愛する者を失う事は、それが例えどんな状況で直面したとしても、残された者達に深い哀しみを与えるのは言う迄も無い。唯、自らの経験で言うならば、病気で長患いした挙句に亡くなった場合と、全く予期せぬ状況で亡くなった場合では、心の準備が出来ていないという意味で後者の方がその哀しみはより深い気がする。
モーニング娘。のリーダー、吉澤ひとみさんの弟(16歳)が交通事故で亡くなられたのは1週間前の事だった。その後の報道で彼女がその弟をかなり可愛がっていたというのを知り、さぞや辛い事だろうと気の毒でならなかった。そして昨日、風見しんご氏の長女(10歳)が通学途中に交通事故に遭い、亡くなられたという報道が。青信号で横断歩道を渡っていた彼女を、右折して来たトラックが撥ねたというのだ。*1
平穏無事な日常が途切れる事等思い浮かべるも無く、家から出て行く愛する者を見送った筈なのに、帰宅は物言わぬ姿となってというのは余りにも残酷な現実。風見氏は自分と同世代という事も在るし、自分も実父を突然死という形で奪われているので、彼及び御家族の気持ちは痛い程判る。とても他人事には思えない。
事故現場は見通しの良い場所という事で、当該運転手の前方不注意が今回の悲劇を招いたものと思われる。彼の罪は決して許されるものでは無く、然る可き罰を受けるのは当然の事。唯、運送業に従事している人達の過酷な労働環境を知っているだけに、其処に無理をせざるを得ない状況が在った上での過失だったのかなあという思いも。勿論、前記した様にそうだからと言って彼の罪が許される訳では毛頭無いが。
風見氏のブログに載っていたのだが、実妹の配偶者、即ち義弟を昨年12月24日に大腸癌で亡くされている。享年39歳というのは余りにも若過ぎる。そして、それから1ヶ月も経たない内に、新たな哀しみが風見氏及びその御家族を襲ったという事実に愕然とするばかり。これ又私事になってしまうが、自分も過去に3年連続して近しい人間を亡くした経験を持っているので、彼等の心の傷の深さを思うと遣り切れない思いだ。*2
どんな言葉を掛けられたとしても、遺族の心の傷が癒される筈も無いのは経験上判っている。でも敢えて御遺族に言いたい。「風見氏の御一家はとても仲が良かったと聞いている。そんな環境で育って来た御嬢さんは、とても幸せな日々を送って来られたと思う。残念ながら10年余という短い生涯だったけれども、風見家に生を受けた喜びを胸に天に召されて行ったと確信して欲しい。」と。
合掌。![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
*1 車の免許を取得する以前、即ち歩行者として(自転車に乗った状態も含め)路上を通行していた頃、行き交う車はしっかり自分の存在を認識しているものと信じて疑っていなかった。歩行者で在る自分の視野には、見逃そうにも見逃せない程の大きさの車が存在していたからだった。
しかし、いざ自分が免許を取ってハンドルを握る様になって気付かされた事は、自分自身が歩行者だった頃に思っていた程、運転手の側は”個々の”歩行者を認識していないという事実。当然、歩行者に最大限の注意を払ってはいるのだが、一人の歩行者は多数の歩行者の中の一人で在り、その人物”だけ”に100%の注意が払われている訳では無いのだ。これは意外と、運転をした経験が無いと気付かされない事の様に思う。
*2 自分の父親が亡くなって1ヶ月も経たない頃、「この家は家相が悪いので、相談に乗って上げましょう。」とのたまう人物の訪問を受けた。その後、「運を変える為の開運商品を御持ちしたのですが。」といった人物も現れた。
言わずもがなとっとと奴等を追い払ったが、人の不幸に集る糞の様なハイエナ野郎は居る。今でも奴等の下卑た顔を忘れる事は出来ないのだが、風見氏の様な有名人の場合には自分の時以上に、こういったハイエナ野郎が手を変え品を変えて集りに来る可能性は高いのではなかろうか。そういう嫌な思いをしないで済む事を心より祈りたい。
モーニング娘。のリーダー、吉澤ひとみさんの弟(16歳)が交通事故で亡くなられたのは1週間前の事だった。その後の報道で彼女がその弟をかなり可愛がっていたというのを知り、さぞや辛い事だろうと気の毒でならなかった。そして昨日、風見しんご氏の長女(10歳)が通学途中に交通事故に遭い、亡くなられたという報道が。青信号で横断歩道を渡っていた彼女を、右折して来たトラックが撥ねたというのだ。*1
平穏無事な日常が途切れる事等思い浮かべるも無く、家から出て行く愛する者を見送った筈なのに、帰宅は物言わぬ姿となってというのは余りにも残酷な現実。風見氏は自分と同世代という事も在るし、自分も実父を突然死という形で奪われているので、彼及び御家族の気持ちは痛い程判る。とても他人事には思えない。
事故現場は見通しの良い場所という事で、当該運転手の前方不注意が今回の悲劇を招いたものと思われる。彼の罪は決して許されるものでは無く、然る可き罰を受けるのは当然の事。唯、運送業に従事している人達の過酷な労働環境を知っているだけに、其処に無理をせざるを得ない状況が在った上での過失だったのかなあという思いも。勿論、前記した様にそうだからと言って彼の罪が許される訳では毛頭無いが。
風見氏のブログに載っていたのだが、実妹の配偶者、即ち義弟を昨年12月24日に大腸癌で亡くされている。享年39歳というのは余りにも若過ぎる。そして、それから1ヶ月も経たない内に、新たな哀しみが風見氏及びその御家族を襲ったという事実に愕然とするばかり。これ又私事になってしまうが、自分も過去に3年連続して近しい人間を亡くした経験を持っているので、彼等の心の傷の深さを思うと遣り切れない思いだ。*2
どんな言葉を掛けられたとしても、遺族の心の傷が癒される筈も無いのは経験上判っている。でも敢えて御遺族に言いたい。「風見氏の御一家はとても仲が良かったと聞いている。そんな環境で育って来た御嬢さんは、とても幸せな日々を送って来られたと思う。残念ながら10年余という短い生涯だったけれども、風見家に生を受けた喜びを胸に天に召されて行ったと確信して欲しい。」と。
合掌。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/hiyo_uru.gif)
*1 車の免許を取得する以前、即ち歩行者として(自転車に乗った状態も含め)路上を通行していた頃、行き交う車はしっかり自分の存在を認識しているものと信じて疑っていなかった。歩行者で在る自分の視野には、見逃そうにも見逃せない程の大きさの車が存在していたからだった。
しかし、いざ自分が免許を取ってハンドルを握る様になって気付かされた事は、自分自身が歩行者だった頃に思っていた程、運転手の側は”個々の”歩行者を認識していないという事実。当然、歩行者に最大限の注意を払ってはいるのだが、一人の歩行者は多数の歩行者の中の一人で在り、その人物”だけ”に100%の注意が払われている訳では無いのだ。これは意外と、運転をした経験が無いと気付かされない事の様に思う。
*2 自分の父親が亡くなって1ヶ月も経たない頃、「この家は家相が悪いので、相談に乗って上げましょう。」とのたまう人物の訪問を受けた。その後、「運を変える為の開運商品を御持ちしたのですが。」といった人物も現れた。
言わずもがなとっとと奴等を追い払ったが、人の不幸に集る糞の様なハイエナ野郎は居る。今でも奴等の下卑た顔を忘れる事は出来ないのだが、風見氏の様な有名人の場合には自分の時以上に、こういったハイエナ野郎が手を変え品を変えて集りに来る可能性は高いのではなかろうか。そういう嫌な思いをしないで済む事を心より祈りたい。
それにしても・・・各局の報道の仕方。毎日起こる事件の時と同じだけど、子供の亡くなったその日に、朝亡くなったその日の十分明るい時間帯に・・すぐマイクをお母さん(おばあさん)に向けてたし・ピンポンごしにお父さん(おじいさん)のコメントも撮っていた。あの家族は昨日悪い夢でも見てるような・・もう何がなんだかわからないくらい悲嘆にくれていた状態だったろうに・・と、思うと、いつも以上にマスコミのマイクというものを考えさせられました。
人の死というのは悲しいものです。特に子供の死は何十年たっても忘れないといいます。10人の子供を持っていた90歳のおばあさんに、何が一番悲しかったですか?って訊くと、「5番目の子を川で亡くしたこと。」って答えたりする。それくらい悲しいんです。死ってその人がいなくなること、2度と会えないこと、声も聞けないことですよね。
それなのにね。わたしが今一番気になるのは、子供たちの無神経さ。
「殺すぞ」っていう言葉が日常に使われるようになっています。娘の中学校は新興住宅地のごくごく普通の中学校なんですが、男子はちょっとした意見の違いや、おふざけで、あるいはちょっと腹立たしいからといって、すぐに・「殺すぞ~!」と言うそうです。うちの子は男子とも仲がいい子なんですが、
「なんでそんなこというの?そういう言葉は使わんとって。すごくいや。」と答えるらしいです。
昨日娘が言うのには、「Yちゃんて、殺すって言う言葉が出ると、すぐいやな顔するけど、なんでなん?」と訊かれたそうです。
これには、わたしも、・・・(T_T)はあ~~・・こんなこともわからんなんて・・感覚が狂ってる。こんな子供ばっかり育てて・・日本はどうなっていくんだ。。美しい国は、美しい人からではないのか??
泣けてきました。
「命の大切さ」の前に、殺すという言葉の意味から教えたほうがいいのではないかと思う今日この頃・・
giantsさんは、この話想像できます?
自分だけお手伝いをしたことが他の兄弟と比べて損をしたとか、すぐに天秤にかけてしまう未熟な計算はあるのですが、自分が他の兄弟たちのために役立つことをしたのだという感覚はもてないようです。 他人事のようですが、しっかりと叱る、しっかりと褒めるとか子供への責任をもっとしっかり持って接してきた自信のない私のような親に責任があると自覚しています。 どうして心が育まれないのか、家庭での教育の問題と学校教育が学問のみで道徳心を養う場でなくなっているからだと思います。 マスコミのあり方は礼儀知らずで酷いと思います。 生前のお写真などどうやって入手したのでしょうか。 ご家族は報道によって社会全体に与えるよい意味での影響を考えて説得に応じたのでしょうね。
昨日の記事「忘れてはならない記憶」に関して、マヌケ様が御自身の御経験を書いて下さいました。その中に、瓦礫の下に愛する者が生き埋めになっているのが判っているものの、救助する手立ての無かった被災者達の哀しい現実が記されていました。風見氏の御嬢さんもほぼ即死状態だったという事ですが、トラックの下に挟まれた状態の愛娘を必死で救出しようとされていた彼の心の中を思うと堪らないものが在ります。時間は逆行させられないとはいえ、「家を出るのがもう少しだけ早かった(遅かった)ら・・・。」と御遺族としては悔やみ切れない思いが在ると思います。
かなり前迄は、悲惨な事件や事故に巻き込まれた御遺族に対して、わざとらしい哀しそうな表情を浮かべたレポーター連中が、「今の御気持ちは?」という下衆な質問を浴びせていたのがとても不快でした。そういう声が多く寄せられる様になった為か、そういった下衆な光景は余り見られなくなっていたのですが、今回はそれが復活していましたね。有名人の親族という立場から、マスメディアに対して無碍な対応が取れないだろうという判断も在ったのでしょうか、風見氏の義父&義母様にマイクを突き付けるレポーター達の姿に嫌悪感を覚えました。
一定年齢以下の人達の間では、「殺す。」という言葉が安直に用いられる状況になっていますね。複合的な理由が在るのでしょうが、私見を述べさせて戴くならば「死」というものの現実感が非常に希薄になっているのが最大要因ではないかと思います。
核家族化が進み、祖父母と生活を共にする機会が激減した日本。嘗ては祖父母が亡くなるのを自宅で見送っていたのが、今は病院で亡くなって以降、棺に入れられ帰宅して(又は葬儀場に運ばれて)から対面するというのが現代の子供達の「死との遭遇」ではないでしょうか。
自身の経験を振り返ると、最初に「死」というものを意識したのは祖父が自宅で病死した際でした。親族が祖父の廻りを囲み、今正に燃え尽きようとしている命の灯火を静かに見守っている姿。そして、大きく息を吸い込んだ後に生を終えた祖父の姿。その光景は今でも明確に脳裏に焼き付いています。その時の自分の感情を素直に表せば、哀しいというよりも「今迄生きていた人間が、在る段階で死者になってしまうという”恐怖”」でした。眼前で人間が死者に変わって行く光景に恐怖を覚えるというのが、昔の子供達が初めて体験する「死」との遭遇だったのではなかろうか。今の子供達はそういった経験が無いからこそ、死に対しての恐怖心が希薄で、だからこそ安直に「殺す。」とか「死ね。」と口に出来てしまうのではないのだろうか。自分はそんな気がしています。
脈絡の無い長文になってしまって済みません。
老若男女を問わず、人々の”視野”が狭くなって来ているというのも在るのかもしれませんね。マヌケ様が例示された「御手伝い」の話もそうですが、一方向から見れば「損ばかりしている。」と思うものでも、別の方向から見れば全く違う見方が出来る筈。試験の様に「~に関する正答は○○だけ。」という事は、実社会では殆ど無いというのに・・・。
最近の報道で気になるのは、何か問題が起こると当事者達の卒業文集やら卒業アルバム等を引っ張り出して来て、それを垂れ流している事。それが犯罪者となった人物が過去に記した(撮られた)物で在ったとしても、それを勝手に取り上げるのはどんなものなのでしょうか?マスメディアとはそれ程正義な存在なのでしょうか?
ましてや被害者の文章や写真、ひいては無関係な同級生の文章が取り上げられる事も在り、これなんかは諸権利の侵害だと思うんですよ。まあマスメディアが取り上げなくても、ネット社会で面白おかしく取り上げる輩は居るのでしょうが・・・。
テレビを見ていたら、風見さんの事故現場で、右折車が急に現れて怖い横断歩道と説明している人がいました。
多分右折車は直進車の間隙を縫って大急ぎで曲がるのでしょう。
右折車専用の停車スペースがあり、右折専用の信号がつけば一番でしょうが、それができないときは横断歩道をあと5m交差点から遠ざけるだけでも違うとおもいます。
とにかく、地元で危険な交差点をなくす運動を推進して欲しいと思います。
挨拶が遅れましたが本年も宜しくお願い致します。
交通事故もそうですが、虐待死された子供や病死した子供を「この子はこれくらいの寿命と決まって生まれてきた子。こういう運命なんだよ」と言う知人がいます。それではもし自分の子が不慮の死を遂げてしまったとき、「運命」で片付けられるのか?と反論すると「仕方の無いこと」と仰います。正直私には理解出来ません。愛する者を失って「運命」なんかで片付けられるわけがないと思います。
>人の不幸に集る糞の様なハイエナ野郎
最低ですね。
私も2年前家族が病気になった時、さほど付き合いも無かった知人がここぞとばかりに「効果がある」という健康食品を勧めに来た事を思い出しました。そんな余裕は無いとお断りしたところ、こうして代金を稼げば良いとねずみ講のお誘いまで受けてしまいました。強い憤りを感じましたね。
歩行者(自転車に乗った人間も含め。)とぶつかった、若しくは接触した場合、それなりの衝撃を運転者は感じると思うんですけどね。気が動転してしまって思わず逃げ去ってしまったというケースも在るでしょうが、飲酒運転の場合にはその状態で捕まると罪が重くなってしまう為、被害者の救助を行なわずに酔いを醒ますべく逃げ去るという輩も居るとか。人間の心を持っていたならば、被害者を置き去りになんて出来ないでしょう。全く許せません。