ば○こう○ちの納得いかないコーナー

「世の中の不条理な出来事」に吼えるブログ。(映画及び小説の評価は、「星5つ」を最高と定義。)

不謹慎か否か

2008年06月13日 | 時事ネタ関連
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秋葉原事件の被害者撮影 モラル論議が巻き起こる」(6月12日、J-CASTニュース

秋葉原通り魔事件の被害者を携帯等で撮影した人達が、「不謹慎」等と叩かれ、論議になっている。市民がネットで次々に情報発信したこの事件では、マスコミと同じ様なモラルが問われている様だ。

通り魔事件では週刊誌各誌が、凄惨な現場にレンズを向けた人達にも矛先を向けている。週刊新潮2008年6月19日号では、亡くなった2人の友人で在る東京電機大学生の怒りを紹介した。この学生は応急処置の出来る人が直ぐに集まったものの、倒れた2人を携帯電話やデジカメで撮っている野次馬が周りに沢山居たと告白。「不謹慎だから止めて下さい!」。こう叫んだが、皆止めようとはしなかったという。学生はミクシィの日記でもこの事を書き、「何なんだよ御前等、馬鹿ばっか・・・カメラぶっ壊してやろうかと、携帯逆折りしてやろうかと そう思った。」、「・・・何で?悔しくて涙が止まらなかった。」と打ち明けている。

被害者をケータイで撮りまくるアキバ系のイヤな感じ。こんな刺激的な見出しを付けたのが、週刊文春6月19日号。記事では「直ぐメールで送る。」と興奮して携帯で被害者を撮ったり、駅前の歩道橋上や交差点で携帯を翳したりする若者達言及した。そして、「非常に嫌な感じ。」とぼやく現場の記者の声を伝えている。

又、女性セブン6月26日号では文春と同様な見出しを掲げ、「不気味な光景」と指摘した。「写真なんか撮るな!」。こう怒る警察官も居たが、皆ソッポを向き、写真を見せ合っていたとしている。

こうして撮られた写真や動画は、友人等の間で私的に見られたらしい。その一方で、ネット上の掲示板や動画サイト等に投稿する人も多かった。惨劇の現場にいた人が発信しただけに、テレビよりも情報が早く、しかも書き込みや画像に直接体験者ならではの迫力が在った。

しかし人としてのモラルを考え、複雑な心境を漏らす投稿者も居た。動画配信サイト「Ustream TV」で実況中継した或るプログラマー。自らのブログ「Recently」の日記で、こう悩みを打ち明けた。これは唯の報道ごっこで在り、そんなの撮るんじゃない。不謹慎だ。とか思われるだろうし、警官の人にも『人の不幸を撮って楽しいか?』とか言われました。現場では映像のネタになると思って撮り始め、視聴者が1,000人を超えるとかなり興奮したという。投稿は反響を呼んで、2ちゃんねるにもリンクが張られた。「もしかしたら報道のカメラマンはこういう気持ちになってる人も居るんだろうなぁ~。」とも漏らしている。

同様にUstream TVで中継した化学関係の仕事の人は、ブログ「ぐんにょりくもりぞら」の日記で、「野次馬根性が無かったとは言い切れません。Ustの閲覧者が増えていき数百人を超えた辺りで或る種の高揚感が在ったのも認めます。そんな私は不謹慎なのでしょうか?」と揺れる心の内を明かした。中継したのは「その場での出来事を、あの場の空気を中継したかったからした。唯それだけでした。」という。

一方で、投稿の意義も感じている様だ。前出のプログラマーは、それでも、野次馬(一般市民)の人達が2次的被害に遭ってないとか、警察・救急の方々の仕事振り、犯人の逮捕状況(この時は逃走中)等リアル・タイムで伝える事が出来ただろうし、事件を知ってから現場に急行したテレビ局の報道の人達よりは、多くの情報を伝えられたと思う。と日記に綴っている。

ガ島通信」で知られるブロガーの藤代裕之さんは、日経ネットの6月10日付コラムで、投稿者モラルの問題を取り上げた。其処で藤代さんは、誰もが発信出来るとなると、『野次馬』と『報道』の違い、そしてマスメディアの正当性も揺らいで来る。として、「これ迄マスメディアの人達が経験した葛藤が誰にも起き得る。」と指摘している。

ライブドアでは世論調査サイトで、事件現場の撮影がモラルに反すると思うかどうかのアンケートをした。その結果、「思う」が66.89%で、「思わない」が33.1%だった。面白半分の撮影には否定的な一方、撮影の社会的意義も認めざるを得ないとの声の様だ。
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悲惨な事件が起こった現場からTV中継が在ると、レポーターの後ろでヘラヘラ笑い乍らVサインをしている人が映っていたりする。年端も行かぬ子供の所作ならば「しょうがないなあ。」と思うが、良い年をした者が結構遣っていたりする。幾ら自分には無関係な出来事とは言え、TPO弁えない“アレ”な人には、情けなさを通り越して哀れみすら感じてしまう。

自分自身も野次馬根性が旺盛な方なので、こういった現場に出くわした際に足を止めてしまう気持ちは判らないでもない。余りの惨状に何も出来ず、傍観しているだけという可能性も充分在り得る。だから偉そうな事は言えないのだが、被害者に対して“興味本位で”カメラを向けるのは不謹慎だと思う。唯、一般人が情報を発信する事を、全面否定するつもりは全く無い。マスメディアが捉え切れなかった事実が、一般人による情報発信によって明らかになるケースも当然在るだろうから。

カメラ付き携帯が一般化した今、「野次馬」と「報道」の境界線は非常にファジーになって来ていると言えよう。

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15 コメント

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Unknown (薔薇)
2008-06-13 12:59:34
報道のカメラとて人助けより先にスクープを優先させているのではないだろうか。 燃えてる家を対岸の火事として撮影しているし、泣き崩れる家族を撮影しているし、報道用の機材と携帯のカメラの違い以外、大差ないのではないだろうか。 報道のカメラが追いつかなかった時など度々素人の撮影した動画がニュースで使用されているが、あれなんかも報道が軽くなってきている要因のひとつとも思える。 そもそもニュースというよりは、ショーとしか思えない演出や何もわかっていない時点での、情報不足にもかかわらず、ありきたりな常套句を並べるあたりもバカみたいだ。 あたりは騒然とした空気に包まれました、緊張の色は隠せません、白昼の住宅街に衝撃が走りました、あたり一帯に暗い影を落としています・・・そうなの? 
身近にカメラがあればだれでもそうするだろうことをしたまでというのがほとんどで、それだけのこと。 不謹慎も含めて報道というのではないだろうか。 被写体に断りもなく撮影しているのはカメラの暴力ですが、緊急を要する報道にはそれが許されるにおいて、社会的使命を果たす義務がある。 けれど、やっぱりスクープや視聴率の方が頭にあるのではないだろうか。 興味本位な点で野次馬の代表格とも言えるな。 
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>薔薇様 (giants-55)
2008-06-13 16:53:53
書き込み有り難う御座いました。

最近、凶悪犯罪が起こる度に、容疑者の学生時代の卒業文集や卒業アルバムが紹介されます。許し難い犯行を為した者なれど、そこ迄取り上げるのはどうかという気がずっとしています。「この当時から、異常者としての心が芽生えていた。」というシナリオを描きたいのでしょうが、これなんかは報道の名を借りた野次馬意識ではないかと。

仰る様に、マスメディアも本質的には野次馬意識が在ると思っています。そもそもが「野次馬」と「報道」の間に境界線を引く事が難しい訳ですが、マスメディアに於いては“或る程度の範囲”で野次馬意識が優ってしまうのは致し方ないとも。勿論、或る程度の範囲という縛りが在り、“個人的には”上記した卒業文集等を持ち出すのは遣り過ぎという考えですが。

重要なのは「報道を生業にしている者」と「そうでは無い一般人」との区別。職業として報道に従事している者には、或る程度の範囲でモラルよりも功名心や野次馬意識が優ってしまうのは許容範囲の様にも思ったりします。それが度を過ぎた場合には、“職業人として”激しいバシングに曝される訳ですし。

何か脈絡の無い文章になってしまいましたが、職業として報道に従事している者とそうで無い者の間には一定の境界線が在り、同じ行為でも許される物と許されない物の違いが在るのではないかというのが私見です。
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正直 (Spa supernova)
2008-06-13 20:50:37
週刊誌なんかに言われたくないが、という気もしますが。giantsさんは覚えておいでになると思いますが、1980年代の週刊誌、ワイドショーのえげつなさときたら。自殺した有名人の死体の写真が堂々と載っていた、入院した有名人のインタビューを病室から行うなんて日常茶飯事。今はせいぜい見出しだけがえげつないですが、あの頃はそういったワイドショーのみならず、都市伝説も含めえげつなかったと言う記憶があります。それも一つの日本の活力だったんでしょうか…。

でも自分もあの事件報道の際の野次馬の不気味な静さと皆が手にカメラ、は気持ち悪かったです。
前にNHKアーカイブスで飛行機か何か?が突っ込んだ?(だったっけ?)児玉ヨシオ邸に野次馬が群がる、という映像を見て、「昔の日本どーしょーもないなー」と呆れたのですが(じいちゃんばあちゃんが児玉邸に無断で入って見に行ったり、そこまでしなくても植木の隙間からみんな覗き込んでる)、今はむしろ一見静かなんだけど、やってることは怖いと言う気がします。
でも他人が倒れて血を流しているところを撮ろうという気が知れません。そんなことしたらバチがあたるとか教わらなかったのかいな…。

ところで、最近デジカメ、携帯カメラで、ブログ/SNSネタのためにスーパーとか御土産店の商品などを撮ってる人いますが、そういうところだけにはやけに遠慮がちな自分は「いいのかなあ」と心配になります。
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>Spa supernova様 (giants-55)
2008-06-13 21:18:54
書き込み有り難う御座いました。

社会の公器として高いモラルを持って欲しいと思う一方で、「マスメディアは所詮、露悪的で猥雑な存在。」と或る著名人が称していたのにも納得出来たりしています。写真週刊誌が全盛だった頃(「FOCUS」に「FRIDAY」、「FLASH」、「TOUCH」、「Emma」と5誌も発行されていた時代。)には、御指摘の通りえげつない取材が罷り通っていましたね。今は表向き其処迄えげつない取材はされていない様ですが、容疑者の学生時代の卒業文集や卒業アルバムをこれでもかと紹介する昨今も、結局は同じえげつなさの範疇に在ると思ったりも。

事件現場で興味本位から写真を撮り捲っていた連中もどうかとは思いますが、その連中の写真を然も「自分は社会正義を為しているのだ。」とばかりにネット上に晒している連中にも共感を覚えられません。又、イラクで人質となっていた青年が斬首された事件が在りましたが、あの際にはあちこちであの動画が“回覧”されていたと言います。そういった中に、今回の一件を批判している人達が居たとしたら、これは天に唾する行為ではないかと。衆人環視の中で行った事も、一人でこっそり行った事も、興味本位で為された事で在れば、どちらも同じなのかもしれません。

携帯カメラで雑誌等の内容を隠し撮りする「デジタル万引き」が昨今問題になっていますよね。この行為によって、書籍の売り上げが益々落ち込んでいるとも。新しいツールが一般化すると、新たな問題も同時に発生するものなんですね。
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TPOをわきまえないやつら (いわやん)
2008-06-13 23:24:19
いつも楽しく拝見しております。

読ませていただいて、あのような凄惨な現場で写真を撮ってヘラヘラしている奴らには本当に憤りを感じました。

私自身 10年ほど前に阪神大震災を経験し、自宅も半壊状態になったのですが、我が家の近所で地滑りが発生しその様子をヘリで撮影しようとしたマスコミが多数ありました。
このヘリが低空飛行で飛ぶもので、半壊になった自宅の柱がヘリの強風で震えているのを感じ、「お前ら低空で飛ぶな!もし家がつぶれたらどないしてくれるねん!」と思わずヘリに石を投げたくなりました。

カメラマンなどは周囲の状況を顧みず、自分の撮りたいものを撮るという高揚感だけなんでしょうね。
周囲がどれだけ困り、悲しんでも「自分は関係ない。この状況を撮りたい!」という悲しい性の人たちなんでしょうね。

そしてそのカメラに向かってVサインなどしている奴らはおっしゃるとおり悲しいもんですよね。
最近プロ野球中継などでもバックネット裏の観客が携帯電話片手に手を振っている人がいますよね。
それもチャンスの場面などの緊迫した場面で手を振っている観客を見ていると、何てKYな奴らだとある意味悲しくなってしまいますね。
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>いわやん様 (giants-55)
2008-06-14 01:12:39
書き込み有り難う御座いました。

阪神・淡路大震災が発生した際、ヘリで上空からリポートした筑紫哲也氏が「温泉町に来た様な感じです。」と口にしたのが多くの非難を浴びました。一面瓦礫の山と化し、煙だけが舞い上がる光景に思わずそう口にしてしまったのでしょうが、被害に遭われた方々の事を考えると極めて軽率な発言だったと思います。

当事者の立場で考える。重要な事ですが、同時になかなか実践出来ない事でも在ります。余程人間が出来ている者ならば別ですが、哀しいかな多くの人間は“不完全”な生き物だからです。でも、絶対にしてはならない事は在る筈。興味本位で被害者を撮り捲るというのも、そのい一つでしょう。

今後とも何卒宜しく御願い致します。
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職業道徳 (Spa supernova)
2008-06-14 12:50:42
そういえば「不肖」宮嶋氏が、先日NHKの「英語でしゃべらナイト」に出演された際、「とにかく金。売れる写真か、どこまで演出できるか」だと言うようなことを言っていました。
「もっとも日本人の自分はまだ奥ゆかしい、欧米人はもっと露骨」というようなことも言っていました。日本人の視聴者の多くが彼の発言に嫌悪感を感じる、ということを認識してのエクスキューズでしょうね。
英雄視されるキャパにしても、英雄とハイエナの紙一重だったんだろうし、リー・ミラーという第二次大戦時の女性従軍カメラマンの写真集を持っていますが、写真からは戦争の現実もさることながら彼女の功名心、自己愛も伝わってきます。
こういうのって判断が難しいですよね。頭では反感を感じつつも目が行ってしまう報道写真って多いですから。
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>Spa supernova様 (giants-55)
2008-06-14 14:23:45
書き込み有り難う御座いました。

フリーランスのジャーナリストだと、「常にマスメディアで“受ける”材料を提供しないと食い繋いで行けない。」という切迫した状況も在りましょうね。又、フリーランスでは無くても、所属している組織からのプレッシャーも相当在るでしょう。それが報道なのか?はたまた単なる野次馬なのか?その境界線は非常にファジーなのは事実ですが、少なくとも記名した上でその材料を提示し、社会的に問題在りと判断された場合には個人として(又は組織として)バッシングされる「報道を生業にしている者」と、今回の様にネット上に顔を晒されるケースが無いとは言えないものの、その殆どが匿名で遣りたい放題出来る“で在ろう”「一般人」とは、それなりの違いが在って仕方ない様に感じます。
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職業意識と良心 (れんたろう)
2008-06-14 16:21:09
以前、地元のラジオ局が制作したラジオ番組の中で、まさに、事故報道の本質に関わる問題が描かれていました。

http://orange.ap.teacup.com/iyokakun1961/60.html

おそらく、事実を基に脚色したドラマだと思いますが、昭和41年のYS-11松山沖墜落事故の際、現場に駆けつけた若い報道カメラマンが、取材そっちのけで遺体の収容作業を手伝ってしまったのでした。彼は上司にボロくそに叱られ、
「お前は報道マン失格だ!今後現場には出るな!
電話番でもしていろ!」
と罵声を浴びます。彼は、
「だって、新婚の夫婦が犠牲になって、別々の安置所に収容されていたんですよ。せめて一緒にしてあげないとかわいそうじゃないですか!」
と涙声で弁解したものの、聞き入れてもらえませんでした。

しかし、後に放送局の腕章をつけた彼が遺体収容を手伝う姿を現場で目撃した関係者が、その事を地元紙に投稿し、
「カメラマンの実に素晴らしい態度。」
として、称賛されたのでした。その後、彼は警察から「感謝状」まで授与され、放送局の幹部からも「社員の鑑」と称賛されるにいたったのでした。当然、謹慎は解除されて現場に戻った彼は、のちに報道部長にまで昇格するのですが、長い間彼は自問自答し続けたのでした。

「はたして、あの時自分が取った行動は本当に正しかったのだろうか?人間としては、正しい行為だったのだろうが、報道マンとしては・・・」

多数の報道関係者が犠牲となった災害として、雲仙・普賢岳の噴火から今年で17年になります。犠牲になった報道関係者の事を取材した、江川紹子さんの著書、一読をお勧めします。

http://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E7%81%AB%E7%A0%95%E6%B5%81%E3%81%AB%E6%B6%88%E3%82%86%E2%80%95%E9%9B%B2%E4%BB%99%E6%99%AE%E8%B3%A2%E5%B2%B3%E3%83%BB%E5%A0%B1%E9%81%93%E9%99%A320%E5%90%8D%E3%81%AE%E6%AD%BB%E3%81%8C%E9%81%BA%E3%81%97%E3%81%9F%E3%82%82%E3%81%A
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すみません、追記です。 (れんたろう)
2008-06-14 16:32:10
Amazonのリンクを貼り付けたのですが、表示されないようです。江川さんの著書のタイトルは、

「大火砕流に消ゆ 雲仙普賢岳報道陣20名の死が遺したもの」 江川紹子 新風社文庫

ついでに、もう一言。最近は事故の犠牲者の生前の姿が、写真ではなく動画がテレビのニュースで放映されますが、見ていて痛ましい気持ちにさせられますね。それで思い出したのが、ちばてつやさんの「アリンコの歌」という昔の漫画。炭鉱町に赴任してきた若い熱血教師と子供たち(「あしたのジョー」のドヤ街の子供たちとダブります)との交流を描いた作品でした。その中で、落盤事故が起こった際に、犠牲者の家に新聞記者が押しかけ、亡くなった人の写真をアルバムからひっぺがして帰っていく、というシーンがありました。現在、テレビ局や新聞は事件や事故の犠牲者の写真をどのような交渉をして手に入れるのか、気になるところです。
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