今回のテーマは非常にセンシティヴな物で在る事から、事前に断りを入れさせて貰うが、今から書く事は飽く迄も私見で在り、他に色んな考え方が在って良いと思っている。其の辺を理解して戴いた上で、以下の記述を読んで戴けたら幸い。
我が国は“高齢化社会”を通り越し、“超高齢社会”に突入している。超高齢社会になったという事は、今後、此れ迄には無い程多くの人が亡くなり続けて行くという事で在る。そういう現実から最近は、「死」や「葬儀」に関する特集を良く見聞する様になった。
「葬儀」に関して言えば、従来の形式に拘らない人が増えて来ている様だ。「大勢の人が参列する様な形では無く、身内だけでひっそりと行いたい。」という人も少なく無く、実際、芸能人でも此の形式を選択するケースを、最近は良く見掛ける。又、火葬のみの葬儀形式で在る“直葬”というのも、増えて来ている様だ。
自分が死んだ際は、直葬で良いと思っている。遺族に出来るだけ負担を掛けたくないし、基本的に「人は亡くなったら、物になる。」という考え方だから。戒名も要らないし、墓は既に所有しているけれど、“散骨”という形式も悪く無い。
「亡くなったら墓に入る。」という考え方に、捉われる必要は無いと考えている。国土が決して広くは無い日本なので、墓がどんどん増えて行くというのはどうかと感じるし、ライフスタイルの変化(「長男が墓を守る。」という考え方の変化等。)から墓守不在となった“無縁墓”が増えている事も、そう考える理由。
「親の骨を墓に納骨した際、(地域の習慣で骨壺に入れないで)直接骨を暗く、じめじめとした所に納めるのを目にして、『自分は、こういう所に入りたくない。』と強く思った。」という体験談を、先日読んだ。其の気持ち、非常に理解出来る。
「亡くなったら墓に入る。」という考え方の背景には、「焼いた骨は、其の儘の形で骨壺に入れる。」という形式が、大きく影響している様に思う。焼いた骨を細かく砕くという“粉骨”が一般化すれば、“粉”になった分、散骨といった形式への抵抗感も薄れるのではないだろうか。
勿論、「骨を砕くという行為自体に、抵抗を覚える人が少なく無い。」のは理解している。今からウン十年前、父が亡くなって火葬した時、「骨壺に入り切れないので、申し訳無いけれど、一部の骨を砕かせて貰います。」と火葬場の担当者から言われた。其の時は「えっ・・・。」と思ったし、何とも言えない複雑な感情になったので。
でも、馬齢を重ねる中で、上記した様に「人は亡くなったら、物になる。」という思いに変わって来たし、「粉骨したとしても、亡き人は自分の心の中で生き続けている。」と考えれば、個人的には粉骨に抵抗は無い。
閑話休題。
母が亡くなった時、喪主を務めたのですが、諸般の事情とと私の宗教的信条から、骨壺の遺骨は宗派の本山に収めたものの、母の思いを尊重して南洋が望める海に一部を散骨しました。
そんな経験からも、残された遺族の見栄ではなく、亡くなった本人の意思を尊重するのが一番だと思っています。
私も残された者に負担をかけない直葬が一番いいなと、折に触れ嫁さんと話していますよ。
「故人の遺志を尊重したい。」、其の通りだと思います。家の母も「身内だけひっそり行って欲しい。戒名とかは要らない。」と言っており、出来るだけ其の意に沿いたいと思っていますし。
以前に書いた話ですが、祖父の葬儀を行った際、(祖父の)大学時代の同級生が何人か参列しました。自宅で行った為、狭い1室に入って貰ったのですが、人が亡くなったというのに、彼等は何事も無かったかの様に談笑していた。中には、超有名企業の会長を務めている者も居た。「年齢的に死という物が遠い存在では無く、だからこそ葬儀という場にも“普段の感覚”で臨んでいる。」という面は理解出来るけれど、其れでも身内としては憤りを感じた物。そういう経験も在り、「葬儀をするにしても、身内だけでひっそりと行いたい。」という思いが強くなりました。