とのはなしを耳にしたことがあるのかもしれない。それが、かれの無意識の意識に、
本人の知らないうちに記憶されて、精神外傷となり、一種の恐怖観念となる。それ
守護仏があらわす奇蹟のかずかずが、成人後に発作となって起こった。フロイトの表現でいう。神経症的行動となって
はげしくほとばしり出た”のであるたしかにそういう解釈も成り立つ。
しかし、そうすると、わたくしがN氏の仏間で体験した異変は、どう説明するの
か。それについての説明ができないのである。
わたくしは、N氏の祖父について、前もってなにも聞いていなかった。にもかかわ
らず、わたくしの身に、前にのべたような異変が生じたのである。この点について、
フロイトの学説は説明できない。!、と、2、の説のほかに、第3の説がなければな
らないのである。
ユングの集合的無意識
この、自分の中に自分の知らない自分がいて、それが自分の行動を決定する、とい
うフロイトの考えは、近代心理学がすすむにつれて、ますます顕著になってきた。
フロイトのこの考えにつづいて、カールーグスタフーユング
があらわれて、フロイトの無意識概念を拡大し、遡及したのである。
かれは、無意識の意識の根源を、人類共通の太古時代に求ぬるのである。いうなら
ば、フロイトは、人間の幼少期にその根源を見出すが、ユングは、人類の幼少期にそ
れを求めるのである。かれによれば、無意識は、人類の太古時代にその源を発して
いるという。
これはたいへん興味ぶかい。フロイトは、どこまでも「個」に原因を求めるが、ユ
ングは「多」であり、「集団」にそれを求めようとする。
これは、フロイトにない領域をひろめようとするものである。わたくしの求めるも
のも、そのなかにあるのではなかろうか? わたくしはひたすら、ユングを追求した
のである。
ユングによると、人類が、その欲望と期待を挫折させるだけだったその当時の自然
と社会では、人類はつねに本源的不安に直面して悩まされてきた。その源初的不安と
葛藤の痕跡が、無意識層にふかくきざみこまれており、この集合的無意識の葛藤は、
各人の意識のみならず、ユングが太古類型とよんだイメージや象徴にもあらわれてい
るとする。
この太古類型は、人類の大きなコンプレックスを表現しており、そのもろもろの形
態とテーマは、あらゆる宗教、あらゆる民話に見いだされるというのである。
たしかにこのユングの説は、フロイトの説が点だとすると、面にまで拡大したもの
であり、無意識の意識層において人類は共通の場を持つという指摘は、偉大な業績と
いえる。
けれども、これは、人類共通の無意識(の葛藤・抑圧)を論じているのであって、
その人類という集団の中の個(たとえばN氏やリード氏)の抑圧・葛藤について、太
古時代のそれと、どうかかわりを見いだしたらよいのか、そこのところが説明できな
いのである。そこを、どう考えるべきか?
われわれは、さらにべつな学説に目を転ぜねばならない。
第三の無意識層の発見
そうしてついにわたくしは、リポっポ学」にたどりついたのである。
それは、「家族的無意識」とも名づくべきあたらしい無意識層の発見であった。
かれは、個人の無意識層のなかに特殊な祖先の抑圧された欲望・葛藤が秘められて
おり、それが、子孫の運命の選択行動となってあらわれると考えるのである。
さきにのべた、無意識の意識の抑圧・葛藤を太古時代に求めるユングの考えかた
は、いうならば、人類共通の祖先にその根源を見いだそうとするわけである。
これにたいし、ソンディの「家族的無意識」は、特定の個人の。祖先にそれを求めよ
うとするわけである。
要するに、それまで深層心理学は、おおづかみに分けて、フロイトの個人の無意識
層と、ユングの集合的無意識層(群衆心理学)と、この二つの「層」が研究対象とさ
れていたのである。ところが、ソンディの運命分析心理学は、それらの層の中間にあ
る「家族的無意識」という無意識の第三番目の領域を、研究対象として把握したので
ある。
つまり、「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけだ。これは無意識の
特別な領域である。
この家族的無意識というのは、ソンディによると、
個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友
情・職業・疾病・および死亡の型式における無意識的選択行動