「生まれ乍らのジャイアンツ・ファン」を自負しているものの、ジャイアンツと共に歩んで来たウン十年の間で、数年だけ他チーム“にも”思いを寄せていた時期が在る。名古屋に住んでいた幼少期の1974年、20年振りのリーグ優勝を果たしたドラゴンズに名古屋人は歓喜していた。ジャイアンツ・ファンの自分も“地元チーム”の優勝は嬉しかったし、涙を流しもした。当時大ヒットしていた或る歌を口遊んでは、歓喜の輪の中に身を置いていたのが懐かしい。
「当時大ヒットしていた或る歌」とは、元ドラゴンズの投手・板東英二氏が歌う応援歌「燃えよドラゴンズ!!」(曲)。最初に覚えた「プロ野球チームの応援歌」という事も在り、自分にとって此の歌は特別な存在。其れ故に5年前、「『燃えよドラゴンズ!』 ~あの選手達の今~ Part1、Part2&Part3」という記事で、初代「燃えよドラゴンズ!!」に名前が登場した26人の「選手及び首脳陣の今」を振り返ったりもした訳だ。
件の記事を書き上げた時点で、既に鬼籍に入られていた方が居た。広瀬宰氏(享年52歳)と近藤貞雄氏(享年80歳)の御二方。5年前の時点で最も若い方でも51歳だったのだから、物故者が居られてもおかしくは無いのだけれど、最高齢の80歳にして御元気な方も居られた。1974年にドラゴンズの監督を務めていた与那嶺要氏が其の人だが、一昨日、ホノルルで前立腺癌にて亡くなられたと言う。享年85歳。
日系2世の彼がジャイアンツに入団したのは1951年の事で、当然乍ら自分は彼の現役時代を全く知らないけれど、激しいスライディングやセーフティー・バント等、其れ迄の日本球界では見られなかった本場の技術を持ち込んだ選手というのは知っている。「御嬢さん野球」を、「戦闘的で戦略的な野球」に変えさせた人物と言っても良いだろう。
「1951年に達成した1イニング3盗塁。」や「ホーム・スチール数11回。」は、未だに破られていない日本記録。選手として日本球界に飛び込んで以降、コーチや監督として38年間1回もユニフォームを脱がなかったというのも凄い。又、「小学5年生の時に初めて後楽園球場を訪れた王貞治氏が、スター選手からサインを貰おうとするも皆無視して通り過ぎてしまったのに、与那嶺氏は快くサインをしてくれた。其の事がとても嬉しかった王氏は野球選手になって以降、出来得る限りサインに応じる様にしている。」というのは有名な話。
プレーでもファン・サービスでも、日本球界を変えた男・与那嶺氏。「与那嶺監督の胴上げだ♪」と歌われた彼の年から37年、天国へと旅立って行った。合掌。