件によって容易に「乾いた三人称の視点」に陥り、そうなると何をするか判らないという事の究極の教訓として、アイヒマンの弁明は生きているので在る。
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ノンフィクション作家の柳田邦男氏(民俗学者の柳田國男氏とは別人。)の著書「人の痛みを感じる国家」に載っていた文章。彼はこの本の中で、ネット社会に蔓延る陰湿な中傷合戦を憂い、その根底には「乾いた三人称の視点」が在るのではないかとしている。
昨年の秋頃、或るニュースがネット社会で大きく取り上げられていた。恐らく御存知の方も少なく無いと思うが、「心臓病の4歳の子にアメリカで心臓移植の手術を受けさせる為の募金活動を始めた両親と支援者の会に対し、ネット上の匿名掲示板や会のホームページに非難と中傷の書き込みが殺到した。」というあの一件だ。当初はその手の書き込みが無かった様だが、「この子供の両親が共にNHKの職員で、父親は53歳のプロデューサー、母親は45歳のディレクター。」という事実が明らかにされて以降、一気に非難&中傷の書き込みが雪崩を打つ様にされ始め、多い日には支援者の会の「応援ブログ」への書き込みが数百件、会へのメールが約百件にも上ったという。
この両親は自力で家を抵当にしやローン等で3千万円を用意したものの、海外で心臓移植を受ける為には総額1億3千6百万円もの費用が掛かる事から、職場の同僚や保育園の保護者等が「救う会」を作り、1億円の募金活動を始めた。しかし最初の段階でこの両親のプロフィール(身分や資産等)が公開されていなかったという事で、「又死ぬ死ぬ詐欺ですかw」、「身分や資産を隠して大金を集めようとしている。」、「親は身銭を切る可きだ。」、「子供をだしにした詐欺だ。」といった非難&中傷が殺到したのだった。
誤解しないで欲しいのだが、「救う会」的な物の中にはいかがわしさを感じる存在も確かに在り、その全てに対して盲目的に&諸手を挙げて賛成す可きだ等と言いたいのでは無い。明々白々な証拠、乃至は「これこれこういった理由から、何それはおかしいと思う。」といった理由を挙げ、HNでも構わないので然る可き名前を名乗った上での批判ならば、それはそれで一つの意見だと思う。問題なのは、単に感情に任せただけの罵りを、名前も名乗らずに他者に対して浴びせ掛ける事。「不正事件を起こした政治家でも無い病気の子を持つ普通の親が、何処の誰だか判らない1千人を超える”名前の無い人”から中傷の言葉の集中砲火を浴びるとは、この時代と社会の何と不気味な事よ。」と柳田氏は記しているが、その通りだと自分も思う。
著名人のホームページやブログが、所謂”炎上”騒ぎに在っていると報じられる事が珍しく無くなって来ている。実際に当該するホームページ等を覗くと、「確かに非難されて当然だろうな。」と思われる文章等が少なく無い。だから非難や中傷の殺到自体を自分は否定するものでは無いが、中には明らかに難癖を付けている、揚げ足取りをしているだけとしか思えない書き込みや、「何処何処のホームページ(又はブログ)を皆で炎上させよう!」といった書き込みによって集まって来ただけの”愉快犯”的な輩の書き込みも結構目立ち、そういうのに限って”名無し”なのだから、これはどうかと思うのだ。非難や中傷をするので在れば、HNでも構わないのできちんと名乗った上、然る可き証拠や自分なりの理由を挙げた上で為すというのが、一般社会の”仁義”ではないだろうか。
最後に、柳田氏が「ネット社会に於ける陰湿な中傷の横行の根底に在る4つの問題点」を挙げているので、それを紹介したい。
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① 匿名化は、その究極の姿で在る透明人間(人格の透明化)の場合を想定すれば明らかな様に、他者がどの様に辛い状況に置かれて居ようとも、或る時はその中に泥靴で平気で踏み込んで行くかと思えば、或る時は何処か遠くの知らない国の出来事を見る様な何の感情も催さない冷淡な言葉を吐いて平然としているといった具合に、他者を完璧な迄に「乾いた三人称の視点」でしか見なくしてしまう。通常の感覚或いはモラル感を持っている人で在れば、難病の子を育てる日々で疲れ苦悩している親の面前で、自分が何者で在るかをきちんと明らかにした上で、「又死ぬ死ぬ詐欺ですか、アハハ。」と言えるだろうか。ところが、匿名可能なネット社会では、何百、何千という人々が、平然とそういう事をやっているのだ。
② 匿名による発信が日常的に自由に出来る生活をしていると、心の中の反社会性或いは悪の面が絶えず優位に立ち、自分の行為に対する倫理的判断が麻痺状態になる。言い換えるなら、匿名化を広範に許すネット社会或いはインターネットの技術には、人の心の反社会性や悪の面を行動へと誘導する機能が潜んでいるのだ。
③ ネットによる匿名化で誘導される心の悪の面は、ストレートな攻撃的感情だけでは無い。妬み、やっかみ、僻み等の歪んだ感情をも活性化させ、その事が他者に対する中傷や攻撃の言葉や文章を一層陰湿な物にして行く。自分の発言が根拠の在る物なのかどうかはどうでも良く、言いたい放題で通るのだ。
④ 子供の頃から、そういう無責任な匿名発信に慣れてしまうと、人格構造に歪みが生じ、そのまま大人になると、歪んだ人格構造が固定されてしまう恐れが在る。
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ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺の計画と実行の指揮者で在ったアドルフ・アイヒマンは、十五年の逃亡の末に逮捕され処刑されたが、裁判に於いて実に見事に弁明したものだ。「私は専門的技術者としてヒトラーの命令を忠実に実行しただけであって、責任は無い。」と。これは究極の「乾いた三人称の視点」の証言と言えるだろう。
このアイヒマンの弁明は歴史の彼方の他人事では無い。ネット社会が大量生産している「乾いた三人称の視点」が引き起こしている様々な事件や事態に共通するものなのだ。残虐さの度合いやスケールの点で違いこそすれ、人間は状況や条件によって容易に「乾いた三人称の視点」に陥り、そうなると何をするか判らないという事の究極の教訓として、アイヒマンの弁明は生きているので在る。
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ノンフィクション作家の柳田邦男氏(民俗学者の柳田國男氏とは別人。)の著書「人の痛みを感じる国家」に載っていた文章。彼はこの本の中で、ネット社会に蔓延る陰湿な中傷合戦を憂い、その根底には「乾いた三人称の視点」が在るのではないかとしている。
昨年の秋頃、或るニュースがネット社会で大きく取り上げられていた。恐らく御存知の方も少なく無いと思うが、「心臓病の4歳の子にアメリカで心臓移植の手術を受けさせる為の募金活動を始めた両親と支援者の会に対し、ネット上の匿名掲示板や会のホームページに非難と中傷の書き込みが殺到した。」というあの一件だ。当初はその手の書き込みが無かった様だが、「この子供の両親が共にNHKの職員で、父親は53歳のプロデューサー、母親は45歳のディレクター。」という事実が明らかにされて以降、一気に非難&中傷の書き込みが雪崩を打つ様にされ始め、多い日には支援者の会の「応援ブログ」への書き込みが数百件、会へのメールが約百件にも上ったという。
この両親は自力で家を抵当にしやローン等で3千万円を用意したものの、海外で心臓移植を受ける為には総額1億3千6百万円もの費用が掛かる事から、職場の同僚や保育園の保護者等が「救う会」を作り、1億円の募金活動を始めた。しかし最初の段階でこの両親のプロフィール(身分や資産等)が公開されていなかったという事で、「又死ぬ死ぬ詐欺ですかw」、「身分や資産を隠して大金を集めようとしている。」、「親は身銭を切る可きだ。」、「子供をだしにした詐欺だ。」といった非難&中傷が殺到したのだった。
誤解しないで欲しいのだが、「救う会」的な物の中にはいかがわしさを感じる存在も確かに在り、その全てに対して盲目的に&諸手を挙げて賛成す可きだ等と言いたいのでは無い。明々白々な証拠、乃至は「これこれこういった理由から、何それはおかしいと思う。」といった理由を挙げ、HNでも構わないので然る可き名前を名乗った上での批判ならば、それはそれで一つの意見だと思う。問題なのは、単に感情に任せただけの罵りを、名前も名乗らずに他者に対して浴びせ掛ける事。「不正事件を起こした政治家でも無い病気の子を持つ普通の親が、何処の誰だか判らない1千人を超える”名前の無い人”から中傷の言葉の集中砲火を浴びるとは、この時代と社会の何と不気味な事よ。」と柳田氏は記しているが、その通りだと自分も思う。
著名人のホームページやブログが、所謂”炎上”騒ぎに在っていると報じられる事が珍しく無くなって来ている。実際に当該するホームページ等を覗くと、「確かに非難されて当然だろうな。」と思われる文章等が少なく無い。だから非難や中傷の殺到自体を自分は否定するものでは無いが、中には明らかに難癖を付けている、揚げ足取りをしているだけとしか思えない書き込みや、「何処何処のホームページ(又はブログ)を皆で炎上させよう!」といった書き込みによって集まって来ただけの”愉快犯”的な輩の書き込みも結構目立ち、そういうのに限って”名無し”なのだから、これはどうかと思うのだ。非難や中傷をするので在れば、HNでも構わないのできちんと名乗った上、然る可き証拠や自分なりの理由を挙げた上で為すというのが、一般社会の”仁義”ではないだろうか。
最後に、柳田氏が「ネット社会に於ける陰湿な中傷の横行の根底に在る4つの問題点」を挙げているので、それを紹介したい。
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① 匿名化は、その究極の姿で在る透明人間(人格の透明化)の場合を想定すれば明らかな様に、他者がどの様に辛い状況に置かれて居ようとも、或る時はその中に泥靴で平気で踏み込んで行くかと思えば、或る時は何処か遠くの知らない国の出来事を見る様な何の感情も催さない冷淡な言葉を吐いて平然としているといった具合に、他者を完璧な迄に「乾いた三人称の視点」でしか見なくしてしまう。通常の感覚或いはモラル感を持っている人で在れば、難病の子を育てる日々で疲れ苦悩している親の面前で、自分が何者で在るかをきちんと明らかにした上で、「又死ぬ死ぬ詐欺ですか、アハハ。」と言えるだろうか。ところが、匿名可能なネット社会では、何百、何千という人々が、平然とそういう事をやっているのだ。
② 匿名による発信が日常的に自由に出来る生活をしていると、心の中の反社会性或いは悪の面が絶えず優位に立ち、自分の行為に対する倫理的判断が麻痺状態になる。言い換えるなら、匿名化を広範に許すネット社会或いはインターネットの技術には、人の心の反社会性や悪の面を行動へと誘導する機能が潜んでいるのだ。
③ ネットによる匿名化で誘導される心の悪の面は、ストレートな攻撃的感情だけでは無い。妬み、やっかみ、僻み等の歪んだ感情をも活性化させ、その事が他者に対する中傷や攻撃の言葉や文章を一層陰湿な物にして行く。自分の発言が根拠の在る物なのかどうかはどうでも良く、言いたい放題で通るのだ。
④ 子供の頃から、そういう無責任な匿名発信に慣れてしまうと、人格構造に歪みが生じ、そのまま大人になると、歪んだ人格構造が固定されてしまう恐れが在る。
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冒頭で紹介されたアイヒマンの発言を見て官僚機構の責任感覚と同じだなと思いました。
官僚機構では責任は個人ではなく、その職について回り、前職の責任も引き継いでしまうのだそうです。従って人事異動で責任がうやむやになり、誰も責任を取らなくてすむ仕組みです。
日本の組織には官民を問わずこういった官僚機構的な組織がたくさんあるのではないかと思います。個人に責任をきっちり問えるような仕組みを作ることが不祥事を防止することができるではないかと思います。
一方で、一度ペナルティーを受けた人でも「再チャレンジ(この言葉死語になりました?)」できる仕組みも併せて必要だと思います。
哀しいかな人間は、いざ自分が”透明人間化”してしまうと自制心を失いがちな生き物。インターネットの売りで在る”自由さ”を何処迄残し、同時に無辜の民が理不尽な被害を受けない為の”規制”を何処迄するか。その辺の折り合いと言いますか、落とし所を考えて行かないといけないでしょうね。ネット社会が無法地帯で在っては絶対にならないです。
ネットはこれほど便利でコミュニケーションのとれるものはありません。
しかし残念ながら使う人間のほうが匿名性にかくれて
言いたい放題。やりたいほうだい。弊害が目立ちます。
件のNHK職員の子供さんの話など品性のかけらもない。
そんなことでストレスを発散してるなら相当に程度の低い人達ですね。いやカワイソウな人だ。
私は今の社会が嫉妬や僻みといった人間の感情のなかで最も恥ずべき劣情を肯定してるところに原因がある気がしてなりません。
学校の虐めで虐められほうに原因があるなんて言う輩がいるのが何よりの証拠だと思います。
まあ人の悪口ばかり言うのも品がないので、
「ウルトラマンメビウス」でも見て心を洗われてください。ってオススメしますね。
或る時は「警官」、そして又在る時は「教師」や「NHK職員」、「公務員」等々。その時代時代に於いて、不祥事が続くと特定の職業に対して非難や中傷を集中するというのはまま在りますね。今で言えば「TBSの職員」辺りが当該するのでしょうが。
記事の中で取り上げた一件は、相次ぐNHK職員の不祥事というのが間違い無く背景に在ったとは思いますが、だからと言ってそれに乗じて根拠の無い非難や中傷を、それも匿名で面白おかしく”祭り”にするというのは人としてどうかと思います。恐らくそういう事すらも考えられない状況なのだとは思いますが、もし自分自身が同じ目に遭ったらどう思うか?という事を先ずは考えて欲しいもの。
自分も所謂「葉書職人」の一人でした。まあディープな部類では無く、時折投稿しては「読まれないかなあ。」とドキドキしながら番組を聴くという範疇でしたが。今は判りませんが、あの頃の葉書職人は皆それなりの矜持を持って投稿していた様に思います。「名無し」なんで無粋な者は居らず、実に個性的なHNが多かったですから。
あまりにぴったりなので膝を叩いてしまいました。
無規範蔓延国家としては当然でさあね。
>そういう無責任な匿名発信に慣れてしまうと
約35年前ぐらいから「ハガキ職人」という文化が出来たように思います。「匿名発信文化」もその頃はまだ素朴だったように思うのですが…。
ホント、前回のコメントでも書きましたけど、まずは「大人」がおかしくなってますよね・・・
「自分だったらどうだろ?」と、相手の立場や視点に立ってみる事や、自分ごとに捉えてみれば「思いやり」や「いたわり」の行動が成り立つと思うのですが・・・匿名をいいことに、ホント卑劣ですよね。
心の渇いた部分を他人を傷つけることで穴埋めしても、同じような”渇いた”人をふやし、自身もそういう行動をした自分に烙印を押しておとしめ、傷つくだけでしょうに。
「あなたの与えるものが、あなたの得るものです」
本で何度も目にしたこの言葉を、自分は信じます。
負の感情の連鎖を、自身で終わりにする強さを持ちたいですよね。