書き継ぐのは理想の女性をモチーフにしての物語である。それは恋の物語の、現代風の言葉でいえば、男目線であるのか、女目線であるのか。女房達のひそひそ話はそれを語らなかった。それは理想の男性の誕生をまことしやかにあれやこれやと言ってきたにすぎない。はたして、その話の深層にあるのは、物語は舞台を転じて、品定めをした、あの語りを伝える。物語の評者たちは、後世の評釈に見えるところ、それは物語の伏線と伝えてきた語り口調であるととらえた。伏線は、辞書義にあるように、>小説や戯曲などで、のちの展開に備えてそれに関連した事柄を前のほうでほのめかしておくこと。 というが、すでに源氏物語の作者はその用意をした。推理小説などでも伏線を張るというようだが、近代小説の技法が源氏物語の時代にあったということではないが、ともすればその見方が成り立つように、源氏の物語展開には語りのいきさつがある。
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文章の要素には主語と述語を必須成分とする。文に主語があらわされていなくても、その主語を文章によって、読み手、聞き手は知り得ることになる。その意味内容では文に主語があらわされないということがあれば、それは表現者が主語となり得る話し言葉である。しかし述語の文にはその関係構成をする語があるので、そこに文の要素として主語が想定でき、それを文章から得ていることがわかる。文章の要素には文法の文の要素をあげることができるが、行われている文法議論には、補語述語による文構造の捉え方があって、その補語の概念が拡大しすぎていて日本語文法を説明することがない。文の基本概念が主語をもたない、それは主格補語となるようで、その語を主語とするのか、補語とする説明では、文の概念が明確でなくなっているようである。 . . . 本文を読む