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アナウンサー: 「札幌ドームに詰め掛けた大勢のファイターズ・ファンは、飛び跳ねながら応援を続けているのですが、その物凄い揺れが此処迄伝わって来ます!」
ゲスト解説者: 「本当に凄い揺れですね。こんなの初めてです!」
有藤道世氏: 「え!?揺れてる?」
アナウンサー&ゲスト解説者: 「・・・。」
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昨日行なわれた日本シリーズ第5戦、序盤は帰宅途中の車内でラジオ中継を聞いていたのだが、上記の様な遣り取りが為されていた。TV中継でもカメラが微妙に揺れていたし、アナウンサーもゲスト解説者も凄い揺れを感じていたのに、それを全く感じなかった有藤氏って一体・・・。
TV中継では解説の”トンビ”が「ちゃっちゃと放送終えて、ススキノでオネエチャンと一杯やりたいなあ。」といった風情で解説していると思えば、その横では”気配りの人”こと栗山英樹氏が、トンビの戯れ言に逐一、「いやあ、本当にそうですね。○○部長の仰る通りです!」的なフォローを入れていた。
極め付けは「すぽると!」。ビール掛けを終えたファイターズの選手達を小出しにゲストとして呼んでいたのだが、登場した森本稀哲選手と解説者の高木豊氏との遣り取りに思わず爆笑してしまった。
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高木氏: 「それにしても、森本選手は凄かったねえ。」
森本選手: 「頭(髪の毛)がですか?」
高木氏: 「いや、それを言うなら僕の方がもっと・・・。」
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OBにしろ現役にしろ、どうしてプロ野球選手にはこうも愛すべきキャラクターが多いのだろうか?
ところで、「必修科目を生徒に履修させていなかった高校が、かなりの数に上っている。」というニュースが一昨日から絶え間無く報道されている。要は受験に無関係な科目を履修させずに、その分を受験科目の授業に廻していたという事で、ニュースでは「履修漏れ」と呼んでいたが、実質は「履修外し」と言えるだろう。履修外しが在ったのは地理&歴史教科の科目が殆どで、その他にも音楽や家庭科の授業を外していた所も在ったとか。
個人的には「何を今更。」という思いが在る。今から四半世紀近く前、私立高校に通っていた友人から「うちは受験に関係の無い科目を、授業から外している。」という話を耳にしたからだ。自分は公立の高校に通っていたのだが、当然ながら愚直に必修科目は全て履修させられており、「何かずるいなあ。」と思ったものだった。今回の場合も、真面目に決まり通り必修科目を履修していた生徒からすれば、履修外しをされていた生徒に対して「ずるい。」という思いが湧くのは当然だろう。
学校の側としては、「良い大学に少しでも多くの生徒を合格させて、学校の名を上げたい。」という思いが在ったのは想像に難くないのだが、「生徒達の為に、少しでも有利な道を探ってやりたい。」という親心”も”在ったのではなかろうか。だからと言って、明確なルール違反で在る履修外しが許されるべきものでは無いし、受験一辺倒の教育を肯定するつもりも無いが、どうしても学校側を一方的に責める気持ちには正直なれない。
学校や文部科学省、教育委員会等に対し、「受験一辺倒の教育がいけなかなったのだ!」と、さも鬼の首を取ったかの様に報じているマスメディア。しかし、「○○高校からは、有名大学に○○人合格しました!」といった報道をしている週刊誌や、「エリート大学の有名人v.s.馬鹿芸人のクイズ大会」といった企画を平然と垂れ流しているTV局は、受験一辺倒の風潮の御先棒を担いでいないと100%断言出来るのだろうか?履修外しをバッシングする事は、マスメディアにとって天を仰いで唾する行為だと思う。
世の中に、知っていて損をする知識や情報は無い。受験云々は別にして、本来学べた筈の科目が学べなかったというのは、自らを”大きくする”機会をみすみす喪失した様な勿体無さを感じてしまう。
アナウンサー: 「札幌ドームに詰め掛けた大勢のファイターズ・ファンは、飛び跳ねながら応援を続けているのですが、その物凄い揺れが此処迄伝わって来ます!」
ゲスト解説者: 「本当に凄い揺れですね。こんなの初めてです!」
有藤道世氏: 「え!?揺れてる?」
アナウンサー&ゲスト解説者: 「・・・。」
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昨日行なわれた日本シリーズ第5戦、序盤は帰宅途中の車内でラジオ中継を聞いていたのだが、上記の様な遣り取りが為されていた。TV中継でもカメラが微妙に揺れていたし、アナウンサーもゲスト解説者も凄い揺れを感じていたのに、それを全く感じなかった有藤氏って一体・・・。
TV中継では解説の”トンビ”が「ちゃっちゃと放送終えて、ススキノでオネエチャンと一杯やりたいなあ。」といった風情で解説していると思えば、その横では”気配りの人”こと栗山英樹氏が、トンビの戯れ言に逐一、「いやあ、本当にそうですね。○○部長の仰る通りです!」的なフォローを入れていた。
極め付けは「すぽると!」。ビール掛けを終えたファイターズの選手達を小出しにゲストとして呼んでいたのだが、登場した森本稀哲選手と解説者の高木豊氏との遣り取りに思わず爆笑してしまった。
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高木氏: 「それにしても、森本選手は凄かったねえ。」
森本選手: 「頭(髪の毛)がですか?」
高木氏: 「いや、それを言うなら僕の方がもっと・・・。」
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OBにしろ現役にしろ、どうしてプロ野球選手にはこうも愛すべきキャラクターが多いのだろうか?
ところで、「必修科目を生徒に履修させていなかった高校が、かなりの数に上っている。」というニュースが一昨日から絶え間無く報道されている。要は受験に無関係な科目を履修させずに、その分を受験科目の授業に廻していたという事で、ニュースでは「履修漏れ」と呼んでいたが、実質は「履修外し」と言えるだろう。履修外しが在ったのは地理&歴史教科の科目が殆どで、その他にも音楽や家庭科の授業を外していた所も在ったとか。
個人的には「何を今更。」という思いが在る。今から四半世紀近く前、私立高校に通っていた友人から「うちは受験に関係の無い科目を、授業から外している。」という話を耳にしたからだ。自分は公立の高校に通っていたのだが、当然ながら愚直に必修科目は全て履修させられており、「何かずるいなあ。」と思ったものだった。今回の場合も、真面目に決まり通り必修科目を履修していた生徒からすれば、履修外しをされていた生徒に対して「ずるい。」という思いが湧くのは当然だろう。
学校の側としては、「良い大学に少しでも多くの生徒を合格させて、学校の名を上げたい。」という思いが在ったのは想像に難くないのだが、「生徒達の為に、少しでも有利な道を探ってやりたい。」という親心”も”在ったのではなかろうか。だからと言って、明確なルール違反で在る履修外しが許されるべきものでは無いし、受験一辺倒の教育を肯定するつもりも無いが、どうしても学校側を一方的に責める気持ちには正直なれない。
学校や文部科学省、教育委員会等に対し、「受験一辺倒の教育がいけなかなったのだ!」と、さも鬼の首を取ったかの様に報じているマスメディア。しかし、「○○高校からは、有名大学に○○人合格しました!」といった報道をしている週刊誌や、「エリート大学の有名人v.s.馬鹿芸人のクイズ大会」といった企画を平然と垂れ流しているTV局は、受験一辺倒の風潮の御先棒を担いでいないと100%断言出来るのだろうか?履修外しをバッシングする事は、マスメディアにとって天を仰いで唾する行為だと思う。
世の中に、知っていて損をする知識や情報は無い。受験云々は別にして、本来学べた筈の科目が学べなかったというのは、自らを”大きくする”機会をみすみす喪失した様な勿体無さを感じてしまう。
大抵の人にとって、学校でやってきた勉強が大人になって役に立つことなどほとんどないのではないでしょうか。それぞれの学科は、受験の際の学力査定の媒体として存在しているにすぎないとさえ思っています。giants-55さんの考え方とは違うかもしれませんが、私のホンネはそんなとこです。
高校の頃、受験と関係ない教科をマジメに勉強してる生徒に対して周りから、「オマエ、そんなことやってて時間のムダだと思わないの?そんなの赤点取らない程度にテキトーにやっておけばいいんだよ!バカじゃないの?」って感じでよく罵声を浴びせられたたのを思い出します。
学校、文科省、教委は、タテマエはともかく、そういう受験優先の教育現場の現状くらいわかってるはずなので、「履修外し」は黙認すべきだと思いますね。認められないというのであれば、今の受験システムがある以上、必修科目など作るべきではないでしょう。世の受験生にとってはこの上ない迷惑です。
しかし、何で今更この時期になって発覚したんでしょうかね?進学校同士の足の引っ張り合い?
か~ちゃん同士この話題で盛り上がりました。
トラックバックいたしますです。
え~と
理科の場合
基礎理科+1科目が必修です。
が!
基礎理科という名前になっていても、実態は化学に近い授業内容になっているところがほとんど
(基礎理科Aの教科書には物理分野もあるはずなんだが)
昔必修だった理科1も
初期はちゃんと物化生地4領域やってましたが、後半になると化学+生物っぽい授業内容になるところがほとんどでした。
こちらには教科内容の扱いの軽重で目をつぶられている事(おかげで物理の求人は少ない)には、自然化学の基礎知識を軽んじている世の中の思惑を感じざるを得ませんね。
外国の文学読んでも、その国の歴史を知ってるのと知らないのとでは、全然ちがうんですよね。新聞読んでも、過去のしがらみとか・・・背景知ってると、より、興味がわいて、知識が増えるのになあ~・・
と、思いながら、わたし、日本史の授業の時に、世界史勉強してたし、テストは範囲の半分だけやっていって、半分とれたら赤点なしじゃん~と考えてたから、履修科目にあろうと、なかろうと・・結果はそう変わってなかったかも??
だけど、フェアか?ということでいえば、絶対フェアではない。大して勉強しなかったといえども、わたしは、日本史のテストも、受けてたし、その他の科目の試験も受けてた。。一番フェアじゃないのは、調査書は八百長じゃないの!!一般試験で調査書はあんまり見ないとはいえ、そもそもの評価の基準がめちゃくちゃじゃん。。と、思ったしだいです。
40点を取るのに必死でした。
こんな学校、周りに皆無でした・・・
>履修漏れ
ホント、何を今更という感じです。
「キチンと履修させよ」といいますが、その科目の中身の定義もいい加減ではないのでしょうか。
例えば日本史や世界史を、戦後まで教えている学校は皆無だと思います。
本当は、現代に生きていくうえで他国の立場を知ることに繋がるので
そこは一通り学んでおくべき、読んでおくべきところだと思います(中東諸国のこととか、アジアで戦前何があったとか)
高校側の立場としてはどちらにしろ
「自分ところの生徒に、いい大学に行ってもらいたい」ので、試験中心に考えるのはしょうがないことでしょう。
それを文部省が一律「全部教えよ」っていうのは、現実を斟酌しなさ杉ではないのでしょうか。
授業を受けるのは生徒です。
このようなことを勉強していって欲しい、国をこうして欲しいというポリシーもないのに、そういう細かいことだけいう国の姿勢は、どうも理解できません。
>高木豊
見ました。捨て身のギャグでした・・・
自分も共通一次を受けましたが、同じく当時は5教科7科目でした。文型人間なので社会の2科目は然程苦では無かったのですが、理科2科目は正直しんどかったですね。社会で言えば「倫理&社会」が、理科で言えば「生物」が勉強時間の割には点数が取り易いと言われていた様に記憶しています。
日本史も世界史も履修していましたが、どちらも戦中位迄しか授業をしなかったと思います。その理由は「試験に余り出ないから。」という理由だったと思うのですが、既にこの頃から「受験在りき」の授業が広く行なわれていたのでしょう。
理系の人間は現代国語の時間を、文型の人間は数学の時間をと、共に受験に於ける重要度の低い授業には寝たり&内職したりしている者も居ましたね。今回の騒動で、履修していなかった科目を詰め込みで授業する事になると思うのですが、やはり寝たりする生徒が続出するのかも(笑)。
「判定基準を簡略化したい。」という意図等から、マーク・シート方式やら○X式の試験が増加し、それに従って暗記を重視した様な受験制度になりましたよね。近年では個々の思考を問う様な問題が増えて来た様で、それはそれで良い傾向だと思っています。
世の中には得てして理想と現実が乖離している事柄がまま在るものですが、「学習指導要領と受験制度」というのもその最たるものでしょう。「ゆとり教育」というのも受験制度の現実を考えると、唯々教育現場を無用に混乱させただけでしたし。ですから、文部科学省や教育委員会が今やるべき事は、現実と理想の落としどころを何処に持って行くかでしょうね。それをしなければ、”上”と現場の乖離度は益々大きくなって行くだけだと思います。
自分が学生の頃にも、受験科目と無関係な授業を真剣に受けている者に対して、「何やってんだか・・・。」という声が在りました。自分もどちらかと言えば、その点では適当にやっていたクチなのですが(笑)、唯、「要領さえ良ければ全て良し。」的な考え方もどうかなあという思いは在ります。愚直と言われ様とも、ルールをきちんと守り、直向きに取り組む姿勢がもう少し評価される社会で在って欲しいなという気がします。
学生時代の勉強が、実社会に於いて”ダイレクトに”役立つ事って確かにそうは無いですね。唯、ダイレクトでは無いにせよ、どういう形で在れ吸収した知識ってその人に”幅”を与えている面は在ると思うんです。
当ブログでも何度か紹介させて貰った後輩は、大学の時文系に属していたのですが、その感性や考え方が同じ文系の自分とはかなり異なっていて、勉強になる事が良く在りました。高校時代、早い段階で理数科目に見切りを付けた自分とは異なり、理数科目が好きで履修していた彼。こういった違いが、自分とは異なる”思考の幅”を彼に与えたのではないかと。
そういった思いが在るだけに、ダイレクトに役立つ知識では無いにせよ、多くの情報や知識に触れる事は、人間的に幅を与える様な気がしてなりません。
上でハムぞー様も書かれていますが、或る事柄に付いて総合判断をする上で、幅広く情報に触れておくというのは凄く重要だと思います。
学問は別段学生時代じゃないと出来ないものでは無く、社会人になって以降自らが積極的にあらゆる情報に触れて行くので在れば問題無いのですが、学生時代に触れた情報だけを判断基準にしているというので在れば、それは非常に危険で危うい事ではないかと。
近年、TVのインタビューやネット上での意見を見ていると、かなり感情的なものが目立ちます。どういう意見で在っても、其処に発言者のしっかりとした思想や知識が在れば、それは尊重したいのですが、中にはそういったものが全く感じられないものも少なくなく、全部が全部では無いかもしれませんが、そういった人達は極めて限られた情報にしか触れていないのではないかという気がします。