趣味の小箱

ばあーばの気儘な部屋
 「人生に計画をたててはなりません」ヘッセの手紙残像となる

永遠の真実は、目には見えないのだ

2006-03-02 11:08:27 | つぶやき
 主人は、寂聴さんが好きで、寂聴さんの〔日めくり暦〕を買って
毎日一枚をめくっては、そこに書いてある言葉を読んで
「良い事が書いてある!」と言って満足している。

2月24日には〔お線香は仏さまによい香りと真心をお供えする
ためのものです。私達が忘れかけている真心という目にみえない大切なもの
を心をこめてお供えすれば、苦しい時や困った時、仏さまは
必ず力を貸してくださいます。〕と書いてある。

これを読んで、主人は「仏さま、仏さまと言っても目に見えないものを
信じられねえよなあー」とぶつぶつ言っている。

 私はその時、読んでいた〔小川洋子著・博士の愛した数式〕
の中の一つの言葉を思い出した。
それは、記憶障害で80分間しか記憶がもたないという
博士が言った言葉「永遠の真実は目には見えないのだ」である。

 何か仏教の心と通じるものがあるように思われて、共鳴した。
この一節はこうである
博士は家政婦に「さあここに、直線を一本引いてごらん」
と言った。・・・・広告に菜ばしを定規がわりに、鉛筆で
私は直線を書いた。
博士「そうだ。それは直線だ。・・・・しかし、考えてごらん。
君が書いた直線には始まりと終わりがあるね。
だとすれば、二つの点を最短距離で結んだ、線分なのだ。

本来の直線の定義には端がない。
無限に何処までものびてゆかなければならない。
しかし一枚の紙には限りがあるし、君の体力にだって
限界があるから、とりあえずの線分を、本物と了解し合って
いるに過ぎないんだ。・・・・現実の紙に
本物の直線を描くことは不可能なのだ」

「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」
博士は自分の胸に手を当てた。
「物質にも自然現象にも感情にも左右されない
永遠の真実は、目にはみえないのだ。・・・・」

 数学は神の手帳に書いてある、新しいページの
真実を見つけるものだという。そして美しいと感嘆する。
仏教もたぶん釈迦が神の手帳の新しいページに
真実を見つけて感嘆し、弟子に伝えてそれが形になった
ものだろうか?

〈法華経〉には〈人はみな平等に仏の境地に入る〉と書いてある。
「だとすれば自分の親や祖父母も仏になっているのではない!」
主人「そうだよなあ」と相槌をうっている。
「親や祖父母には、その生き方を見て、生活の中から
心の持ちようや、人と人との付き合い方、善悪などを
教えてもらったのではないの!」

「それって仏の教えといっしょじゃない」
そんな事を話しながら、〈目に見えないもの、心の中にあるもの〉
それを大切にして、感謝の心を表すことで心の
平安を維持できることを改めて思った。

 暦の言葉〈心をこめてお供えする〉とは供養する
ことであろう。法華経には〈仏に供養するとは仏に感謝の心を
表すことで感謝するとは、仏の値打ちがわかったからである。〉
と著されている。
〈苦しい時や困った時、仏さまは必ず力を貸してくださいます。〉
これは、他力本願ではなく、仏を供養すろ心を持っていれば
自ずと智慧が働き苦しみや困難を乗り越えられる
ということではないかと思う。

どうしても目の前に書いてある直線の部分だけを
直線だと思ってしまう。目に見えない部分にも
思いをめぐらすように心掛けてみよう。