それは、一ロでいうと、
「生きているほんとうの仏さま」である。
そういうと、すぐに、こういうひとがいるかもしれない。
「生きている仏さま、というが、仏さまというものは、お寺の本堂におまつりされて
いるものではないのか? 生きている仏さまなんて聞いたことがない」
そうではないのである。お寺の本堂におまつりされているのは、仏像であって、仏
ではないのである。いうならば、仏さまの模型であって、実物の仏さまではないのである。
仏像、という。像という字を字典で引いてみると、〃神仏・人・獣などの形態を模
して造り、または描いたもの”とある。つまり、お寺の本堂にあるのは、仏さまの模
型であって、じっさいの仏さまそのものではないのである。
では、”じっさいの仏さま””仏さまそのもの″とはどういう仏さまか?
いうまでもなく、それは、シャカである。
仏教史上、仏さま、即ち仏陀になられたかたはシャカしかいない。いろいろさまざ
まな仏がっくり出されているが、じっさいに仏陀になられたかたは、シヤ力しかいな
いのである。これは、どんなひとでもみとめざるを得ない事実である。お寺の本堂に
おまつりされている仏さまは、あれは実在した仏さまではなく、すべて仮空の、いう
なれば、空想上、概念上の仏さまである。そういう仏さまを像にしたものであるか
ら、ほんとうの仏さまではない、というのである。ほんとうの仏さま、といったら、
歴史上、実存したシャカ仏しかいないのである。
「ははあ、なるほど、そうすると、生きているほんとうの仏さま、というと、生きて
いるシャカ、ということになりますね?」
その通り。
「そうすると、守護仏というのは、生きているシヤ力のことなんですか?」
まさにその通りだ。
「へええ、これはおどろいた。いまあなたがおっしゃった歴史的に実在したシャカと
いうのは、いまから二千数百年も前に、おなくなりになっているんじゃないんです
か? すると、タイムマシンかなにかで、生きていた頃のオシャカさまを、この世に
おつれしたということなんてすか?」
タイムマシンなんか使わなくても、生きているオシャカさまはこの世にいらっしゃるのだ。
「へええ、あなたは少し頭がおかしいんじゃありませんか?」
おかしいかおかしくないか、まあ、わたしのはなしをようく聞け。
「はい、はい」
三重の釈迦
密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生身のシャカ
の本体とするのである。御遺骨、御遣身が、生きているシャカの本体なのである。
仏の本質を緻密に芸術化し、象徴化して表現する点で、密教はもっともすぐれている。
その密教では、シャカに三重あることを説いている。これを「三重の釈迦」という。
第一重のシヤ力は、胎蔵界マンダラ中台八葉院にまつられている四仏の一つで、「天
鼓雷音仏」という名前でまつられてい。る。
この名前は、涅槃の智慧を、天鼓(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる
仏、という意味で、つまりシャカの説いた教法を、仏として表現したのである。自性
身の仏ともいう。
第二重のシャカは、胎蔵界マンダラ釈迦院のシャカで、これが、生身のシャカの本
体とされる。本尊としてえがかれているのが、如来牙、如来舌など、生身のシャカの
御遺骨、御道身である。
第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられた
シャカ。これは生身のシャカである。
つまり、
第一重……生身のシャカの教法
第二重……生身の生身の本体
第三重……生身のシャカ
とこうなるのである。
第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしま
っている。そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、
生身の釈迦如来とするのである。
もっとも、密教が、御遺骨(仏舎利という)をもって生身のシャカの本体として、
釈迦院にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。
仏教の発祥地インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。
シャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーパ
(塔)におまつりし、シ″力そのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な霊験
功徳があいついだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。
これは、考えてみれば当然のことで、シャカなきあと、仏教を信仰するとしたら、
シャカの残した教法(阿含経)と、シャカ仏本尊として御遺骨をおまつりするしかないわけである。
しかし、そういう理くつ以上に、なによりも、仏舎利をおまつりして信仰すると、
奇蹟的な霊験功徳が得られるという事実が、インド全土に仏舎利信仰のひろがった理
由であろう。
密教は、この事実を、マンダラに図像化したわけで、それは、密教が、仏舎利信仰
をこういうかたちでマンダラにとり入れなければならなかったほど、当時、仏舎利信
仰が盛んだったということであろう。
お経や論書にも、仏舎利の霊験功徳が、おびただしくしるされている。そのいずれ
においても、仏舎利は、「生ける仏陀」「生きている釈尊」として尊崇されているので
ある。それは理くつを越えたもので、例えば、かずあるお経のなかには、そのお経の
説いている教義と関係なく、突然、仏舎利の霊験功徳が飛び出してきたりする。思う
に、これは、その霊験功徳の偉大さに感激して思わずそういうかたちでほとばしり出
たものとみてよいのではなかろうか。
経論のほかに、奇蹟的な体験談もかず多く残されている。それを集めたら、それだ
けで大部の書物ができあがるほどである。