現代日本語百科   けふも  お元気ですか

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ニュース20140117

2014-01-17 | きょうのニューストピック
大震災から19年の日を迎えた。もう20年目になるわけだ。思いが深い。20140118中日新聞トップ記事の見出しは、阪神大震災今日19年 とある。リードには、六千四百三十四人が犠牲になった阪神大震災は十七日で発生から十九年、とある。続けて、契約期限が迫り高齢者が転居を迫られている復興住宅や、震災の教訓をどのように次世代に継承するかなど残された課題は多く、南海トラフ巨大地震の対策も急がれる、と見える。記事の中、大きく見出しにするのは、最後の遺児 今春巣立ち 奨学金募金 使命全う 愛知 とあって、その書き出しには、阪神大震災で親を失った子供たちを支援しようと、愛知県の高校生で作る「奨学金を贈る会」が毎月十七日、名古屋市中区の繁華街で続けてきた街頭募金がきょうで幕を閉じる、とある。記事左の見出しは、景気「回復」 全地域に 日銀判断 増税控え消費増 とある。記事には、日銀は十六日、全国九地区の景気の動きをまとめた一月の「地域経済報告」(サクラリポート)を発表した、と見える。 . . . 本文を読む

221 忖度する

2014-01-17 | 日本語新百科
現代日本語「誤」百科 922 いろいろな状況を忖度する を例題にしている。忖度は、呉音で、じゅん、と読む。じゅん は、忖 の呉音、他人の心をおしはかること。*文明本節用集〔室町中〕「忖度 シュント 推量義也 この日本国語大辞典の用例では、 そん‐たく 【忖度】 〔名〕 (「忖」も「度」もはかる意) 他人の心中やその考えなどを推しはかること。推量。推測。推察。 *菅家後集〔903頃〕叙意一百韻「舂韲由〓造化〓忖度委〓陶〓〓」 *東京新繁昌記〔1874~76〕〈服部誠一〉初・人力車「盖し人の行く所を忖度(〈注〉ハカル)して而して何れの帰りと唱ふ者は」 *文明論之概略〔1875〕〈福沢諭吉〉二・四「他人の心を忖度す可らざるは固より論を俟たず」 *浮雲〔1887~89〕〈二葉亭四迷〉一・一一「文三の感情、思想を忖度し得ないのも勿論の事では有るが」 *近代絵画〔1954~58〕〈小林秀雄〉ピカソ「ピカソの真意を忖度(ソンタク)しようとすると」 *詩経‐小雅・巧言「他人有心、予忖度之」    と見える。用例を検索すると、  >しかしながら時間軸を念頭におけば、やがて彼らが若い研究者たちと連帯して研究所を率いてゆく体制へ移行することが抗し難い必然であります。この状況を忖度(そんたく)しますと、この方針は苦渋の選択という他に言葉はありませんが、新研究所が長期に亘って大きく発展していくためには、組織運営に携わる人材の育成もまた不可避であると思われます。  と、ヒットして、文脈上で状況が他者また研究者を想定していることが分かる。 . . . 本文を読む

意志

2014-01-17 | 日本語百科
意志は意思と使い分けられるようである。用語で意志とするものに、何かをする考え、決意のような使い方となる。それに対して、意思は法律用語に、この表記を用いることをふつうとするようである。辞書にも、意思の表記にして、それを一般の用法とするものがある。字義の違いによるところもあるが、will、英語の訳語としての定着とその語の定義によって、意志はとらえ方のある、哲学用語の難しい語となっている。志の字は、古くは誌・識の意に用い、むしろ心にある意こそが初義であろう、とする。士が之であり、これはもと止と同形であったと言う。思の字は、田に付いて正字が脳蓋の象形であり、人の思惟するはたらきのあるところ、深く思慮することをいう字である、とも見える。以上は字義は字訓による。志を、こころざし、と訓じて、心にあるもの、本心とし、しるす、心にしるす、おぼえる、かきとめる、こころざし、のぞみ、ねがい、めざす、などをあてていた。この説明に従えば、志が心にとめるものであって、これが普通に、意と言うことなのである。 . . . 本文を読む

1.17

2014-01-17 | わくわく
19年が経った。阪神・淡路大震災で6434人がなくなった。マグニチュード7.3、直下型地震の被災は約25万棟の全半壊を出した。早朝午前5時46分のことは忘れない。夜明けに襲った地震でテレビの画面は地震のニュース報道でうまった。西宮、芦屋、神戸そして淡路島、阪神高速道路の倒壊、ビル街の崩壊、家々が焼け出される様子は筆舌に尽きる。空中から中継をするヘリコプターの映像は画面上にまざまざと炎の広がるあの家この家を映し出していた。パンをするカメラに動きを移すヘリコプターのその先には直下に故郷があった。そこには兄弟姉妹が住む場所がある。燃える炎が迫る。地上の交通は寸断されて道路は阪神間で混乱状態を呈していた。鉄道は甲子園駅までの折り返しを運転し神戸以西までの不通になった。テレビのニュース報道を見るたびにいたたまれなくなり、兄弟親族を訪ねることにした。震災後1週間、2週間と出かけた。水と非常食をもって阪神国道を歩き、異人外の北山通りを歩いて、目にしたものがあった。それは記憶から消えない。 . . . 本文を読む