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<人間、つらいことがあっても、笑っていれば、瞬間、そのつらさを忘れることができるじゃないですか。たとえ一瞬でも・・・。そういう笑いをつくれれば、僕は十分なんだよね。人に夢を与えようとか、エラそうなことは思わない。レベルが低いと言われようとも、夢をもてないような人たちにも笑ってもらい、つらさを一瞬でも忘れてもらえば「上等だ。」と。>(「BIG tomorrow」1999年3月号)
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過去に何度も書いたが、自分は子供の頃から大の御笑い好き。芸を感じさせない“御笑いタレント”は嫌いだが、真の芸を持った“芸人”が堪らなく好きで、好きな芸人は何人か存在する。そんな好きな芸人の中でも、別格の存在がザ・ドリフターズとビートたけし氏。
物心が付いた時、“ドリフ”は既に人気者だった。毎週土曜日の20時から放送されていた「8時だョ!全員集合」【動画】は、当時の子供達の殆どが見ていたと思うし、「週明けの月曜日、登校した際には、同級生と真っ先に番組内容を話題にする。」のが普通だった。
自分の場合、荒井注氏がメンバーだった時代から知っている。彼がメンバーだった時代も好きだが、彼に代わって志村けん氏がメンバー入りして以降のドリフは、更に好き。
2ヶ月前、「昭和芸人 七人の最期」という本を紹介した。一世を風靡した7人の“昭和芸人”が取り上げられた本で、とても面白い内容だった。著者は笹山敬輔氏で、彼がドリフに付いて“分析”した本「ドリフターズとその時代」を上梓したので、読む事に。冒頭に記したのは、此の本の中で記されている志村けん氏の言葉。
笹山氏は1979年生まれ。「8時だョ!全員集合」が終わったのは1985年の事なので、番組に付いての記憶が在るにしても、“同番組の末期”という事になろう。最高視聴率「50.5%」の回(1973年4月7日)をリアル・タイムで見ていた自分からすると、「ドリフの絶頂期を知らないのは、本当に可哀相。」と思ってしまうけれど、「昭和芸人 七人の最期」同様、「リアル・タイムで見てない時代の事柄でも、数多くの文献等に当たる事で、ヴィヴィッドに分析している。」のは見事の一言。
ドリフが結成される以前(メンバー達の出生)から、志村けん氏が亡くなる所迄が取り上げられている。最年長のメンバー・荒井注氏は1928年生まれ、逆に最年少のメンバー・志村けん氏は1950年生まれと、2人の間には親子程の年齢差が在る。荒井氏がメンバーを外れてから志村氏が加入したので、ドリフとしてメンバー期間は重なっていないが、(荒井氏の次に年齢が高かった)リーダー・いかりや長介氏は1931年生まれなので、志村氏との年齢差は19歳。メンバー間の年齢差が結構在ったグループなのだ。
ドリフの最大ライヴァルと言えばコント55号。1960年代末~1970年代、両グループは裏番組で激烈な視聴率争いを繰り広げていた。コント55号がピン芸人としての活動に軸足を移して行って以降は「ドリフvs.萩本欽一氏」という構図で、激烈な視聴率争いは続く。ドリフとコント55号(又は萩本欽一氏)との視聴率争いは抜きつ抜かれつを経て、最終的にはドリフの勝利に終わったと言っても良い。だが、其の頃には漫才ブームが沸き起こり、流石のドリフも人気が陰っていたのは、何とも皮肉で在る。大好きなグループだっただけに、人気が陰って行く部分は、読んでいて辛かった。
ライヴァル関係に在ったものの、ドリフトとコント55号(又は萩本欽一氏)の笑いに関するスタンスは、大きく異なっている。「ボクはハプニングがキライなんですよ。メンバーにもハプニングの芝居はやらせないようにしているんです。失敗してもハプニング、成功してもハプニング。こんなおもしろさでお客さんから木戸銭もらうのは、お客さんに対して失礼だと思うんです。」といかりや長介氏が語っていた様に、ドリフはアドリブやハプニングに頼った笑いを苦手とし、徹底的に稽古を積んだ上の笑い、即ち“作り込んだ笑い”を目指した。
一方、コント55号はアドリブやハプニングによる笑いを得意とし、ピン芸人となって以降の萩本氏は、“素人を弄る芸”を加速化させた。(過去に何度か書いているが、自分はコント55号は好きだったが、萩本氏の笑いは大の苦手。彼のねちっこい弄りが大嫌いで、彼が“視聴率100%男”と呼ばれていた時代ですら、其の番組を見ていて全く笑えなかった。)「萩本氏がアドリブやハプニングによる笑いを加速化させた要因に、『あさま山荘事件のTV中継』が在った。」という指摘は非常に興味深いが、ドリフのメンバー・仲本工事氏も「あさま山荘事件のTV中継」から、同じ様な思いになっていたというのは意外だった(何と、事件発生時に現場迄見に行っていたとか。)。
「8時だョ!全員集合」で志村氏が人気を得て以降、彼といかりや長介氏との確執は、人く知られる所だった。同じ番組に出演していても、別撮りする等して、2人が顔を合わせないケースも少なく無かったと言う。実際、志村氏がいかりや氏の“今の笑い”を否定するコメントを出した事も在る。だが、晩年は「御互いに判り合えた部分が結構在ったのではないか。」という気がする。ドリフのリーダーとして独裁的ならざるを得なかったいかりや氏だが、ピンで活動して行く中で『俺が全てを背負わなければ!』というプレッシャーから解き放たれ、メンバー1人1人の立場により思いが馳せられる様になったと思うし、又、志村氏の場合は、グループという庇護から離れ、自分自身がリーダーとして動かなければならなくなった事で、其れ迄見えなかった“リーダーとしてのいかりや氏の苦しみ”を知ったのではなかろうか。
以前から思っていた事だが、「ドリフターズとその時代」を読んで確信した事が在る。“強過ぎる父親の存在”や“笑いの志向”、“笑いに対する真摯さや頑固さ”、「自分が実際に見たり聞いたりした物からで無いと、具体的に笑いの発想が出来ない。」等々、いかりや氏と志村氏には余りにも共通点が多く、だからこそ“近親憎悪”で確執が生まれてしまったのではないか。晩年の2人の発言からは、共に認め合っている思いが感じられる。
此の本も、非常に面白かった。芸人に関する本を、笹山氏には新たに書いて貰いたい。