日本と書いてヤマトと読むことで対外的な表記としてきたと言ってよい。日本と表記して、万葉集の表記にあるこの2文字は、日本語を意識する訓読みがあって訓詁すれば、ヤマトでしかない。つまりはヤマトそのものが国号であった。ただヤマトには大和の表記、中国史書の表記する、倭にも同様の読みがあるので、倭の奴の国王、そう呼ばれたところを、ヤマトの、ヌの国王とするか、倭の表記を和に変えたので、それを大和として、ワ、ダイワではない、ヤマトに定着する。しかもそれは日本にも訓読みをしたであろうから、ヤマト政権からこのかた、表記に、日本としてはいても音読みをしたか、どうかである。日本国の王と書いた書状を送っている。日本国天皇と御名御璽をみるなら、やまとのくに あめのしたしろしめすすめらみこと というふうに、読むべきものであるか、
にっぽんこく てんこう、にほんくに てんおう、じっぽんこく てんのう
とよむのか。現在の象徴天皇には、現代音のままに、よみならわしているのである。 . . . 本文を読む
ぼけ日記の記録におどろかされるのは1年前の税申告日が同じであったことである。かくも似たことを繰り返していることである。何を考え、何をしようとしたか、それは記憶になって積み重ねている。ホワイトデーに返し物を探しにデパートに出てそこにあったセールが、今年はなかったので、似たことの繰り返しには環境の変化があれば、そのときだけのものとなって、きょうは10年前の日には南京から帰国しているから、その記憶がいまでは、ないので、これまた積み重ねの襞に隠れている。 . . . 本文を読む