どうも、よろしくない、それは、内外の国難についてである。内政には正義をかざして戦おうとする、その様子が、国政をひっくり返そうとする。これはオリンピックが終わってそのタイミングで騒ぎだそうという、官僚のリークによるか、出されていたニュースである。誤報とか、捏造とか、そうあったとしても、フェイクの時代に、なにが本当であるかわからなくする戦法である。疑いだけをもってニュースとすることで、その騒ぎに乗じてネズミを、オオだぬきを、いずれかをあぶりだそうとしている。証拠なく騒ぎ、繰り返される輿論づくりには、手法が問われて、その意図するところが見えてくる。おそがいことである。外に転じれば、南北朝鮮の対話が実現する動きで、オリンピックの政治効果とでもいうべき、それを遠目にして眺めていれば、きわめて巧妙に日本包囲が始まっているのである。非核かという到達点はこれではあり得ない。むしろ、核保有の必要性の論議には交渉事をもってして、その核の矛先をどこに向けているかという話がだんだんと見え始める。日本人にはこの経緯がよくわかる。資源エネルギーを求めたかつての追い込まれた状況は、核エネルギーをどう使うかと追い込んでいくようである。 . . . 本文を読む
木瓜日記は朝の時間帯にサイトを開く。したがって、その日のことを終わって書くのではないことが多い。それまでのことから、その将来することになるから、何を書くか、何をするかと、案じている。仕事があればスケジュールに従って、そのことを思い合わせながら、記録が備忘のようにもなる。書こうとすることがその背景を持つので、読むと、あとから書き加えることがある。情報のゆえんである。その読み直しによって誤字の多いのをまた訂正しているから、ましになって読めるようにしているつもりであるから、これまた、時間制約も関係している。10年前の2007年を再録して、やっていることが変わらない、おなじことをしているとわかるから、その効用は如何にとらえるか。ボケをわかるにはいいかもしれない。 . . . 本文を読む