先日、ホークスの名誉顧問だった中内正氏が、ジャイアンツのオーナー顧問に就任した。そのニュースに深い違和感と疑念を覚え、「粗大ゴミ回収」を記した訳だが、この記事を書く中で、自分は中内氏と或る人物を重ね合わせていた。その人物の名前は劉禅。
三国志通ならば、この名前にはピンと来るものが在るだろう。今から1,800年程前の中国は、後漢が滅亡し、国状が乱れ果てた戦国の世を経て、魏・呉・蜀という三国が並び立つ三国時代を迎える。唯、その三国が並び立っていた時代も束の間に過ぎず、新たな国(指導者)が全てを飲み込んで行ってしまう。そんな波乱万丈な時代を描いた歴史書が「三国志」。そして、それを元に様々な”味付け”が施され、通俗歴史小説として後に書かれたのが「三国志演義」。一般的に我々が「三国志」と呼んでいるのは、この「三国志演義」を指しているのが殆どな訳だが、魏&呉の諸侯や武将の魅力も然る事ながら、蜀の大将で在る劉備と、その義兄弟たる関羽及び張飛、そして名軍師の孔明の存在は際立って有名なのではないだろうか。
人徳に溢れた人物として描かれる劉備に対して、その息子で在る劉禅の評価はボロクソと言っても良いだろう。父親で在り、蜀の初代皇帝でも在った劉備が亡くなった後、彼は二代目の皇帝に就任するが、宦官の黄皓を寵愛し、彼の言うがままに酒や女に明け暮れる日々を送った事で、蜀を滅亡に導いた暗愚な二世として描かれている。
自分が最初に「三国志」に触れたのは横山光輝氏の漫画だったが、その中でも魏に降伏した事で自らの命は救われ、地方に追い遣られた(安楽県の安楽公に封じられた。)劉禅が描かれている。宴会の席で魏の将(司馬昭)から「どうじゃな。蜀が恋しいと思いませぬかな?」と尋ねられた劉禅は喜色満面に次の様に答えている。
「いやいや此処は楽しい。蜀が恋しいとは思いませぬ。ははは、楽しいのう。泰平に乾杯!」
その言葉に、劉禅の家来のみならず魏の将達は唖然となる。父劉備やその家臣達が命を投げ打って築き上げた蜀の国。その国と国民を自らの命と引き換えに放擲したばかりか、その事を何とも思わずに今を楽しんでいる劉禅に、”敵国だった”魏の将すらも「何という男じゃ。これでは孔明が生きておっても、蜀の運命はどうにもならなかったで在ろう。」と嘆く。
そして、それを見かねた蜀以来の家臣(郤正)が劉禅を、「今度あの様な質問をされた時は、もう少し悲しそうな顔を為されて下さいませ。陛下の為に死んでいった者の気持ちも御察し下さいませ。」と涙ながらに諌める。良く在る二代目の馬鹿ボンボンの姿。今でも中国では、劉禅の幼名で在る「阿斗」は、暗愚な者という意味で使われている程だ。
ホークスという”国”を滅亡の瀬戸際迄追い込み、読売グループという”国”に逃げ込んだ中内Jr.に、劉禅を重ね合わせてしまう所以が其処に在るのだが、この事を「にわか日ハムファンのブログ」の「亡国の君主、未だ滅びず―中内正氏、讀賣オーナー顧問就任」という記事のコメント欄に書かせて戴いた所、管理者のルパート・ジョーンズ様から「自分も同じ様な連想をしたのだが、最近では劉禅が必ずしも暗愚な君主では無かったという説も出ている様。」というレスを頂戴した。(ルパート・ジョーンズ様、情報を有難うございました。)
御紹介戴いた説は、こちらのサイト((1)劉禅はバカ殿だったのか?)に載っている。面白い説なので、是非とも読んで戴きたい。
ルパート・ジョーンズ様はこの説に対して、「最初は違和感が大きかったが、『なるほど、こういう考え方も在ったのか。』と新鮮な驚きを得る事が出来た。」と書かれているが、自分にとっても目から鱗が落ちる思いが在った。方向を変えて見る事で、全く別の考えが生まれるという事なのだろう。とは言え、自分の中では「劉禅=暗愚な人物」というイメージを一変させる迄には到っていないのだが。
はてさて中内Jr.は、単なる二代目の馬鹿ボンボンに過ぎないのか?それとも昼行灯を装って、ジャイアンツを内部改革しようという賢明な人物なのだろうか?どう考えても、彼の場合は前者としか思えないのだが・・・。
三国志通ならば、この名前にはピンと来るものが在るだろう。今から1,800年程前の中国は、後漢が滅亡し、国状が乱れ果てた戦国の世を経て、魏・呉・蜀という三国が並び立つ三国時代を迎える。唯、その三国が並び立っていた時代も束の間に過ぎず、新たな国(指導者)が全てを飲み込んで行ってしまう。そんな波乱万丈な時代を描いた歴史書が「三国志」。そして、それを元に様々な”味付け”が施され、通俗歴史小説として後に書かれたのが「三国志演義」。一般的に我々が「三国志」と呼んでいるのは、この「三国志演義」を指しているのが殆どな訳だが、魏&呉の諸侯や武将の魅力も然る事ながら、蜀の大将で在る劉備と、その義兄弟たる関羽及び張飛、そして名軍師の孔明の存在は際立って有名なのではないだろうか。
人徳に溢れた人物として描かれる劉備に対して、その息子で在る劉禅の評価はボロクソと言っても良いだろう。父親で在り、蜀の初代皇帝でも在った劉備が亡くなった後、彼は二代目の皇帝に就任するが、宦官の黄皓を寵愛し、彼の言うがままに酒や女に明け暮れる日々を送った事で、蜀を滅亡に導いた暗愚な二世として描かれている。
自分が最初に「三国志」に触れたのは横山光輝氏の漫画だったが、その中でも魏に降伏した事で自らの命は救われ、地方に追い遣られた(安楽県の安楽公に封じられた。)劉禅が描かれている。宴会の席で魏の将(司馬昭)から「どうじゃな。蜀が恋しいと思いませぬかな?」と尋ねられた劉禅は喜色満面に次の様に答えている。
「いやいや此処は楽しい。蜀が恋しいとは思いませぬ。ははは、楽しいのう。泰平に乾杯!」
その言葉に、劉禅の家来のみならず魏の将達は唖然となる。父劉備やその家臣達が命を投げ打って築き上げた蜀の国。その国と国民を自らの命と引き換えに放擲したばかりか、その事を何とも思わずに今を楽しんでいる劉禅に、”敵国だった”魏の将すらも「何という男じゃ。これでは孔明が生きておっても、蜀の運命はどうにもならなかったで在ろう。」と嘆く。
そして、それを見かねた蜀以来の家臣(郤正)が劉禅を、「今度あの様な質問をされた時は、もう少し悲しそうな顔を為されて下さいませ。陛下の為に死んでいった者の気持ちも御察し下さいませ。」と涙ながらに諌める。良く在る二代目の馬鹿ボンボンの姿。今でも中国では、劉禅の幼名で在る「阿斗」は、暗愚な者という意味で使われている程だ。
ホークスという”国”を滅亡の瀬戸際迄追い込み、読売グループという”国”に逃げ込んだ中内Jr.に、劉禅を重ね合わせてしまう所以が其処に在るのだが、この事を「にわか日ハムファンのブログ」の「亡国の君主、未だ滅びず―中内正氏、讀賣オーナー顧問就任」という記事のコメント欄に書かせて戴いた所、管理者のルパート・ジョーンズ様から「自分も同じ様な連想をしたのだが、最近では劉禅が必ずしも暗愚な君主では無かったという説も出ている様。」というレスを頂戴した。(ルパート・ジョーンズ様、情報を有難うございました。)
御紹介戴いた説は、こちらのサイト((1)劉禅はバカ殿だったのか?)に載っている。面白い説なので、是非とも読んで戴きたい。
ルパート・ジョーンズ様はこの説に対して、「最初は違和感が大きかったが、『なるほど、こういう考え方も在ったのか。』と新鮮な驚きを得る事が出来た。」と書かれているが、自分にとっても目から鱗が落ちる思いが在った。方向を変えて見る事で、全く別の考えが生まれるという事なのだろう。とは言え、自分の中では「劉禅=暗愚な人物」というイメージを一変させる迄には到っていないのだが。

はてさて中内Jr.は、単なる二代目の馬鹿ボンボンに過ぎないのか?それとも昼行灯を装って、ジャイアンツを内部改革しようという賢明な人物なのだろうか?どう考えても、彼の場合は前者としか思えないのだが・・・。

「リミッターを掛ける。」というのは、「ギャンブル依存症に陥る人間を作らせない。」という意味で効果は在りましょうが、寺銭を少しでも多く得たい胴元からの突き上げも在り、現実的に導入するのは難しいかも。
カジノ関連機器のメーカーには安倍首相の“御友達”が居ますし、カジノ関連施設等への天下りも多くなりそうだし、国を食い物にする連中の為のカジノ法案という感じがしてなりません。
これが出来ればパチンコや競馬など限りなく突っ込んで破滅させる「目腐れ賭博」を絶滅できます。自己制御できない人が賭博するのが危険ならば、資産(申告する現金の範囲内)でのみの参加を決めて、負けが一定率を越したならばストップを強制すれば良いのです。
むしろ「止めのない」他のバクチを撤廃してコントロール下に置けるだけ安全では?
「散歩」の語源(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%A3%E6%AD%A9#.E3.80.8C.E6.95.A3.E6.AD.A9.E3.80.8D.E3.81.AE.E8.AA.9E.E6.BA.90)、今回初めて知りました。「何で『散り歩く』って書くんだろう?」と不思議には思っていたけれど、よもや「五石散」なるドラッグが在り、其れが語源とは・・・其れも三国時代に迄遡るというのは、非常に興味深い話。
人は、快楽に溺れ易い生き物。だからこそ、カジノ法案をごり押しで通すのでは無く、メリットとデメリットに付いて深く審議した上で、どうするか決めるべきだと思うのですけれどね。カジノによって日本が潤うので在れば、其れは決して悪い事では無いけれど、「儲かるから。」とカジノを導入して、結果的には財政悪化を招いた所も在るし、何よりもギャンブル依存症の増加での支出増大が懸念されます。目先の金儲けだけに目を取られ、妙な形で国が変質して行くとしたら・・・憂うべき事だと思うのですが、どうにも一般国民の危機感が薄い様に感じております。
三国時代から唐朝に禁止され根絶されるまで、300年間で300万人を中毒者にした(孫文説)、
「五石散」というドラックが語源。服用による熱を歩いて発散したから散歩。
この麻薬の最初の中毒者は曹操の甥です。魏の宮廷に蔓延していたそうです。南北朝の時代に清談に用いられた覚醒剤ですから、詩人の曹操の宮廷に蔓延するのも頷けますが。
なぜか孔明が雲南~越南、ビルマのエリアに侵出した直後から歴史に登場してるのです。
この地域はタミフル(イユフルエンザ特効薬だが、精神錯乱の副作用が若者にはある)の原材料など、薬効が高い生薬が多く産出します。
そして20世紀まで「黄金の三角地帯」でした。
麻薬が手に入っても、それを密輸して流通させる組織がないと敵国に蔓延させられません。
だが蜀漢王朝は代用できる連中と縁が深い!
塩賊です。
原価の数十倍の値段で塩(公塩)を専売する各王朝に対して、私塩を密売する集団です。必然的に国家と対立するので、独自の諜報網、武力、港湾倉庫施設に船舶など持つ。実態は麻薬ゲリラに限りなく近い!
劉備は「皇室の裔を名告る馬泥棒」
関羽は「指名手配の殺人犯。元塩賊?」
張飛は「人殺し大好きの肉屋」
この三人が燕(北京周辺)で挙兵してます。燕は軍馬と岩塩の産地(関羽は岩塩産地の出身)です。
塩は馬で運ばれ、肉を塩漬し、肉屋は倉庫を持つ……この三人は元々、塩密売で繋がれた仲で、
内乱で商売がたち行かず傭兵に転じたものと疑っています。
蜀も塩を産するのですが、孔明が「専売」にした時に、反乱が起きてないのです。
「こっちの方が儲かるぜ!」と塩商人に「麻薬」を渡したのならば反乱なしも頷けます。
魏を内部から破壊する為に、孔明が「五石散」という麻薬を組織的に密売したのでは?
かように疑うのだあります。
詳細な御説明、非常に勉強になります。徳川慶喜のプラス評価に付いては、正にhigu様が書かれた通りです。そして、松平容保に付いてもマイナス評価が確かに在りますよね。
人を評価する為の指標って色々在ると思うのですが、ハッキリ分かれるのが、判断基準を「情と理」のどちらに重きを置くかによってというのも在ると思います。”得てして”情の部分に重きを置くと、容保は「義に徹した男」で在り、慶喜は「家臣を捨てて逃げ出した男」という評価になりがち。理の部分に重きを置くと、higu様が書かれておられる様な評価と、全く逆の目で考えられるのも歴史考察の面白い所では在ります。
「七卿落ち」の三条実美等も、「あっちに付いたり、こっちに付いたりのずるいコウモリ。」という評価も在れば、「温和でバランス感覚に優れ、組織(政府)の調停役を勤めていた。」と良い評価も在り、これ又面白いです。
慶喜の「禁裏守衛総督」は幕府の職でも、朝廷の職でもなくこの政権は「朝幕政権」で幕府と朝廷の間を取り持ったそうです。
又慶喜が大政奉還して江戸時代は終わった、とされますがそれは慶喜が政権を投げ出したのではなく、彼は上院(大名)や下院(選挙で選ばれた人物)等のある明治政府のような“絶対主義国家”の頂点に立とうとしていた、そうで、事実彼のブレーンにはオランダ帰りの者も多かったようです。
一方、「政治能力ゼロだったのでは?」とも言われるのが松平容保。京都守護職の職を務めるのは金がかかり「職を辞すべき」と家臣から言われますが、家臣団を統制できないばかりか家老とも対立。
京では容保の「死亡説」が度々出たぐらいであったそうです。
以前、higu様が「酒を酌み交わしたい暦史上の人物」に小早川秀秋を挙げておられた際、自分の中では彼に対してマイナス・イメージしかなかった為、「何で?」という思いが湧きました。それ故に、その理由を御伺いした訳ですが、理由を拝読させて戴き、「そういった物の見方も在るのか。」と唸ってしまった次第です。
人物の評価は個々人によって異なるのが常。ましてや、同一人物が評価する場合でも、見方を一寸変えるだけでその評価が変わってしまう事も珍しく在りません。
”最後の将軍”徳川慶喜に関する評価も、一般的にはマイナスのものが多いと思われますが(自分もそうなのですが。)、これも最近ではプラスに評価する説も在りますよね。劉禅もそういった説が力を持って行くのか否か、興味在る所です。
武将としては能力が低くても長生きした人には今川義元の子、氏真がいますね。桶狭間の後武田と徳川に領地を奪われましたが生き長らえ、江戸幕府の時代には高家として取り立てられて明治まで存続。維新後本家は途絶えましたが分家は存続しました。余談ですが、あの名君・吉良上野介義央の吉良家は今川の分家に当たります。
劉禅の評価は難しいですね。でもその説を聞くと大した人物だったのかも、とも思います。父親達が余りにも“美化”され偶像化された為その分評価が低いのは二代目の哀しみなのかもしれません。
研究がもう少し進んで劉禅の実像が明らかになって欲しいと思う反面、従来のイメージが変わってしまう事に僅かな寂しさも感じています。しかし故人の名誉に関わる問題ですので、やはり「名君説」が本当ならそれを裏付ける史料が発見されて欲しいですが、多分無理でしょうね。
日本の戦国時代ですが、毛利輝元の評判は、祖父の元就や叔父の小早川隆景などと比較するとかなり低く、毛利家を没落させた張本人という評価がされています。しかし、関が原の合戦で大幅に減封された後も疲弊した藩政を立て直し、長州藩が雄藩たる礎を築いた手腕(家臣が偉かったという説もありますが)は評価すべきだと思います。
劉襌はあの激動の時代に国を滅ぼされたにも関わらず天寿を全うしたということは、それなりに能力はあったのではないかと思います。特に蜀を滅ぼした魏の有力な武将が権力争いの中で次々に滅んでいくなかで一言間違えれば、即謀反の疑いで処断されかねない状況では、かなりの政治感覚があったのかもしれません。
父親の劉備も曹操の警戒を解くため雷に怯えたふりをして「雷怯子」と呼ばれた言われていますし、劉襌にも父親譲りのしたたかさがあったと信じたいですね。
特に最近の中国を見てると、そう思いますわ。
中国の大昔の詩人は、総じて酒飲みが多いのがなんとなく、納得できるような・・・。
すんません、記事と関係ないことを書いてしまいました。
阿斗、劉襌って実はすごくしたたかで、生き延びることを思いついた、今の中国にはふさわしくないことを、成し遂げているような人材な様な気もしますなぁ。彼の生き方は確かに、多くの人に不埒な輩と映るが、そもそも赤子時に
母親の命と引き換えに、彼は生き延びた。(母親はこの子は生かせてくれと、将軍に頼み、井戸に身を投げた・・。うろ覚えです、何せ大昔のことだから・・。しかし、いつ見ても不埒のラチは、将という字にも似てるな)そのときに、生き延びることとは、どういうことか悟ったのかもしれないと、思ったことがあります。
あの戦の時代、こんな輩は、阿保の代名詞になりうるのは、当然しかも中国だし・・。あの時代の異端児だろうが、魅力的に見えましたな。
しかし、中内junior、そんな考えがあるとは
思えませんな。
因みに三国志、横山さんのが俺も最初でした。
その後に、はまったのがNHKの人形劇の三国志でした。