源氏物語を愛の物語とする、愛の葛藤を描き上げたと、わたしは書いた。そしてそれが読者に許されない愛であったとして、源氏の愛した女性とのかかわりを考える。平安時代の男女は、現在でいう、婚姻関係をどう持ったか。世に言う足入れ婚の、通い婚であった。それは風習としてのことであるが、婚姻は配偶関係の締結のほか配偶関係の状態をも含めた概念としても説明しうるので、いまから考えれば、その婚姻を分類して複婚制 Polygamy、一夫多妻制 Polygynyであったとする。妻妾制度をもってする見方は、さかのぼって後宮の取り決めにある。貴族はそれを範とするところがあったろう。源氏の出生がそうであったように、それは更衣を母として持つ。源氏には女性を思慕する愛があったのを、作者は母の思いとするものを、母性本能から得たのである。それを主人公に投影した。 . . . 本文を読む
研究会に出席をして、タイトルは、従属節ように、継起表現の習得、日中同形同義語、中国語台湾における新語、の話を聞いた。一橋大学国際研究官4Fで5日の午後だった。秋深くといい条、初冬であるが、黄葉が見事であった。国立キャンパスの東館で有意義なひとときを過ごした。さて、同形同義についての招待発表を目指した参加出席である。中日同形語は2011年に博士学生の学位論文であった。それを扱ったから、博士の網羅したもののとらえ方、その後の研究展開があるかと思い、参加出席をした。それからの動向は盛んに、同形同義語というタイトルが目について、すでに、5年前にもそのとらえ方があって、言語における同形同義語の存在はないと言ってきたのであるが、こと、同義語を同音によって見ようとするのと違って、同形であるとの規定であるから、中日言語間の漢字のことになる。それでも、康煕字典体をもって日本語の漢字の字体を採用した経緯と、新中国での簡体字を採用しての言語対照では、やはり、同形にはならないものが多い。それでも出自を見て、同字形と判断すればということなのであろうが、それをもって同形というのは少し考えれば無理があることがわかる。すなわち言語間における借用語の関係で、同義のままに取り入れた言語に意味内容が備わると考えることはできないのである。意味の内容を、その語その語において判定するのは、その言語環境においてだからである。同形同義の発想には、そうあってしかるべく、語の関係が認められることからであるが、文学作品のままに、文物移入のそのものを示して、どちらの移入であっても、限られた作品、、モノとことになる。そもそもこの研究の流れは、日本語の漢語を新語として取り入れた中国語が同じように用いているのではないという主張からである。人民、共和という語が日本語由来であるか、あるいは中国から日本経由で翻訳語となったか、中国語看護にとってはその出自が問題なのであろう。 . . . 本文を読む