最近報道番組等を見ていても「聞く力」という言葉をよく耳にする。
でもそれは本当に大切なことだと思う。
最近あらためてそう痛感した。
以前の自分の試合の動画を見ていた時、その時ベンチにいた方の一言に対する感情が蘇ってきたから。
「あぁ、この人は僕の話を全然聞かないんだな。自分が言いたいだけなんだな。」
そう思った瞬間、その人との大きな距離を感じたし、テンションも下がったという思い出。
会話とは言葉のキャッチボール、双方向のアクションだと思っている。
どちらかが一方的に話をしてどちらかが聞き手に回るという、いわば講演や演説とは違うはず。
でも、人は年齢と経験を重ねると、また偉くなればなるほど、おそらくは無意識に聞くことよりも自分の持つ情報や意見を発信することを優先してしまう。
相手が自分よりも若い、知識もキャリアも浅い、あるいは立場が下であるなどすれば、自然と上から目線というバイアスが働くだろうから、「説き伏せる」ようにアウトプットしがちだと思う。
それはある意味自然の摂理なのかもしれない。
だって、そうすることの方が本人としても気持ちがいいものだろうから。
でも聞く側からすればそれは必ずしもありがたいことではない。
むしろ迷惑だったり不快感を覚えることもあると思う。
「自分が聞きたいことはそれじゃないのに」
と思いながら、延々と話を聞かされる。
相手を気遣う人は話をしているその人の気を悪くさせないために、それをもっともな素振りで黙って聞き続ける。
それが聞く力?
いやいや、そうじゃない。
それはただの遠慮や忖度でしかない。
聞く力とは、相手に合わせたアウトプットのことだと思う。
まさに、話し上手は聞き上手、それこそが聞く力なのだと思う。
「あぁ、この人は人の話を聞かない人なんだな」と思う瞬間は日常生活でも少なくはない。
逆に僕がそう思われるシーンだって多々あると思う。
試合の時、ベンチとのやり取りはシリアスなものになるので、よりストライクゾーンは狭まる。
人はその時の状況で感情も様々に変化するから、その瞬間瞬間で求めるアドバイスは全く異なってくる。
いや、アドバイス以前に、「投げかけて欲しい言葉」がその時々で違っているということであり、言い換えると、同じ相手に対しても投げかけるべき言葉にはTPOが存在するということなのだ。
だから、「この人は今何を求めているのだろう?」とまず考える必要があるし、「今のこの人だったらこっちの方が良いかな?」というその人に合わせた言葉や回答、あるいは表現方法も必要になると思う。
それはもはやテクニックだ。
それを、立場とか常識とかでひとくくりにした言葉選びであっては、言う側の自己満足で終わってしまってニーズに答えることは出来ないだろうし、それに気づくことすら出来ずにいることになる。
それは残念なことだし、双方にとって気の毒なことだ。
でもそれは本当に大切なことだと思う。
最近あらためてそう痛感した。
以前の自分の試合の動画を見ていた時、その時ベンチにいた方の一言に対する感情が蘇ってきたから。
「あぁ、この人は僕の話を全然聞かないんだな。自分が言いたいだけなんだな。」
そう思った瞬間、その人との大きな距離を感じたし、テンションも下がったという思い出。
会話とは言葉のキャッチボール、双方向のアクションだと思っている。
どちらかが一方的に話をしてどちらかが聞き手に回るという、いわば講演や演説とは違うはず。
でも、人は年齢と経験を重ねると、また偉くなればなるほど、おそらくは無意識に聞くことよりも自分の持つ情報や意見を発信することを優先してしまう。
相手が自分よりも若い、知識もキャリアも浅い、あるいは立場が下であるなどすれば、自然と上から目線というバイアスが働くだろうから、「説き伏せる」ようにアウトプットしがちだと思う。
それはある意味自然の摂理なのかもしれない。
だって、そうすることの方が本人としても気持ちがいいものだろうから。
でも聞く側からすればそれは必ずしもありがたいことではない。
むしろ迷惑だったり不快感を覚えることもあると思う。
「自分が聞きたいことはそれじゃないのに」
と思いながら、延々と話を聞かされる。
相手を気遣う人は話をしているその人の気を悪くさせないために、それをもっともな素振りで黙って聞き続ける。
それが聞く力?
いやいや、そうじゃない。
それはただの遠慮や忖度でしかない。
聞く力とは、相手に合わせたアウトプットのことだと思う。
まさに、話し上手は聞き上手、それこそが聞く力なのだと思う。
「あぁ、この人は人の話を聞かない人なんだな」と思う瞬間は日常生活でも少なくはない。
逆に僕がそう思われるシーンだって多々あると思う。
試合の時、ベンチとのやり取りはシリアスなものになるので、よりストライクゾーンは狭まる。
人はその時の状況で感情も様々に変化するから、その瞬間瞬間で求めるアドバイスは全く異なってくる。
いや、アドバイス以前に、「投げかけて欲しい言葉」がその時々で違っているということであり、言い換えると、同じ相手に対しても投げかけるべき言葉にはTPOが存在するということなのだ。
だから、「この人は今何を求めているのだろう?」とまず考える必要があるし、「今のこの人だったらこっちの方が良いかな?」というその人に合わせた言葉や回答、あるいは表現方法も必要になると思う。
それはもはやテクニックだ。
それを、立場とか常識とかでひとくくりにした言葉選びであっては、言う側の自己満足で終わってしまってニーズに答えることは出来ないだろうし、それに気づくことすら出来ずにいることになる。
それは残念なことだし、双方にとって気の毒なことだ。
でもそれを常に完璧にこなせる人なんていないはず。
いるとすればそれはもはや神だ。
どれだけ親しい人、近しい人、例えば家族や恋人であったとしても、完璧はありえないし絶対もないはず。
じゃぁワンミスで全てが瓦解するのかというと決してそうではない。
大切なことは相手に「聞こうとする気持ち」があるかどうかで、それが感じられれば答えの相違は案外小さなことかもしれない。
だって言葉は所詮コミュニケーションのツールでしかないから。
言葉よりも「気持ち」が感じられるかどうかが大切なんだと思う。
逆に、どれだけ言葉を上手く駆使したとしても、その人に気持ちがこもっていなければ、相手に気持ちが伝わらなければ、その言葉はその程度にすぎないものとなる。
あんまりこんなことばかり書いていると、僕は気難しい人間なんだと思われるかもしれない(笑)
うん、否定はしない(笑)
それで構わないとも思う。
だって、それが僕なのだ。
・・・開き直り(笑)
とにかく、聞く力というのはコミュニケーションにおいて本当に大切なものだと思う。
自分がどうしたい、どう進めたい、イニシアチブを取りたいとか、聞く力とは逆のバイアス、そういう「エゴ」や「下心」があると、それは少なからずどこかで露呈してしまうものだし、大人(という社会経験を積んだ人)になればなるほどそうしたものを「肌で感じるセンス」を持つようになる。
スポーツ活動においてはプレイヤーと指導者という立場が様々な角度で存在するけれど、そこにはまさに聞く力が双方向に取って必要不可欠だと思う。
何もスポーツに限った話ではないけれど。
その点、幸い僕は本当に恵まれているので、尊敬できる良い方々に囲まれている。
ちなみに、最初に書いた思い出話、あれは僕のコーチ達のことではないので誤解無きよう(笑)
来月はものすごく重要な試合がある。
久方ぶりの試合だ。
けれど、その久々の試合はコロナ対策として「ベンチコーチ不可」となっている。
ちなみに試合会場での練習も一切ない。
最近開催された一般の大会でもベンチコーチ不可となっていたらしいけれど、それに対して「ただし介助者はOK」といった逃げ道があったらしい。
だけど今回のパラ卓球の大会ではそれすらもないから、本当にひとりぼっちでの試合になる。
聞く力などの余計な気遣いが生じないのでそれはそれでいいじゃないか、という一面もあるかもしれないけれど、でもやはり戦術面、心理面のサポートがあるとないとではパフォーマンスは大きく変わると思う。
それがコロナ禍の試合ということか。
国際大会はそうではないと思うけど、でも国や地域によってその条件は異なってくるのかもしれない。
現にワールドツアーもキャンセルの知らせが続くのは、通常と同じ条件での開催が困難だからに違いない。
国際大会と同じ条件で国内での試合を迎えるのはまだ先の話なのだと思う。
それは残念だし、悔しくもある。
まだまだ不安が先行する状況は変わらない。
けれど、試合が出来るだけでも良いじゃないか。
厳しい条件だとしても出来ないよりはいいし、今までの成果を試すチャンスを得られたのだから、まずは出来ることに感謝して、存分にプレー出来るよう準備をしていこうじゃないか、と自分を鼓舞する(笑)
さぁ、どこまで出来るか。
ちゃんと出来るか。
ここまできたら、もうコンディショニングに集中するしかない。
まずはケガをしないように、体調を崩さないように気をつける。
事故とかアクシデントにも気を付けなきゃ。
それでも練習が出来ているだけでも本当にありがたいことだと思う。
だから、体力やら健康を維持できているのだとも思う。
でもただ練習を繰り返すのではなく、聞く力を学び、身につけ、社会人としてのスキルアップ、自分磨きも怠らずに積み重ねていきたい
思うように積み重なっているかどうか、そこにも不安が先行するけど(笑)
毎日を精一杯、一生懸命に生きていく。
さぁ、全集中(笑)
あんまりこんなことばかり書いていると、僕は気難しい人間なんだと思われるかもしれない(笑)
うん、否定はしない(笑)
それで構わないとも思う。
だって、それが僕なのだ。
・・・開き直り(笑)
とにかく、聞く力というのはコミュニケーションにおいて本当に大切なものだと思う。
自分がどうしたい、どう進めたい、イニシアチブを取りたいとか、聞く力とは逆のバイアス、そういう「エゴ」や「下心」があると、それは少なからずどこかで露呈してしまうものだし、大人(という社会経験を積んだ人)になればなるほどそうしたものを「肌で感じるセンス」を持つようになる。
スポーツ活動においてはプレイヤーと指導者という立場が様々な角度で存在するけれど、そこにはまさに聞く力が双方向に取って必要不可欠だと思う。
何もスポーツに限った話ではないけれど。
その点、幸い僕は本当に恵まれているので、尊敬できる良い方々に囲まれている。
ちなみに、最初に書いた思い出話、あれは僕のコーチ達のことではないので誤解無きよう(笑)
来月はものすごく重要な試合がある。
久方ぶりの試合だ。
けれど、その久々の試合はコロナ対策として「ベンチコーチ不可」となっている。
ちなみに試合会場での練習も一切ない。
最近開催された一般の大会でもベンチコーチ不可となっていたらしいけれど、それに対して「ただし介助者はOK」といった逃げ道があったらしい。
だけど今回のパラ卓球の大会ではそれすらもないから、本当にひとりぼっちでの試合になる。
聞く力などの余計な気遣いが生じないのでそれはそれでいいじゃないか、という一面もあるかもしれないけれど、でもやはり戦術面、心理面のサポートがあるとないとではパフォーマンスは大きく変わると思う。
それがコロナ禍の試合ということか。
国際大会はそうではないと思うけど、でも国や地域によってその条件は異なってくるのかもしれない。
現にワールドツアーもキャンセルの知らせが続くのは、通常と同じ条件での開催が困難だからに違いない。
国際大会と同じ条件で国内での試合を迎えるのはまだ先の話なのだと思う。
それは残念だし、悔しくもある。
まだまだ不安が先行する状況は変わらない。
けれど、試合が出来るだけでも良いじゃないか。
厳しい条件だとしても出来ないよりはいいし、今までの成果を試すチャンスを得られたのだから、まずは出来ることに感謝して、存分にプレー出来るよう準備をしていこうじゃないか、と自分を鼓舞する(笑)
さぁ、どこまで出来るか。
ちゃんと出来るか。
ここまできたら、もうコンディショニングに集中するしかない。
まずはケガをしないように、体調を崩さないように気をつける。
事故とかアクシデントにも気を付けなきゃ。
それでも練習が出来ているだけでも本当にありがたいことだと思う。
だから、体力やら健康を維持できているのだとも思う。
でもただ練習を繰り返すのではなく、聞く力を学び、身につけ、社会人としてのスキルアップ、自分磨きも怠らずに積み重ねていきたい
思うように積み重なっているかどうか、そこにも不安が先行するけど(笑)
毎日を精一杯、一生懸命に生きていく。
さぁ、全集中(笑)
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